第十四話 窮すれば通ず(2)
――その女は、
――鳶色の愛らしい瞳をしていた。
――鈴を転がすような涼やかな声をしていた。
――涼やかな声で、優しく、何度も名を呼んだ。
――かつて、自分が持っていた名を……
――今は失ってしまった……俺の名を……
青洲が思うに、怪物に脇を挟まれて空中を飛ぶという奇怪な経験は、一生に一度で十分だと思う。厳密に言うと、怪物は飛んだのではない跳んだのだ。野いちごの茂みまで、怪物は三度跳躍した。その度に、青洲は自由落下による浮遊感と着地による衝撃を繰り返す。安全だと保証付きの遊園地の遊具でさえ十分怖いのに、その保証がない怪物の腕に抱えられて跳躍を繰り返しながら、青洲は血が泡立つ恐怖を感じていた。野いちごの葉に触れられる場所まで来たところで、怪物は青洲を放した。放された青洲は、その場にへたりこむ。
『着いたぞ。ここでいいのか?』
「……あ、ああ、ここで、いい」
壊れたおもちゃの人形のように、青洲は、へたり込んだままコクコクと首を何度も縦に振った。
一息ついて見回すと、地面は辺り一面白い花びらで覆い尽くされていた。野いちごの馥郁とした香りが、その場を包み込んでいて、何故だか青洲を切ない気持にさせる。野いちごの茂みは、無数に伸びた蔓同士が絡み合って、まるで巨大な塔のようだ。野いちごは、上空の霞みの中に吸い込まれるように、どこまでもどこまでも伸びていて、その先端は下から見ることができない。ジャックと豆の木の野いちごバージョンだ。やがて、青洲は沈黙したまま、座りこんだ。
――ああ、なるほど、確かに、ここにいずみがいる。
青洲はそう確信する。いずみがいつも纏っている気配、それがこの野いちごの茂みから発散されていた。
「いずみちゃん、ここまで来たよ。俺はこれからどうすればいい? どうしたら君に辿りつける? 君に……会いたい……会いたいんだ」
野いちごの蔓にそっと手を這わせながら、青洲は問いかける。しかし青洲の問いかけに答えは無く、ただ、はらはらと花びらが舞い降りる。
ふと気づいて視線を移すと、野いちごの前で怪物が不思議な行動をとっていた。デカい手の親指と人差し指を使って、ガラス細工でも触ろうとしているかのように用心深く、野いちごの細い枝をかき分けては、覗きこみ、またかき分けては覗きこむ。小さな子どもが通れるくらいのトンネルができたところで、怪物はトンネルに向かっておいでおいでをした。
何事かと、後ろから青洲が見守っていると、中から何やらぼんやりと光る塊が三つモゾモゾと這い出してきた。光の塊は、野いちごの外に出ると、むくむく変形して子どもの形になった。青洲はゴシゴシと目を擦る。小さな子どもだ。幼稚園にあがる前よりもまだ小さいかもしれない。
その小さな子どもたちの前で、怪物は可能な限り体を小さくして屈みこみ、何度かその鋭い鉤爪付きのゴツい手で、子どもたちを触ろうとしてはやめ、触ろうとしてはやめを繰り返し、ついには観念したように青洲を振り返った。
『ちょいと手伝ってくれないか? この子たちの呪を解いてやりたいのだが……』
先ほどのしゃべりかたとは声が全く違う。子どもたちを怖がらせない為なのか、野太い声をなるべく出さないように努力しているらしい。青洲は唖然としつつ、ぎこちなく頷く。
「あ? あ、ああ、いいよ。どうすればいいんだ?」
『口を塞いでいる野いちごの蔓があるだろう? それの結び目を掴んでくれ』
「口を塞いでいる蔓? どこにそんなものが……」
確かに子どもたちの口は、何かで貼り付けられているのかと思うくらい、真一文字に引き結ばれている。
『もしかして、おまえには見えないのか? 見えないくせに、よくここまで来られたものだな』
怪物はあきれたように青洲を見たが、自分が引っ張りこんでおきながら、よく来られたは、ないものだと青洲はため息をつく。
「見えなければ手伝えないのか?」
『いや、俺が指示した場所を掴んでくれ』
青洲が指示された場所を手さぐりでつかむと、つかんだ方の青洲の腕を怪物がつかんで、何やらぶつぶつと呟く。怪物が呪文を唱え終わると、まるでジッパーが下ろされたように、小さな口がぽかんと開いた。金魚が苦しげに呼吸をするように、しばらくパクパクと口を閉じたり開いたりした後、男の子は突然青洲目指して飛びかかってきた。
『おじさんっ!』
小さな手が、青洲のズボンの膝上を握りしめてしがみつく。
「えっ?」
青洲は硬直したまま、怪物を見上げる。怪物は一瞬、腑に落ちない顔をしたが、すぐさま青洲に次の指示を出して、次々と呪を解除していった。三人すべてを解除した時、青洲は一人を肩車し、一人をおんぶし、そして残りの一人を抱っこするという状態になっていた。
『おまえが、その子たちの父親なのか?』
訝しげに問う怪物に、青洲は首を激しく横に振った。同時に子どもたちも激しく首を横に振る。
「君たちは誰だい? 俺の知ってる子?」
青洲がそう聞いた途端、子どもたちは口々にがなりたてた。
いずみが……とか、野いちごの封印が……とか、ガゴウジが……とか、霊魂が……とか、青洲が……とか、それぞれがそれぞれに言いたいことを一気にまくしたてるので、何が何だか分からない。
「ちょっと、ストップ、ストップ。一人ずつ話さなきゃダメだ。ちっとも聞きとれない」
青洲も怪物と同じように、地面に座り込んで子どもたちの目線に合わせる。子どもたちは、男の子二人と女の子一人という構成のようだ。兄妹なのだろう、面ざしがよく似ている。そして、もう一人、面ざしが似ている人に青洲は心当たりがあった。
――この子たち、いずみちゃんに良く似ている。
一人ずつと言われて、一人の男の子が話し始めた。
『僕たち、この世に生まれられなかったいずみの兄姉なんです。いずみの中にガゴウジが入りこんできて、それでいずみ、依り代になっちゃったんです。あり得ないことなのに……僕たちは神器なのに……』
口ごもる男の子の後を、女の子が引き取る。
『でも、いずみは契約を結ぶことができなかったの。だって、神器なんだもの。依り代になれるわけがないんだから……』
子どもたちの説明はこうだった。いずみは、複雑な資質を持っているのだ。依り代となる志木家の血と、依り代になれない神器の血。しかも神器のうち、鎮める為の鈴守家の血と、縛る為の名和家の血を受け継いでいる。鎮める為の血は魂魄を引き寄せ、縛る為の血が繋ぎとめる。結果として、結界の中には魂魄がひしめき合い、離れようにも離れられない状態になっているのだそうだ。しかも、依り代となりながら、契約を結べないままなので、依り代としても機能しない。様々な霊魂が、あの野いちごの結界の中で怨磋の声をあげて渦巻いているのだと言う。
「どうなるんだ? どうすればいい?」
子どもたちの説明に、青洲は困惑する。
『このままでは、結界がもたない。見てよ、ほら』
指し示された野いちごの根っこの部分を見ると、他の部分とは違って赤みがかった金の色が光を乱反射している。
『このままだと、いずみ自身が封印として結晶化してしまうわ。青洲さん、助けてやって、お願いよ』
青洲は瞠目する。島にやってきた歴史学者が神社裏の禁足地から掘り出したという封印。彼は、それをヒヒイロカネと間違えたのだった。太陽のように赤い色で、古代日本で使われていたと言う謎の金属。
――封印として結晶……
『おじさん、いずみは俺たちの妹なんだ。力を貸してやってくれよ』
「どうすればいいんだ?」
『いずみは自分の名前を失ってる。探し出して、思い出させて欲しいんだ』
「それは、この中に入らなければならないということか?」
三人は、一斉に頷いた。
この中に入ると言うことは、つまり、青洲自身が霊魂にならねばならないと言うことだ。青洲はごくりと唾を飲み込んだ。
いずみを助ける、その為にここまでやってきた。
「……いいよ、やろう」
少しの沈黙の後、青洲は静かに頷いた。




