第二話 冬来たりなば春遠からじ(2)
『なんとかしてあげるから、いずみちゃんは、何も心配しなくていいんだよ』
――おじさんはそう言ったけど、何とかするって、何とするんだろう?
青洲は、背の高いオフィスビルを見上げて立っていた。もう二度とここに来ることはないと思っていた。
エレベーターから、スーツを着た集団が下りてきた。彼らのうちの数人が、青洲の埃っぽい作業着を見て顔を顰めたが、ほとんどの人が青洲には目もくれずに歩き去って行く。しかし、その中に一人だけ、目を見張って青洲を見ていた人物がいた。
青洲は、それに気づかぬ様子で、入れ違いにエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押すと手慣れた様子でドアを閉めた。
あの日の夜、どしゃ降りの雨の中、通りを歩いていたのはオレンジを探していたからだった。薫が好きだったオレンジ。
――どうしてこの日を忘れていたのか……。
愕然とした心持で雨の中を歩き回る。時間は残酷だ。忘れたくないものも、忘れたいものも、冷酷なまでに平等に扱う。
午後十時を過ぎると、さすがにスーパーは閉まっていて、オレンジを売っているようなコンビニは近くになく、それでも諦めきれずに街じゅうを歩き回った。
児童公園の公衆トイレの近くの木の下に、何かが蹲っているのを見つけたのは、そんな時だった。
フードを目深にかぶって、こうしていれば、誰にも気づかれないとでも思っているかのように丸く縮まっていた。一度目は、浮浪者かと、ちらっと見て通り過ぎた。二度目は、普通の浮浪者ならば、もっと雨がしのげる駅中などに避難するだろうに、と疑問に思って通り過ぎた。三度目に通り過ぎた時、もしかしたら、これは子供ではないだろうかと疑問に思った。どんなに縮こまっていたとしても、サイズ的に小さい気がしたからだ。
「君、どうしたの? 風邪をひくよ?」
このまま見過ごせそうにないと諦めて、声をかけた。
「……」
カールした長い睫毛に縁どられた大きな瞳が、怯えたように自分に向けられて、青洲はたじろいだ。
「女の子? 君、こんなところで何をしてるんだい?」
「今日は、すごくついていないから、ここにこうしていれば簡単に死ねるんじゃないかしらって思ってたところなのよ」
か細く頼りない、それでいて、どこかしらのんびりとした調子の声に、青洲はぎょっと目を見開いた。
「君、死ぬつもりなの? 死にたいの?」
「分かんないの……どうしたらいいか分からないから、とりあえず立ち止まってるってとこ?」
女の子には、それ程深刻そうな雰囲気はなく、本当にただ途方に暮れているように見えた。
「とりあえず立ち止まっているだけなら、うちにおいで。雨に打たれて考えるよりも、ずっとよく頭が働くと思うよ?」
「おじさんち?」
「狭くて、汚いけどね」
青洲は肩を竦めた。
これが、いずみとの出会いだった。
「青洲様、戻っていらしたのですかっ!」
ドアをノックして開けるなり、ダークスーツを着こなした初老の男がかけよってきた。
「中川、期待に添えなくて悪いんだが、戻ってきた訳ではないよ。実は、少しばかり力を貸して欲しくてね」
「青洲様、旦那様がどれほどご心配されているか、お考えになってはいただけませんか?」
「俺がいなくたって、赤秀も白舟もいる。俺のことはもう忘れてくれと言っておいてくれないか?」
「青洲様っ!」
「この子の母親を探して欲しいんだ。できれば、この子の身元も調べてくれるとなお良い。赤秀には知られないようにしてくれ」
「赤秀様は、今や吉田グループを束ねておられるお方です。隠しだてすることは不可能かと……」
「そうか……そうだな。なら、いい。今の話はなかったことにしてくれ。邪魔したな」
聞き入れてもらえないだろうことは想定内だ。ダメ元で力を借りに来た。自分の甘さに苦笑する。
多少時間はかかるかもしれないが、自分で調べるしかなさそうだ。さっさと踵を返そうとする青洲に、中川が取り縋るように手を伸ばした。
「お待ちください。分かりました、赤秀様のお耳には、なるべく、入れないように致します。それでよろしければ……」
中川は苦渋の選択だとでも言いたげに、悲壮感溢れる表情で言った。
「なるべく……ね」
青洲は苦笑する。
――五分五分ぐらいだろうか。甘いか。
「分かり次第ご連絡さしあげます。ご連絡先をお知らせください」
「一週間後にまた来る」
「青洲様っ!」
中川の声をドア越しに聞きながら、青洲は足早に部屋を後にした。
ビルを出てすぐ、青洲は一人の男に、突然背後から腕を掴まれた。ぐいぐいとひっぱられて、ビルの裏に連れて行かれる。
「おい……白舟、なんでお前がこんなところにいるんだ? 病院を放っておいていいのか?」
青洲は引っ張られながら顔をしかめる。
「兄さんに職場放棄を責められるとは思わなかったな」
白舟と呼ばれた背の高い男も顔をしかめる。
「なんでばれた?」
「小橋から連絡があった。兄さんがエレベーターに乗りこんだところを見たって……」
――さっきエレベーターホールですれ違ったスーツ集団か、うっかりしていた。こんななりをしていたから、誰も気づかないだろうと油断していた。
「……兄さん、いつまで逃げ回っているつもり?」
白舟は鋭く青洲を睨みつけた。
青洲とは違うタイプのクリクリした大きな瞳が非難の色を露わにしている。
「……逃げてなんかないさ」
青洲は苦笑する。
「じゃあ、なんでそんな恰好をして、こそこそ戻ってきてるんだよ?連絡先さえ誰にも知らせないで」
「……」
「……おやじがガンなんだ」
白舟の言葉に、青洲は目を見開いた。
「今すぐどうこうという状態じゃないが、おやじも歳だからな、安心させてやることはできないのか?」
「……悪いな、お前らに全部背負わせて……」
「赤秀も良くやってるが、あいつだって、かなり無理をしている」
「そうか……」
「もう五年だぞ?」
「そうだったな。この前気づいて愕然としたよ」
「今、何をしてるんだよ」
「過去を暴く仕事を……ちょっとね」
青洲は苦笑する。
「何だよ、それ……」
「過去はどうやっても変えられない。それを思い知りたいのかもしれないな……」
「兄さん……」
「そのうち、連絡をとるよ。おやじにはそう伝えておいてくれ」
青洲は踵を返すと、雑踏の中に紛れて、消えた。
家に帰ると、食事の支度はできているようなのに、いずみの姿がなかった。
「いずみちゃん?」
青洲は狭い部屋の中を捜す。
「……おじさん?」
部屋の隅の、本の山の中から声がした。
「どうした? そんな所で……」
いずみは、初めて出会った時のように、ちんまりと膝を抱えて蹲っていた。
「もしかしたら、おじさんが戻ってこないんじゃないかと思って……。全部夢で、いずみ……また一人ぼっちになっちゃったんじゃないかって思ったら、怖くなって、それで……」
いずみは、顔を覆ってしゃくりあげた。
「ごめんよ。用事があって、遅くなってしまったんだ。遅くなるって言っておけばよかったね」
この部屋には電話がない。ケータイを持っているので、今までは少しも不都合を感じなかったからだ。
青洲は、隅っこに蹲って泣きじゃくるいずみを抱きあげて座ると、何度も背中を優しくさすった。震える肩から、いずみの孤独がジンジン伝わってくるようだ。あの雨の日、いずみは世界から零れ落ちてしまった気分だったのかもしれない。母親から見捨てられ、奉公先から追い出され、行くあてもなく、頼る人もなく……
「いずみちゃん、おじさんは、君の味方だから、君は何も心配しなくていいんだよ。君を一人ぼっちになんてしないから……」
いずみを落ち着かせようと言葉を探す。
茶色の髪の間からのぞく白いうなじが、やけに細すぎるような気がしてハラハラする。この涙を止める為ならば、何でもしてあげたいと思っている自分に驚く。
いずみは青洲の存在を確認するように、髪や背中や頬を指先でぎこちなくなぞっていたが、やがて納得したように濡れた瞳のまま小さく微笑んだ。
青洲はたまらず、軽い口づけを何度も落とした。
「……んっ」
小さく洩れるいずみの吐息に煽られるように、更に深く口づける。
「ダメだよ、いずみちゃんがそんなかわいい声で煽るから、おじさん、キスだけで済まなくなっちゃいそうだ」
青洲は溜息をつくと、いずみを抱きしめた。




