第十三話 疾風に勁草を知る(4)
「司っ、大丈夫ですか?」
声とともに、ばたばたと複数の足音がして、呆然と立ちつくす司と秋子の後ろでピタリと止まる。
「これは一体……」
青洲とともに駆けつけた佐川が絶句した。
野いちごの蔓は既に、中にいずみがいることなど分からない程びっしりと生い茂っていた。しかしその蔓は、秋子に見えないのと同様に青洲にも見えない。
「これ? 佐川、これって、どれのことだ?」
困惑したようすの青洲の声に、司が振り向く。
「吉田……青洲……」
呆然とした様子の司を、青洲が鋭く一瞥する。
「悪いが、邪魔をする。いずみを返して欲しいんでね」
「……返すも何も、彼女は勝手にここに来たのであって、俺が閉じ込めている訳でも、隠している訳でもありませんよ」
にらみ合う二人の脇を慌てた家人達が志木聖を病室へと運んでいく。家人たちにも野いちごが見えている様子は無く、坦々と作業は進められているようだ。
「司、いずみさんが自分から事を起こすまで、何もするなと僕は言いませんでしたか?」
こうなった経緯を司から聞いた佐川は、眉間にしわを寄せた。
「……こんなことになるとは思わなかったんだ」
司は憮然と返してから、小さくため息をつく。
「で……霊魂が離れようとしたところでこのような状態になったというのですか?」
「ああ。ヒルコは霊魂が既に離れようとしていると言っていたんだが、離れる前にこうなった。封印かもしれないとも言ってたな」
「と言うことは、彼女は依り代にならなかったということでしょうか」
佐川は顎の下に拳を当てる。
「いや、一旦依り代になったはずだ。しかし、何かの理由で契約が成立しなかった、ということだと思う」
「契約が……成立しない?」
佐川は眉間にしわを寄せる。
鬼を継承する者は、依り代となったのち霊と契約を交わす。依り代が望みを言い、霊がそれを叶える、という単純なものだ。霊は望みを叶えた代償として、叶えた望みと同等の魂を喰らうことができる。小さな望みならば僅かな魂を、大きな望みならば大量の魂を霊は喰らうことができる。そこで契約は成立する。
「最初に大きな望みを言ってしまえば、大量の魂を失う分だけ、自制心が損なわれる。だから、俺は、依り代となる前に、できるだけ魂を消耗しない訓練を受けて来た。しかし、彼女は違う……」
「だから契約が成立しなかったというのか?」
青洲が首を傾げる。
「いや、そうじゃない。正しい理由は俺にも分からない。契約が成立しなかったということは、どちらかが履行できなかったということだと思う。霊が望みを叶えられなかったか、鈴森いずみが望みを言わなかったか、もしくは、望みを叶えたのち、何らかの理由で、対価としての魂を喰らわれなかったか……」
「ちょっと待ってください、望みを言わなくても、契約が成立しないんですか?」
佐川が目を見開く。
「そうだ」
「その場合はどうなるんだ?」
驚いたように絶句して、考え込むように俯いた佐川を怪訝そうに見ながら、青洲が先を促す。
「一旦依り代になったのち、霊魂が離れれば依り代は死ぬ。契約が成立していようが、していまいが、これは同じだと思う。仁叔父の例がそうなんだろう。仁叔父は、憑かれたその日に他界している。本人に聞いた訳ではないから、何が起こったのか推測でしかないけどね。もしかしたら、血筋のようなものがあって彼女も似たような状態になっているのかもしれない。しかし、彼女の場合は、厳密な意味で、いまだ霊魂は離れていない。いや、離れられなくなっていると言った方が正確かもしれないが……どうする?」
司は佐川に答えを求めるように見つめる。
「いずれにしても、このままの状態を放っておく訳には行きませんね。とにかく揃えられる物を揃えて除霊をしてみましょう。これがいずみさんの施した封印ならば、鈴と名和は揃っているはずです。後は、石守の力なんですが……」
佐川は青洲の顔を見て、肩を竦める。
「おい、ちょっと待てよ。そんな適当なことをして、いずみちゃんは大丈夫なんだろうな」
青洲は眉間にしわを寄せた。
「そんなこと、誰にも分かりませんよ。だけど、このままでも大丈夫ではないでしょう?」
佐川が深刻な顔で見つめ返す。
「……本当に、ここにいずみちゃんが居るのか?」
生真面目な様子で頷く佐川に、青洲は廊下をもう一度探るように見つめた。
右手の窓側からは、窓越しの柔らかい光と緑陰が射し込んでいる。左手壁側には、各部屋のドアと、その間々には、花をモチーフにした抽象画が掛けられていたり、調度品がさりげなく飾られていたりする。廊下の行き止まりにもドアがあって、それすら、ここからはっきりと何の障害もなく見渡せる。
「……分からない」
青洲はいらだたしげに、手を突きだした。まるで暗闇の中を歩いているかのように手探りで進む。
「もう少し右です。そこに野いちごの、一番太い蔓があるんですが……」
つられたように、佐川も手を伸ばす。しかし、その野いちごの蔓は幻像のように、佐川にも触れることができない。何か目に見えないバリアのようなものがあって、そこから先に触れられない空間があるのだ。
青洲は佐川から事情を聞くと、何もないように見える空間を手さぐりでかき回す。しかし、青洲には、手探りをしようが、目を凝らそうが、何も感じられないのだ。
――俺は何もしてやることができないのか?
青洲の指先が空しく宙を掻く。
「ちくしょうっ」
めちゃくちゃに腕を振りまわした挙句、肩で息をしながら悪態をついていると、突然、何もない空間からにゅうっと青緑色の腕が伸びてきた。長い鉤爪にゴワゴワした剛毛の生えた腕。その腕が、青洲の胸ぐらをぐいっと掴むと、決して小柄ではない青洲の体を、いとも容易く空間の亀裂の中へ引っ張りこんだ。青洲の上半身が空気の裂け目に吸い込まれていく。
青洲は、一瞬、自分に何が起こったのか分からなかった。何か強い力にぐっと引き寄せられて、視界が一変する。先ほどまで見ていた廊下が消失し、白い靄の奥に、こんもりと茂った緑色の葉っぱと、今を盛りに咲き乱れている野いちごの花が出現したのだった。
――これは……
あっけにとられて目を見張る青洲は、上から降ってくるような野太いどら声で我に返った。
『おまえ、良い匂いがするな』
太い腕が、再び青洲の胸ぐらに伸びて、上着の襟を掴む。上着はまるでティッシュでできていたのかと思うほど、簡単にビリリッと破れた。破れたスーツの襟は、頭三つ分ほども上にあるその腕の持ち主の口にあてがわれた。どうやら舐めまわしているようだ。
――甘酒……か?
青洲は、あまりにも突然の出来事に、怖がるべきなのか喜ぶべきなのか、感情が迷子になってしまう。こんなにデカくて怪力な怪物なのだ。怖いと思って当然なのだろうが、何しろデカ過ぎて、顎から上の、その表情が全く見えないのだ。甘酒の匂いを喜んでいるようだが、危害を加えてこないとは限らない。しかしお陰で、どうやらいずみの封印の中に入れたようだ。あの野いちごの蔓の奥にいずみが居る、そう思うと、先へ進みたい気持ちが湧きあがる。とりあえず、せっかく入れた体が外に出てしまわないように、青洲はデカい怪物の足に生えている剛毛を一つかみすると、モヤッと煙っている封印の外側に、頭を押し出してみた。
外では、佐川と司が慌てた様子で、青洲の体を引っ張っていた。その後ろで、秋子がハラハラした様子で見つめている。
「おい、ちょっと、引っ張るのをやめてくれないか? 全部抜けたらもう入れなくなるかもしれないじゃないか」
青洲が首だけを出して、苦情を言うと、三人がそれぞれに悲鳴を上げて飛びのいた。
「きゃ―――」
「わぁぁぁぁ」
「ぎゃぁぁぁぁ」
三人の驚きように、青洲は一瞬ぽかんとする。しかし、自分の体の位置を見て、真っ青になった。青洲の体は、斜め四十五度に傾いたまま空気の中に上半身だけ消えている。なのに、青洲の首は、その体の隣下方からにょきと生え出しているようなのだ。自分の体を足元から見上げて、青洲は瞠目する。
「うわぁぁ、これはどうなってるんだ?」
「吉田さんっ、首がとれちゃった訳じゃないんですかっ」
佐川が真っ青な顔で問いかける。
「とれてないっ、とれてない……と思う……だって、俺、しゃべれるし……」
「そうですか……だったら良かった」
佐川が少しホッとした様子で、しかしまだ声を上ずらせたまま答えた。
「中に野いちごがあるんだ。俺、中に入ってみようと思う」
「大丈夫そうですか?」
「分からない。しかし、なんだかデカい怪物みたいなのがいるんだが、あれはどうしたらいい?」
「中に居るなら、恐らく霊魂の一つなんでしょう。なるべく口をきかない方が良いと思いますが、こればかりは僕にも何とも言いようがありません。ケースバイケースでしょうね」
「いずみに会えたら、俺は、どうすれば良い?」
「僕たちは、今から急いで除霊の準備を始めます。いずみさんに会えたら、できるならそこから連れ出してみてください。できなければ、いずみさんを元気づけてあげていてください。吉田さんがチアリーダーでもやってあげれば元気が出るんじゃないですか?」
にやりと笑う佐川を青洲が睨む。
「チアリーダはともかく、やるだけやってみる。後を頼む」
そう言い残すと、青洲の首は再び空気の亀裂の中にかき消え、次いで体もスルスルと消えて行った。
「秋子さん、ちょっとこれを持っていてもらえますか?」
佐川は持参していたスケッチブックを秋子に手渡す。
「これは?」
「これは、いずみさんが施した封印です。中をご覧になっても構いませんよ。あなたなら、その絵の真の意味がお分かりになるでしょう。いよいよ、あなたの力の見せ所になりそうですよ」
怪訝そうに見返す秋子に小さく笑うと、佐川はケータイを取り出した。
「あ、お祖母様ですか? 崇です。今、志木家にいるのですが、そちらで秋子さんに作ってもらっていた土偶が、もうできあがっていると思うんですが……ええ、あのヘンな形のあれです……」
苦笑いしている秋子に気づくと、
「あ、すみません、祖母は口が悪くて」と佐川はケータイを押えながら謝った。
「……今からそれを大至急、志木家へ届けて欲しいのですよ」
「あ、あの、それ……」
何か言いたげな秋子に気づく様子もなく、佐川は素っ頓狂な声を上げる。
「ええ? なんですか? 今度の誕生日にカメオが欲しい? 何言ってるんですか、こっちは、今それどころじゃ……ええ、そうですよっ!……分かっているなら、そんなこと言ってないで……分かりました。分かりましたよ。カメオですねっ。そのかわりに今から五分以内に届けてくださいよっ、でないと、百円ショップで買いますから、カメオ……ええ? なんですか?……秋子さんにもう届けてある?」
佐川は、絶句して秋子を見つめる。
「あの……ごめんなさい、あれなら私の部屋に置いてあります」
消え入るような声で謝る秋子の声と、
「百円ショップ以外で買ったカメオ、楽しみだわねぇ」と勝ち誇ったように声高にしゃべる祖母の声を聞きながら、佐川はがっくりとうなだれた。