第十三話 疾風に勁草を知る(3)
一通り手荷物のチェックを終えた野上メイド長は、傍でぼんやりと佇んでいる鈴森いずみに話しかけた。
「失礼ですが、軽く体に触れても構いませんか?」
「……」
しかし、いずみから返事がない。
「あの、鈴森様? ボディチェックをさせていただきたいのですが……」
相変わらず、反応のないいずみを怪訝そうに見つめながら、野上は軽くいずみの肩をゆする。
「鈴森様?」
野上の呼びかけに、ふと我に返ったようにいずみが見つめ返す。
「あの、ボディチェックを……」
野上の言葉を遮るように、いずみが口を開く。
「華陽さんはどこにいます? 教えてください」
先ほどまで、おどおどした様子だった鈴森いずみとは別人のようだ。野上は、一瞬怪訝そうに眉間にしわを寄せたが、すぐに完璧な接客用の笑顔を作る。
「大変申し訳ありませんが、華陽様は、ただいま体調を崩しておりまして、どなたにもお会いしたくないとおっしゃっているのです。もし、何かご用が御有りなのでしたら、当家の……」
「華陽さんの部屋を教えなさい」
再びいずみが野上の言葉を遮る。
「……華陽様にどのようなご用なのでしょうか」
不審そうに問う野上に、いずみがふわりとほほ笑みかける。
「殺します」
歌うように紡がれた言葉に、野上は一瞬絶句する。
「……鈴森様、そのようなことを御冗談でもおっしゃるのであれば……」
しかし、野上メイド長の言葉は三度遮られた。
「あなたは邪魔なだけのようです。しばらく眠っていてくださいね」
ほほ笑んで綻んだいずみの艶やかな唇から、黒い霧が現れて、それは野上の眼前で一旦小さな花の形を作ると、次の瞬間、すっと、野上の眉間に吸い込まれるように掻き消えた。同時に、野上は支える力を失い、どうっと床に崩れ落ちた。
慌てて客間に駆け込んできたメイドは蒼白だった。
「野上はどこだ?」
司の言葉に、メイドは震える声で返事をする。
「げっ、玄関ホールですっ」
大股で客間を後にする司の後を、秋子が小走りで追う。
――何が起こったの?
秋子は、何度も気配に耳を澄ます。先ほどまで感じていた、いつものあの人の温かい気配が唐突に消え、秋子が不審に思った次の瞬間、どす黒い闇か底なし沼のような冷たい気配が浮上したのだ。
――あの人に何かが起こったんだ。何か良くないことが……
秋子はぐっと拳を握りしめる。
玄関ホールには、野上メイド長が倒れており、オロオロと立ち尽くすメイド達と、野上の状態を確認している秘書の姿があった。
「野上っ」
「司様、ご心配には及びません。気を失っているだけのようです。今、運ばせますので」
父親の代から仕えている初老の秘書が、落ち着いた様子で報告する。
「医者は?」
「今、呼びに行かせました」
気を失っているだけにしては、やけに顔色が悪いようだ。不審に思った司は、野上の顔を覗きこみ、軽く瞠目する。
――呪が施されているのか……
司は、口の中でブツブツと呪を唱えると、野上の頭上に手をかざす。しかし、野上に施された呪は解ける気配を見せない。司はゴクリと唾を飲み込んだ。
施されている呪の印は、まぎれもなく志木家に巣食う霊のものだ。なのに司の命令をきかないということは、その霊が、志木家から完全に切り離されたということを意味する。
――そんなことが起こりうるのか?
野上は、その手に見なれない小さなキルト製の手提げを持っていたらしく、手の先に、その中身が散乱していた。司は、その中に入っていたらしい、安産祈願のお守りを手にする。
『ツカサ、鈴森いずみハ、二階ダ。でも近寄らないホウがイイ』
司の耳元でヒルコの声がする。
「どういうことだ?」
司の問いには答えずに、ヒルコは小さくクスクスとさざめき笑う。
『バケモノだ、アレは』
ふと、二階へ続く階段に目をやると、秋子が切迫した顔で、二階へ上っている。
「シュウ! だめだっ戻れっ」
『いずみ、だめだっ戻れっ』
耳元で耳ざわりな声が聞こえる。いずみは眉間にしわを寄せた。
『いずみ、お願いよ。目を覚ましてっ』
――なんてひどい雑音なの?
女の子の声のようだが、いずみには黒板を爪でひっかいているような音にしか聞こえない。
『いずみ~、そんなやつらと口きいちゃダメだって』
いずみは苦痛で顔を顰める。
「うるさいっ、だまって!」
いずみが声を張り上げると、耳ざわりな声はピタリとやんだが、今度は自分の声のひどさに唖然とした。自分の声のなんと不快なことか。
――私、こんなに嫌な声だったかしら……
志木家は、かなり大きな屋敷らしく、二階にもたくさんの部屋があった。
「華陽さん、どこ? どこにいるの?」
歌うように華陽に呼びかける。
長く続く廊下を歩いていると、壁に掛けられている絵画や、隅に飾られている骨董品らしい置物などから、次々と何かの影がするりと出てきては、いずみの中に吸い込まれていく。それが決して不快な訳ではないのだけど、それが入っていく度に、少しずつ自分の声への嫌悪感が増して行く。やがていずみは、口を閉ざした。
黙ったまま一つ一つドアを開けながら進んでいると、廊下のほぼ中央の一際豪奢な扉が、そろりと開いた。
「……いずみ……か?」
背の高い白髪の老人が立っていた。青白い顔をして、頬も、伸ばした手も痩せこけているのに、声は弱弱しく掠れているのに、その姿はどこかしら妖艶な空気を纏っている。
「あなたダレ?」
「儂は、おまえの祖父の兄、志木聖だ。ずっとおまえを捜していた。やはり生きていたのだな。秋乃はおまえが死んだと言い張っていたが……」
志木聖は薄く笑う。
「ねぇ、華陽さんはどこにいるの? 教えてよ」
虚ろな瞳で問いかけるいずみに、老人は瞠目する。
「いずみ……まさか、おまえ、鬼と契約を交わしたのか? そんな馬鹿なことがあるはずがない。おまえが鬼の継承者になるなどということが……神器であるはずのおまえが……ありえない……」
志木聖は、驚愕して首を何度も振る。
「華陽さんはドコ?」
「華陽をどうする?」
「殺します」
いずみの返答に、聖はごくりと唾を呑んだ。
「まさか……おまえ、それを頼んだのではなかろうな? まさか、それを霊達に命令したのではなかろうな?」
志木聖は、いずみの肩を掴むと、ガクガクと強い力で揺さぶる。しかし、悲鳴を上げたのはいずみではなく聖の方だった。
「うわぁぁぁぁ、やめろっっっ、やめてくれぇぇぇ」
いずみに触れた掌から、自分の中にあった闇が、物凄い勢いで流出していく。志木聖は苦痛に顔を歪ませながら悲鳴を上げた。
二階から聞こえてくる聖の悲鳴に、秋子の腕を掴んでいた司の手から力が抜ける。
「あれは?」
司は階段を駆け上がった。
廊下の先に、志木聖と鈴森いずみが対面する形で立ち尽くしているのが見えた。こちらからは、苦渋に歪んだ聖の顔しか見えない。
「お父さんっ」
慌てて駆け寄る司の耳に声が響く。
『ツカサ、あれにフレルな。しぬゾ』
ヒルコの忠告よりも先に、司の手が背を向けているいずみの肩に伸びる。
ドクッ ドクドクッ
擬音のままに、何かが自分の中から流れ出す。
――何?
いずみに触れた掌から、自分の中にある闇が急速に吸い取られていく。司がいずみに触れた途端、逆に聖は廊下の隅に弾かれて崩折れた。生きているのかいないのか、聖は廊下に干からびたように横たわる。
一方、司は、まるで感電してしまったように、いずみから手を離すことができない。魂までも吸い取られてしまいそうで、司の顔が苦渋に歪む。
『ツカサ、手をハナせ。すべての霊が、流出てしマエば、シヌ!』
いつもは単調で無機質なヒルコの声に焦りの色が混じる。
――しかし……
まるで強力な磁石に吸い付けられているかのように、触れている手を離せない。
――くそっ、こんなことで……
引こうが押そうが貼りついて動かない掌、徐々に脳内に空洞が広がりつつあるような空虚感。絶望的なまでの圧倒的な力に、司が呻く。
――ここまでと言うことか……
その瞬間、何が起こったのか司には、さっぱり分からなかった。何か細いロープのようなものが司の手に纏わりついて、特段強い力で引かれた訳でもないのに、はらり、と手はいずみから剥がれた。驚いて振り向いた司の目に、困惑した様子の秋子が映る。
「司さん? どうしたんですか?」
秋子の手が司の手をやんわりと掴んでいる。
「……シュウ……」
呆然と呟く司の耳に、ヒルコの声が響く。
『これは、ヒニクなコトだ。ナワに助けられるトハ』
「ヒルコ、どうなっているんだ? これは……そうだ! お父さんっ」
廊下に横たわる聖を振り返る。脈を診ると、弱弱しいがまだ息はあるようだ。
「シュウ、人を呼んで、医者に連絡してもらってくれ。シュウ?」
振り返ると、秋子はいずみの肩に手を掛けて、しきりに呼びかけている。秋子がいずみに触れても何も起こらないらしい。
「大丈夫ですか? しっかりしてください。あなた、どうしたんですか?」
いずみは虚ろな瞳のまま立ち尽くし、返事は無かったが、しきりに何かを呟き続けている。
司の耳元で、ヒルコがいつもよりも強ばった声で囁く。
『ツカサ、放ってオケ、あれはヤガテ、シヌ』
「どういうことだ?」
『あれは、トテモ、ややこしいウツワなのだ。気づカナイカ? 志木ケ中ノ霊魂ガ、あれにスイ込まれテイル。依り代に定着してイナイモノなど一たまりモない。それがドレだけのリョウか想像がツクカ?』
「どれくらいなんだ?」
「ヒャクではキカヌ」
「……どうしてそんなことに……」
『わからナイ。しかし、これだけはワカル。あれダケの霊魂とケイヤクしてしまえバ、どんなに真新シイ魂でも、数時間デ、喰い尽さレル。クイ尽されたタマシイには、長く憑ケヌ。やがて、霊魂ハ肉体カラ離れ、依り代はシヌ。それがキマリだ』
――どうする……崇を呼ぶか……
『なにヲしても、モハやムダだ、霊魂はスデニ離れヨウトしていル』
――何? 早すぎる。まさか、契約が成立しなかったのか?
いずみの肩を掴んでいた秋子は、突然熱いものに触れたかのように手を離した。少し怯えたように後ずさる秋子の視界から、いずみの姿がかき消されていく。
「え? えっ? どうなっているの? これは……」
いずみの姿は、まるで空気の亀裂に呑み込まれていくかのように、秋子の視界から徐々に消えていく。
「ねぇ、あなた、大丈夫なの?」
しかし、最早秋子にはいずみに触れることさえできない。困惑して後ろを振り向くと、後ろに倒れ込んだまま、司も驚いた様子でいずみを見ているが、司の目は、秋子が見ている物とは違うものを見ているようで、視線が何かを追って上下する。秋子も司の視線を追ってみるが、既にいずみの姿はどこにも見ることができない。
「これは……野いちごだ」
司が掠れた声で呟いた。
「え? 野いちご? どこにそんなものが?」
司は立ち上がり、キョロキョロ見回している秋子の傍に歩み寄ると目を見張った。
「なんだこれは?」
『ワカラナい』
司の問いに、ヒルコが僅かに困惑の色を滲ませて返答する。
『フウインかもシレナイ』
「封印……もしこれが、鈴森いずみの封印の印なのだとしたら、ガゴウジを封印したのはこの子だったと言うことなのか?」
司は呆然と呟く。
三種の神器を粛正する為に使役していたガゴウジが封印されたと聞いたのは、もう十年も前のことだっただろうか。野いちごに囲まれて動けないという言葉を最後に寄こしてガゴウジは戻ってこなかったらしい。当時、司はそれには直接関与していなかったのだが、庭に植えてあった野いちごの茂みを、聖が腹立ちまぎれに根こそぎ引っこ抜いていたのを思い出す。華陽に至っては、苺の柄だと言うだけで、癇癪を起して食器を下げさせていたことさえあった。
見る見るうちに、いずみの足もとの床から伸び出した野いちごの蔓は、数え切れないほどで、いずみを覆い隠すように、縛めるように、蔓をうねらせ、葉を茂らせ、あまつさえ、五枚花弁の可憐な花をほころばせ、幾重にもいずみを取り囲んだ。
白い花びらが、風もない廊下に はらりはらり と零れ落ちる。
『バケモノ……』
司の耳元で、ヒルコの密やかな声が響いた。




