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野いちご  作者: 立花招夏
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第十二話 水は低きに流る(5)

「吉田さん、少し離れて歩いてもらえますか? 僕、日本酒の匂い苦手なんですよね」

 佐川は辺りをクンクンと嗅ぐそぶりをしてから、少し顔を顰めた。

「別に一緒に来てくれなんて頼んだ覚えはないぞ。おまえが離れて歩けばいいだろう? 大体、酒が嫌いな奴が、どうして甘酒なんか頼むんだよっ」

 青洲は思いっきり不機嫌な様子で顔を顰めた。

 青洲と佐川は、石守家から徒歩で移動していた。青洲の襟元から胸のあたりまでの広範囲にわたって、白っぽい染みがこびりついている。

「いやー、メニューに甘酒があるなんて珍しいなと思って……実は、僕、甘酒を飲んだことがないんですよ」

 佐川は黒ぶち眼鏡のフレームを中指でくいっと上げると、口角を片端だけ上げてへらと笑う。

 石守家に着いて、客間で待たされている間、家人が飲み物のオーダーを訊いてきた。メニューを渡されて、青洲はそれに目を通すことなくお茶を頼んだのだが、佐川はしげしげとメニューを眺めてから、甘酒を注文したのだった。

「で、どうでした? 甘酒。美味しかったですか?」

 佐川は興味津津と言った顔つきで青洲を見る。

「味なんか分かるかっ、俺は飲んだ訳じゃない、ぶっかけられたんだっ!」

 青洲は憤怒の形相で佐川を睨みつける。

「しかし……そもそも、先にお茶をぶっかけたのは、吉田さんでしたよ?」

 苦笑しながら肩をすくめる佐川に、青洲はムスっとした表情で黙り込んだまま、歩く速度を速めた。


 石守冬樹を引っ張り出す為に、青洲は融資色の濃い提携話を用意した。石守家は個人病院を開業していて、石守東生は院長だった。東生亡き後は、冬樹が継ぐところを、医師業にてんで興味がなかった冬樹は医者にはならず、診療は他人に任せて、自分はもっぱら病院経営の方に力を入れていた。直接会って話したい、吉田からの申し出に、石守冬樹はようやく姿を現す気になったらしかった。

 石守冬樹は、しばらくして現れた。すらりと背の高い長身で、ピシッとプレスされたワイシャツに、結ばれたネクタイがやけに奇抜できざっぽい。志木司の話とは裏腹に、顔色も良く健康そうだ。その石守冬樹の後ろから、青白く神経質そうな女性がついて来て、青洲と佐川に一礼した。女性は石守冬樹に面ざしが少し似ているようだ。

「昌代伯母さん、お久しぶりです」

 佐川の挨拶に、その女性は怪訝そうに一瞬見つめてから、硬い表情を少しだけ和らげた。

「あら、崇さんなの? 見違えたわ。どうしてここに?」

 高いソプラノの声が耳に障る。青洲は幽かに眉間にしわを寄せた。

「僕、今吉田グループで働いているんですよ。吉田さん、こちらは石守昌代さん、石守家の大奥様ですよ」

 佐川がにこやかに説明すると、青洲は軽く会釈をする。昌代も軽く会釈を返してから、佐川をしげしげと見つめた。

「崇さん、安心しましたよ。市役所なんかに就職してしまってと、お母さまが心配されていましたからね。ようやく家業を継ぐ修業を始めたって訳なの?」

「さぁ、どうかな」

 佐川はへらへら笑う。

 少し場がほぐれたところで、昌代が席を勧め、一同は腰かけた。

「初めまして吉田青洲です。本日は弊社のオファーに応じてくださり、ありがとうございます」

 青洲は鋭い視線で石守冬樹を一瞥してから、低姿勢に頭を下げ名刺を差し出す。石守冬樹は慌てたように、自分のスーツのポケットをあちらこちら探り始めた。

「どうしたの? 冬君、お名刺は?」

 昌代が隣から小声で囁く。

「書斎に置いてきたみたいだ。ママ、取ってきてよ」

 冬樹が囁き返す。しょうがない子ねぇと呟きつつ、愛想笑いを浮かべながら昌代は席を外した。

「すみません。今、名刺をお持ちしますので……」

 謝る石守冬樹に、

「あ、やばい。僕、まだ名刺を作っていなかった。転職したばっかだからなー。市役所時代のでいい?」と佐川はへらへら笑いながら、名刺を取り出した。

「崇さんとは、会うのは初めてですね」

 差し出された名刺を見ながら、冬樹がにこやかに話しかける。

「冬樹君はずっと外国に行っていたからね。僕はとんと外国には縁がなくて……」

 佐川は笑顔のまま続ける。

「縁と言えば……冬樹君、鈴森いずみさんって知ってるでしょう? 前にこちらで働いていた……」

「え? いや、あ、ええ、知ってますけど……彼女が何か?」

 突然出て来たいずみの名前に、少し戸惑い気味に冬樹は言葉を濁す。

「実は、少々縁があって、今彼女を吉田で保護しているんですよ」

 青洲が後を引き取る。

「え?」

「彼女が身ごもっていたことはご存知ですよね?」

 青洲の鋭い視線に、冬樹の顔が青くなる。

「え……あ、はぁ、まぁ」

「あなたが鈴森さんを捜していると、ある人から伺っているのですが……」

「僕が? いや、捜してはいませんが……」

 冬樹は、ぽかんとした表情で答える。

「お腹の子供は、あなたの子だったんじゃないのですか?」

 ストレートな青洲の問いに、冬樹は明らかに狼狽した様子だった。

「まさか! 彼女がそう言ったんですか? いやぁ、まいったな。どうしてそんな嘘を……。実は彼女は、父が通っていたバーのホステスの娘でね。泣き付かれて仕方なく雇ったらしいんですが、母親に似て、少々だらしない子でね。誰の子だか分からない子どもを身ごもったって言うんで、辞めさせたんですが……。あ、もちろん、ただ追い出したわけじゃないですよ。ちゃんと退職金も、病院に行く費用も持たせたんです。まだ若い子だし、一人で育てるわけにもいかないでしょうしね。今、そちらにご迷惑をおかけしているんですか? いやぁ、参った。彼女がそんな嘘をつくなんて……大変失礼をしました。僕の子だなんて。そんな馬鹿な……そうだ、こちらで引き取りましょう。お困りなんですよね? いやぁ、参ったな。彼女は、どうしてそんな……」

 まくしたてる石守冬樹の言葉は、青洲がぶっかけたお茶で遮られた。程良く冷めてはいたが、一口も飲んでいなかったので、かなりな量が石守冬樹の顔から背広にボタボタと滴り落ちる。

「彼女は、だらしなくないし、嘘つきでもありませんよ。とてもしっかりしたお嬢さんです。悪いところがあるとしたら、運が悪かったくらいなもんですよ。あなたなんかに目をつけられてね」

 青洲は石守冬樹を睨みつける。

 茫然としている石守冬樹に、更に言葉を続けようとしていた青洲の言葉も、これまた同様に、何かの液体が降り注いで遮った。辺りに、甘ったるい酒かすの匂いが拡散する。いつの間にか名刺を持って戻ってきていた昌代の手に、佐川が注文していた甘酒の湯のみが握られていた。佐川も口をつけていなかったらしく、かなりな量の甘酒が青洲の背広の胸付近に広がる。

「一体何事ですか? 鈴森いずみは、とんだアバズレ女でしたよ。冬君が何をしたって言うんですか! 失礼にも程があるでしょう?」

 昌代は甲高い声でまくしたてた。

「鈴森いずみさんのお腹の子の父親が、石守冬樹だと教えてくれたのは、貴女の弟の志木司氏でしたよ。貴女も冬樹君もいずみさんを追いだしたことをとても後悔していて、捜しているのだと教えてくれたのも彼でした。これはどういうことなんですかね?」

 青洲は感情の見えない冷たい瞳で、静かに昌代に問いかける。

「司が? どうしてそんなことを……」

 昌代は茫然とした表情で口ごもった。

「私はまどろっこしいのは苦手でね、腹の探り合いはやめましょう。本音を話しますよ。今日、私がここに来た真の目的は、冬樹君、あなたに石守としての力を貸してもらう為だったのです。今、いずみさんは、恐らく窮地に立たされている。君なら、彼女を助けることができるんじゃないかと、佐川が言うので、私はここに来たんです」

 青洲の言葉に、昌代は小さく息をのんだ。

「い、石守の力など、冬君にある訳がないでしょう? この子は、何の関係もありませんよ! この子は、あんな恐ろしい石守とは違うんです。なんの言いがかりですか? いずみの窮地など、知ったことじゃありませんよ。あんな素性の知れないアバズレ女っ」

「ママ、石守の力って一体何の事?」

 一人ヒステリックに騒ぐ昌代に、冬樹が怪訝そうに問いかける。

「あぁ、冬君、あなたはそんなこと知らなくていいのよ。あなたは関係ないの。関係なんてないんですとも!」

 何も知らなげな冬樹と、常道を逸して取り乱す昌代に、青洲が佐川に怪訝そうな視線を送ると、佐川は小さく苦笑して首を横に振った。

「行きましょう。吉田さん。残念ながら、彼は大した力は持っていないようです。いずみさんとは器が違うようだ」

 小さく肯いて立ち上がった青洲の後に、佐川が続く。

「崇さん、今度きちんと説明にいらっしゃい! その野蛮な方抜きでね!」

 佐川の背中に、昌代がヒステリックにわめき散らす。

「昌代伯母さん、いずみさんは素性の知れないアバズレ女なんかじゃないですよ。彼女は僕の従兄妹なんです。佐川の祖母が、ずっと捜していた志木仁の孫なんですよ」

「……」

 目を見開いて固まる昌代と、それをオロオロと見守る冬樹を一瞥すると、

「じゃあ、失礼します。もうここにお邪魔することはないでしょう。説明することもないですしね」

 佐川はそう言い残して、青洲の後を追った。

 玄関先まで見送りに出た家人が、青洲の様子を見て驚いたように制止すると、すぐにおしぼりが運ばれてきた。拭うと、染みは幽かにしか残らなかったが、日本酒の匂いはあまりとれた気がしない。拭ってもらっているところに、石守冬樹が、少し途方に暮れたような表情でやってきた。

「いずみは……お腹の子を処分したんじゃないんですか?」

「気になるのか?」

 青洲は鋭く睨みつける。

「あ、いや、別に……」

 冬樹は慌てたように視線をそらした。

「彼女は処分するつもりはなかったようだよ。だけど、結果的に処分したことになった」

「……」

 青洲の言葉に、石守冬樹はホッとした表情を浮かべた。そんな石守冬樹を青洲は腹立たしげに見つめると、早々に石守家を退出した。


 屋外には陽光が溢れている。眩しげに光を受け止めながら、青洲は思う。

 この光は、いずみをきちんと照らしているだろうか。きちんといずみの心の中に射し込んでいるだろうか。その問いに返ってくるのは、否定的な答えばかり。世の中は光で満ち溢れているのに、こんなに温かな光が降り注いでいるのに、恐らくいずみは冷たい雨の中にいる、そんな気がしてならなかった。途方に暮れたいずみの顔ばかりが思い出される。

 腹を立てているのは石守冬樹に対してではなく、自分に対してだ。

 いずみに、石守冬樹が捜していると伝えた時の、いずみの言葉を思い出す。

『冬樹様は、私に戻って欲しいなんて思わないと思います。だって、私は……単なる厄介者だったし……』

 いずみは、何度も途方に暮れた顔でそう言った。

――どうして、いずみの言葉を信じられなかったのだろう。自分はどうして、志木司の言葉などを信じ、いずみの言葉を信じなかったのか。

 志木司は、単に神器である三家の血筋を揃えたかっただけなのだ。佐川の話を聞いた今ならば、分かる。まんまと志木司の策略に引っ掛かって、嫉妬した挙句、いずみを失ってしまった自分の浅はかさに腹が立った。同時に、どれほど劣悪な環境下でいずみが生きてきたのか、その一端を垣間見た気がした。

 いずみの味方など、ほぼいなかったに等しいのだろう。あの雨の夜、いずみは良く分からないのだと緩く否定したが、あのまま青洲が見つけていなければ、いずみは死んでいた。そう確信する。

 胸の奥がざわざわした。


 石守の家を出ると、青洲は足早に歩き出した。志木家へ行くなら、近道できる徒歩の方が早い。運が良ければ、途中でいずみを見つけることができるかもしれない。

 黙々と足早に歩く青洲を佐川が追いかける。

「吉田さん、どうするつもりなんですか?」

 志木家がある住宅地に入ったところで、ようやく青洲は歩く速度を落とした。息を切らしながら佐川が問いかける。

「いずみちゃんを連れて帰る」

「はぁ……しかし、それで解決と言う訳にはいかないと思いますよ?」

 佐川は眉間にしわを寄せた。

「分かってる。力を持った石守を捜さなきゃならないんだろう? だけど、それは今すぐにと言う訳にはいきそうもない。それまでは、なんとしてでも志木司に持ちこたえてもらう。そもそも三種の神器が揃わなければ、意味がないんだろう?」

 母親離れしていない、腑抜けの石守冬樹を当てにするよりも、その方がずっと勝率は良さそうだ。眉一つ動かさず平然と大嘘をつける志木司のことだ、憑かれてあっけなく終わるということはないのではないか。あのふてぶてしさは称賛に値する。嘘をついて動揺した挙句、あんな石守冬樹に嫉妬した自分が馬鹿みたいに思えた。それに、今は何よりも、いずみを危険にさらすことを避けたい。

「それはそうですが……持ちこたえてもらうって、何か名案でもあるんですか?」

 佐川は首を傾げる。

「ない。おまえが考えろ。金なら出す」

「……金を何に使うんです?」

 佐川があっけにとられたように青洲を見つめる。

「それを考えるのがおまえの役目だと言ってるだろ? 志木司の元気が出そうなものは何だ? 好きな食べ物とか、好みの女性とか、そうだ! 金髪美女のチアリーダーで応援するとかどうだ?」

「吉田さん、本気でそんなことが司の役に立つと思ってるんですか?」

 佐川はがっくりと肩を落とす。

「……思っていないさ。どうせ俺はその程度しか思いつかない俗人だ。殊に、あの四聖獣の伝承に関することについては、お手上げだ。何しろ、俺には何が何だかさっぱり分からないんだからな。そもそも三種の神器は何をするんだ? 四聖獣は何の役割をする?」

 青洲は立ち止まり、真剣なまなざしで佐川を見つめると続けた。

「俺はただ、いずみちゃんに……、今まで虐げられた人生しか送ってこなかったあの子に、安全で安心して暮らせる場所を用意してやりたい、普通に、笑顔で暮らせる生活を用意してやりたい、ただそれだけなんだよ」

 そんな青洲を、佐川は感極まった表情で見つめ返した。

「……吉田さん、僕はずっと考えていたんですよ。あの島で、あの水子の霊はどうして吉田さんに憑いたのかと……。僕もいた、いずみさんもいました。我々は二人とも志木の血を引いています。しかし、あの子は吉田さんに憑いた。その理由がようやく分かった気がします」

「どういうことだ?」

「!」

 佐川は青洲には答えずに、突然、ビクリと弾かれた様に目を見開いた。

「どうした?」

 佐川は小脇に抱えていたスケッチブックを取り上げて、パラパラとページをめくり、華陽が描かれているページを開く。

 ドクリドクリと脈動する肖像画。その禍々しいまでの邪気。縛めを解こうと抵抗しているようにも見える。

「急ぎましょう。いずみさんが行動を起こしたようです。封印の気配が変性しました」

 佐川の言葉に青洲は瞠目すると、駆けだした。


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