第十二話 水は低きに流る(4)
屋外は眩しい光と蝉しぐれ、しかし、部屋の中はしんとした重い空気が張り詰めていた。
先ほど、強かに叩かれた頬を押えながら、司は、その幼げな年格好に似合わないほどの憎悪に満ちた瞳で、自分の前に立ちはだかる父親を睨み返す。
原因は、ほんの些細なことだった。当時小学校で流行っていたスケートボードを司が欲しがった、それだけのことだ。
「司、おまえが欲しいと思うものなど、何一つ手に入らないのだということがまだ分からないか?」
志木聖が意地悪く笑む。
司は、幼いころから必要なものには不自由をしたことがなかったが、欲しいと口に出したものは何一つ与えられないという奇妙な躾をされて育った。気に染まぬ本や靴や旧式のボードゲームはふんだんに買い与えられていたが、同級生が得意げに見せびらかすような最新式のゲーム機も漫画も流行りの運動靴でさえ、彼が欲しいと口に出したものは一切買い与えられなかった。それが聖の教育方針だったのだ。
「どうして俺だけ? 姉さんは好きな物をなんでも買ってもらってるじゃないかっ」
司は父親を睨みつけたまま声を張り上げる。
「昌代とおまえは別人だ。人が違えば対応もちがう。おまえは母と野上に同じ対応をするのか?」
今ではメイド長となっている野上だが、当時はまだ入りたての新人メイドだった。
「あんなの母親じゃないっ。野上の方がずっとマシだっ」
司は憎々しげに聖を睨み返す。
「そうだとも、おまえの母親は正子じゃない。素性の良くない一介のメイドだ。おまえのその物覚えの悪い頭は大方、母譲りなのだろう」
父の非情なまでの嘲笑に、当時まだ小学生だった司はギリッと奥歯を噛みしめた。
――欲しいものは口に出してはいけない。本当に欲しいものは、欲しくないふりをする。欲しいものを手に入れる為には、策を練る必要があるのだ。
それが、その躾から司が学んだことだった。
やがて司は、欲しがらずに欲しいものを手に入れるという技術を身につけていったが、そうやって手に入れた物はすぐに飽きた。頭を使って物を手に入れること自体がゲーム感覚になっていって、しまいには、それが本当に欲しかったのかどうかさえ分からなくなる。それにも飽きてしまうと、司の中の欲しいと思う感覚自体が、どこか曖昧で希薄なものになっていった。
それが、依り代として必要な資質なのだと言うことに気づかされたのは、高校に入った年だった。依り代として身に霊が憑依すると、霊はさまざまな誘惑を仕掛けてくる。
『ツカサ、ナニがホシイ?』
『司、何をシタイ?』
『誰かキに入らないヤツをコロシテやろうか?』
その望みを一旦、口に出したが最後、霊たちは手段を選ばずそれを遂行した。そして彼らは、その見返りとして司の魂を食む。汚れた仕事をさせれば、その分、魂は闇色に浸蝕されていく。望みの内容が過酷であればあるだけ魂も目減りする。完全に闇色に染まってしまえば、後は霊達の操り人形になるしかない。だから、本当に必要な物以外は欲しいと口にしないこと、もしくはいっそ、欲しいという感覚を無くしてしまうことが必要だったのだ。
それは依り代となった司が、闇に呑み込まれず、人として在り続ける為に必要な資質だったのだ。
このように表面的にはストイックな生き方を強いられてきた司だったが、一つだけ、どうしても表立って欲しがることを止められなかったものがあった。
司は聖の枕元に佇む。
――あれほど厳しく叩きこまれたはずだったのに、あなたの教育は肝心なところで役に立ちませんでしたよ、お父さん。あなたはご存じないかもしれませんが……
司は独り苦笑する。
聖は一旦意識を回復して屋敷に戻ってきたものの、戻ってからは、その大半を意識がないまま昏睡していた。心拍モニターの規則正しい音と、時折自動的に計る血圧計の空気圧音が、この部屋が病室であることを主張している。
土気色の顔に刻まれた皺は深く、これまでの父親の苦闘を物語っているようで、司は顔を顰める。
父が死ねば、それまで父を依り代としていた霊たちは、次の依り代に殺到するだろう。この家だけに限れば、それ継承するのは十中八九、司だ。
自分はそれに耐えうるのか。もし、自分が耐えられなかった場合、どうなるのか。考えても仕方がないことだが、考えることを止められない。
――どうして、俺なんだろう。どうして、そんなことの為に俺は存在しなきゃならないんだ。
司はそう考えてから、首を振りながら小さくため息をついた。
自分の出生の理由や、理由も知らないまま受けた厳しすぎる躾を責めるには、もはや父親は摩耗しすぎ、疲弊しすぎていた。父親の立場になって考えれば、恐らく考え得る最善の策をとったのだろう。あれほどの霊魂が解放された時、どのようなことになるのか想像がつかない。世の混乱を防ぐために、志木家には依り代としての跡継ぎが必要だったのだ。
司は部屋の天井に視線を移す。聖のベッドの上の中空、天井よりも少し低い場所に、昏く冷たい気が凝っているのが感じられる。それは、、雨垂れが下に落ちるのとは逆に、聖の体から少しずつ上方に上っていく邪気の気溜りだった。その気溜りは、まだ、かろうじて聖に繋ぎとめられていたが、既に次に依り代となる体を求めて蠢いている。
――志木家は、どうしてこのようなことになってしまったのか……
司は深いため息をつくと、聖の部屋を後にした。
満月が煌々と照らす廊下に佇み、司は耳をそばだてる。寝静まった屋敷の中は不気味なほどに静まり返っている。
佐川が報告に来てから一週間が経っていた。父、聖は日に日に衰弱していき、華陽は一向に回復する様子がなく、鈴森いずみも現れない。ただ、秋子が気配に耳を澄ます仕草が頻発しているところを見ると、恐らく鈴森いずみが近くまで来ているのだろう。
――様子を窺っているのか、躊躇っているのか……彼女がやって来たらどうなるというのか……
司は屋敷内を一回りすると、秋子の部屋の前で立ち止まった。
手には、先日秋子が、司の部屋に落として行ったタリスマンと吉田赤秀の名刺がある。
「困った人だ……」
司は小さく笑う。
「ヒルコ、鍵をあけろ」
部屋の奥で衣擦れの音がして、部屋の鍵がカチャリと開錠される。そこには葡萄酒色の絹地の夜着に包まれた秋子が、感情の見えないぼんやりとした表情で佇んでいた。
「ツカサ、シュウコにタリスマンをつけるノカ?」
秋子が少し眉間にしわを寄せる。しかし、これは秋子ではなく、姿を借りたヒルコの言葉だ。
「いや、まだつけない。嫌なんだろう?」
司は含み笑いを漏らす。
「……」
無表情に佇んだままの秋子の前を通り過ぎ、司は秋子がいつも持ち歩いているバッグの中を探り、中からケータイを取り出した。すばやい指使いで、吉田赤秀の連絡先を登録すると、元通りバッグの中に戻した。
「ツカサ、そんなにシュウコがダイジ……か?」
「ヒルコ……おまえのようなものでも悋気を起こすものなのか?」
司はクックッと笑う。
「……」
ヒルコは無表情なまま立ち尽くす。
「秋子は関係ない。関係ないものを巻き込む気になれない。それだけだ。気にするな」
司は、ヒルコを背後から抱きすくめる。
「ツカサ、ワタシは、おまえからハナレナイ……」
ヒルコは、初めて、父、聖から譲り受けた霊だった。強い力を持ち、他の霊を従わせる能力を持っていた。ヒルコが司を守護している限り、他の霊は司に手を出せない。代わりに、司もまた、ヒルコに逆らえない仕組みになっている。
「ヒルコ、今まで良くやってくれた。感謝しているよ」
ヒルコが憑依している秋子の髪に軽く口づける。
「ガゴウジが移ってきテモ、ワタシはおまえからハナレナイ……」
ヒルコの言葉には抑揚がない。逆にそれが底しれぬ闇を想起させる。
脱出不可能な、深く、冷たく、昏い闇の沼……。
それでも、司がそれを恐ろしいと思うことは、最早ない。馴染み過ぎているのだ。光ならば闇を恐れるのかもしれない。自分が既に闇の眷属なのだと証明されているようで、司は苦く笑う。
「頼りにしている。だけど、もし向うに行けそうなら、行くがいい。こちらにいつまでも未練を残していても辛いだけだろう?」
「行くトキは、おまえもイッショだ。ハナレナイ」
司はヒルコの瞳の中を覗きこむ。いつもは温かな色を浮かべている秋子の瞳なのに、今は底なしの闇を覗きこんでいるように昏く、冷たい。
「……そうだな、それも良い」
司は秋子を抱き上げると、静かにベッドの縁に座らせる。そっと扱わないと、少しでも秋子の覚醒レベルが上がるとヒルコは落ちてしまう。
「ダクのか?」
誘うような口調でヒルコが司を見上げる。
「いや、今日はやめておくよ。そんなことしたら、ヒルコはあっという間に落ちてしまうだろう?」
「……」
「ヒルコ、何かしゃべってくれよ。俺の事をどれくらい好きか聞かせてくれ」
「……ダレに訊いてイル?」
「おまえしかいないだろう?」
司は小さく笑む。
ヒルコはしばらくの沈黙の後、小さな声で囁き始めた。
「……アイシテイル。ワタシはツカサのソバを決してハナレない。ツカサは、ワタシがマモル。ダレにもワタサない。ツカサはワタシのモノ……」
司は秋子の髪に手を這わせながら、そっとかきあげる。そして、軽く何度も口づけた。
――シュウ……
同じ顔で、同じ声で、絶え間なく囁かれる睦言に、司は強く秋子の体を抱きしめた。
――シュウ、シュウ、お願いだ。その声で、その顔で、俺の心を麻痺させてくれ。どんな状況に陥っても、俺が君を傷つけないで済むように。君に手を掛けずに済むように……
ヒルコが落ちて、秋子の体からガクンと力が抜ける。
愛おしそうに何度も口づけを落としてから、司は、秋子をベッドにそっと横たえた。ヒルコ以外の霊が、名和家の末裔である秋子を害さない保証はない。そうなった時、秋子にとって一番危険なのは司ということになる。
司は、木箱から取り出した水晶のタリスマンを秋子の首に掛けると、簡単に外されないように軽い呪い(まじない)を掛けた。これは、自分から秋子を守る為のタリスマンだ。触れてはいけない印だと記憶に叩きこむように、司はタリスマンに刻まれたセーマンとドーマンをしげしげと見つめた。
万が一の時、少しでも時間稼ぎになってくれれば、それで良い。その隙に秋子が逃げられるかもしれない。それは、欲しがることを止められなかった秋子への、せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
『……ワタシは、ツカサからハナレナイ。シュウコにはゼッタイにわたさナイ』
背後でヒルコが囁く声が、冷たく響いた。