第十二話 水は低きに流る(3)
白舟の仕事場である一般病棟の一室に、青洲、赤秀、白舟、そして佐川が集まっていた。
「まず初めに、この写真を見てもらえますか?」
佐川は青洲に一枚の写真を差し出した。
写真にはいずみが写っている。海をバックに青白い顔をして蹲って座っていた。島の西、白虎の祠を見に行った時のスナップ写真のようだ。
青洲は痛々しげにいずみを見つめる。呼吸困難になって紫色になってしまった唇に、ぎこちなく水を飲ませたのが随分遠くに思える。青洲は唇をかんだ。
――またこんな顔で、どこかに蹲っていなければ良いが……。
「どうです? ちょっと凄いでしょう?」
佐川が深刻な顔で、青洲に問いかける。
「凄い? まぁ、あんなことがあった後だからな、顔色が悪いのは当たり前だろう? こんな写真いつの間に撮ったんだ?」
首を傾げる青洲を、一瞬あっけにとられたように目を見張って見つめると、佐川は苦笑する。
「まったくもう、吉田さんは……いずみさんばかり見てないでくださいよ。そうじゃなくて……」
佐川は青洲が見ている写真の背景の海を指差す。
「海を良く見てください」
青洲は怪訝そうに佐川が指さした背景の海に目を凝らす。
いずみの長い髪が風になびいているその後ろ、暗青色に広がる海の表面。海面に何か白いものが浮遊している。否、浮遊しているのではない。それこそ数え切れないほどの白い手が海面から突き出しているのだ。その夥しい数。
青洲はごくりと唾を呑みこみ、次の瞬間、
「うわぁぁぁ」と叫んで、隣の赤秀に放り渡す。
渡された赤秀も、背景の海を凝視してから、
「うわっ」と叫んで、隣の白舟に放り渡した。
白舟もまた怪訝そうに眉根を寄せながら、写真を一目見るなり、
「わぁ」と叫んで、佐川に放り渡した。
三兄弟の一連の動作を面白そうに見ていた佐川は、回ってきた写真を更に青洲に放り渡す。
「おいー、なんでまた回すんだよっ」
青洲は憮然とした表情で、写真を再び佐川に戻す。
「何周くらい回るかなと思って……」
へらへら笑う佐川に、三兄弟の憮然とした目が集中する。
「冗談ですよ。そんなに睨まないでください」
佐川は首を竦めた。
「この写真は一体何なんだ?」
青洲は眉間にしわを寄せて佐川に詰め寄る。
「この写真は、所謂世間で言われるところの心霊写真なんでしょうね」
佐川は肩を竦めた。
佐川の説明によると、あの島が面している西の海は、地形なのか気脈なのか、はたまた海流によるものなのか、所謂浮遊霊が集まりやすい場所なのだと言う。
「一太さんに聞いたのですが、溺死体が流れ着くのは圧倒的に西の海が多いのだとか。恐らくそれは、今に始まったことではなく、四聖獣の伝承が生まれた時代の大昔からそうなんだと思いますよ。そこで、島を守る為に、島の西、西海に向かって神社が造られた。それが四鬼神社だったのです」
「島の西に神社があったなんて聞いたことがない。しかも、四鬼神社なんて……」
青洲は茫然と呟く。
「確かに四鬼神社の記述は、今現在、島の鎮守である吉田神社の蔵書にはありませんでした。ただ、昔から伝わっている志木家の史書には、あの島の事と四鬼神社の記述があるのですよ。僕は、それを知っていました」
「なんだって? 何故おまえが志木家の史書などを知っているんだ」
赤秀が佐川に詰め寄る。
「赤秀、落ち着けよ。佐川は志木家の親戚筋の人間なんだ。志木家の史書を知っていたっておかしくは無い」
青洲が穏やかに赤秀を押しとどめる。
「吉田さん、知っていたんですか?」
佐川は驚いて青洲を見る。
「ああ。知ったのは最近だけどな。いずみちゃんのルーツをずっと調べさせていたから……」
青洲は少し困ったように、赤秀と佐川を交互に見つめた。赤秀は憮然とした様子で、佐川と青洲を睨みつける。
「……それでも、僕の事を心配してくれていたんですか?」
軽く驚いた様子の佐川に苦笑すると、
「そんなの、当然だろう? いずみちゃんだって、随分心配していたんだぞ」
と青洲は静かに言った。
「……そうですか」
佐川はいずみの名を聞くと、悲しげに少し眉間にしわを寄せてから小さく笑った。
「これが海中で見つけた四鬼神社の鳥居です。一太さんに撮ってもらったんですよ」
青い海底に横たわる石の鳥居。額塚には『四鬼神社』の文字。一体いつからここにこうして沈んでいたのか。青洲も赤秀も白秋も、息をのんで写真を食い入るように見つめる。
「鳥居が沈んだのは、恐らく何かしらの天変地異なんだと思われます。それもかなり古い時代のことでしょう。そのような神社があったことすら、なんの記録もないですからね」
「しかし……仮に天変地異で神社が鳥居ごと海に沈んだとして、どうしてその後、新たに建立されなかったんだ? 仮にも神社だろう?」
赤秀が呆然と呟く。
「あくまでも僕の推測ですが、その頃には既に吉田神社が鎮守として、あの島に定着していたんだと思います」
「つまり、吉田の方が後から来て、乗っ取ったと言いたいのか?」
憮然とした様子の赤秀に、佐川は苦笑する。
「みなさんは、『出雲の国譲り』という言葉を聞いたことがありませんか? 古事記や日本書紀に出てくる神話なんですけど」
神代の昔、地上界の国造りを行ったのは大国主命と言われる神だった。大国主命は、天上界から追放されたスサノヲノミコトの子孫にあたる。その大国主命は出雲にて国造りを進める。ところが、国造りを進めてきた大国主命のもとに、ある時、天照大神が支配する天の高天原から神々が遣わされる。神々は、大国主に「地上世界を天の神々に譲れ」と迫るのだ。大国主命は国を譲ることになる。
これが『出雲の国譲り』であり、『天孫降臨』と言われる神話の概略だ。
「日本の記紀の中には、神話に限らず、歴史としてこのような国譲りの話が他にもあるのです。例えば、神武東征の際の饒速日です。饒速日は、神武天皇が九州から来る前に大和を支配していたのですが、神武に大和の支配を譲ります。これも明らかに国譲りでしょう? まぁ、もっとも神武天皇も史実ではないと言われていますけどね……」
佐川は肩を竦めた。
「つまり、それらの話と同様に、元々いた志木を吉田が追い出したと言う訳か?」
赤秀は眉間にしわを寄せる。
「僕は追い出したとか、乗っ取ったとか一言も言っていませんよ? 譲った話をしただけですが……」
「譲ったと言えば聞こえはいいが、要はそう言うことなのだろう?」
憮然とする赤秀に、佐川は苦笑する。
「そんなこと誰にも分かる訳がないじゃないですか。分かったところでどうなるものでもなし……僕が言えるのは、かつて四鬼神社が存在した。それだけです」
「……それで?」
島の西に沈む古い鳥居。汀目指して打ち寄せる夥しい白い手。
青洲は不安げに先を促した。
「歴史を辿ってみると、時の政権にまつろわぬモノ、まつろわぬ癖に力を持つ者は、ことごとく排除されるのが定石です。あるものは神として祀りあげられ、あるものは鬼として恐れられ、あるものは作り話として神話の中に封印される。恐らく、四鬼とは、そう言う存在だったんだと思います」
「……」
赤秀が不快そうに、眉間の縦じわを更に深くする。
「気にする必要はありません。それが人間の歴史ってもんです。勝ち残ったものが自分の都合の良いようにしていくのが自然でしょう? ただそこで問題なのは、四鬼が持っていた力です。そもそも四鬼は、地勢的に問題があったあの島の守り神であったはずなのです。僕が思うに、四鬼家は太古の昔、シャーマニズムが崇拝されていた頃の原始的な宗教を司っていた家なんじゃないか思うのですよ。そこで、出てくるのがあの四聖獣の伝承です」
その昔、凶なるもの、西海より流れ着きし
悪しき心満ち溢れ、妬みあい、憎み合い、奪い合った
四聖獣のもとに集まりし三つの神器
すなわち、鈴、縄、石もて
そのものを鎮め、縛り、封印せし、と
「今ではただ単に、伝説とかお伽話だと信じられていますが、これは実際に島で起こったことなんじゃないかと僕は考えているんです。しかも、この伝承にある四聖獣とは、当時の島の守り神、四鬼家のことではなかったかと……」
佐川の言葉に、青洲も赤秀も白舟も黙りこむ。
三人が沈黙する中、佐川は続けた。
「そして、ある時、この伝承と志木家の史書を知ったある人物が、それを探る為に島にやってきたのです。それが三十三年前の事です」
「島にやってきた歴史学者か!」
青洲が声を張り上げた。
「吉田さんも聞きましたか。そのとおり、彼は歴史学者でした。そして志木家史書の記述にあったとおり、禁足地であった神社の裏山から、ある封印を掘り当てたのです。当初、彼は伝説の金属、ヒヒイロカネではないかと思ったようですが、それはそんなものじゃなかった。輝いて見えたのは、それだけ強い封印を施されていたからだったんです。そして、調査の為に、僅かばかりの破片を削り採ったところで封印は解かれた。その歴史学者は、その日研究室で死んでいるところを発見されています。奇しくも、封印を施したのも四鬼家、封印を解除したのも志木家という皮肉な結果になってしまった訳です」
「志木家が……」
赤秀が茫然と呟く。
「佐川……おまえ、どうしてそんなにその歴史学者を詳しく知ってるんだ?」
青洲も茫然として問いかける。
「僕は……その歴史学者、志木仁の孫に当たるんです」
佐川は苦いものを飲み込むような表情で言った。
「志木仁……なんてことだ、志木仁が三十三年前に島に来た歴史学者だったなんて……」
青洲は呻く。
「その様子だと、いずみさんルートから、既に志木仁のことをご存じだったようですね」
青洲は中川に、いずみと鈴守家とのつながりを調べさせていた。いずみの母、鈴森秋乃は鈴守青子の娘であり、鈴守青子は志木仁の愛人だった。つまり、いずみには、鈴守と名和と志木の血が流れていることになる。それを知った時、青洲は驚愕した。そして更に、志木仁の正体だ。
「ということは……いずみさんと佐川さんは従兄妹同士ということになるのですね?」
それまで静かに黙って聞いていた白舟が口を挟む。
「そう言うことになりますね」
佐川は小さく笑んでから、続けた。
「僕が高校生の時に、祖母の家の倉庫で祖父の日記を見つけたんです。日記には島に行く前からの経緯と、着いてから、そして研究室に戻った日までのことが詳細に記述されていました」
佐川の祖母は、祖父の死後、実家である佐川に戻っていたが、祖父の残した遺品をかなり状態良く残していた。そして、佐川が高校生になったある日、祖母は、佐川にそれを自由に見て良いと言ったのだった。
佐川には他の兄弟も、また伯母の所にも数人従兄妹がいたが、祖母は何故か佐川だけに遺品を仕舞ってある部屋のカギを渡した。
祖母によると、佐川は祖父に一番良く似ているらしい。顔とか性格とか、歴史好きなところとか。全くもって目障りだと、祖母は佐川を見るたびに文句を言った。しかし笑ってしまうのは、その癖、祖母は何事かある度に、佐川を呼びつけるのだ。用事を言いつけるのは大抵佐川だったし、自分の誕生日に呼びつけるのも佐川だったし、処分品だと言いつつ何かと物を渡すのも佐川だった。祖母は、祖父とは全くの政略結婚で、恋人がいたのに引き離されたと、しょっちゅう佐川に愚痴った。佐川を祖父に見立てて、言えなかった文句を言っていたのかもしれない。佐川は当時、まだ小学生だったのだが……。佐川は苦笑する。
「祖父の不幸だったところは、祖母ときちんと向き合えなかったこと、向き合う前に、鈴守青子さんに出会ってしまったことなんじゃないかと僕は思っています」
志木家の史書を知る歴史学者の祖父と、島の伝承を知っていた鈴守青子、まるで何かの悪い悪戯のように二人は出会ってしまったのだ。そして封印は破られた。
「では、あの『野いちご』の抽象画に封印されていたものとは……その時解放されたものということなのか?」
赤秀は眉間にしわを寄せる。
「最初の封印が破られて、中に閉じ込められていたモノは、まず祖父に憑依したんだと思います。しかし、祖父はそれを受け入れられるだけの器をたぶん持っていなかった。祖父を離れたそのモノが次にターゲットに選んだのが、志木家の長兄、志木聖だったんです」
「そう言えば、志木家が企業を立ち上げたのが、三十三年前くらいじゃなかったか?」
青洲が首をひねる。
「たぶん、封印が解かれたことと関係があると思いますよ」
佐川が同意する。
志木家の力は、シャーマン体質。憑依されれば、後はそれを制御できるかどうかにかかってくる。制御さえできれば、これ以上の強い味方はない。陰陽師が式神を操るようなものだ。起業するのだって難しくなかっただろう。問題は、常に制御し続けなければならないということだ。制御できなくなれば、逆に使役される、操られる、もしくは、暴走する。
「伝承に従えば、封印されていたのは、西海より辿りつきし凶なるものです。憑依された志木聖には、悪しき心、つまり、妬み、憎み、奪う気持ちが満ち溢れたはずです」
志木家は乗っ取り屋だという、その噂。青洲は深いため息をつく。
――法に則っているだけ、まだましなのかもしれない。他に何をしてきたかは知らないが、少なくとも青洲が知る志木聖は、殺人鬼でも強盗でも詐欺師でもなさそうだった。
「鈴守、名和、石守の三家で不審死が相次いだのは、志木聖が制御できなかった霊が暴走したからだと僕は考えています」
しかし制御できなかった霊たちが再び解放され、結果、志木聖は昏倒した。志木聖に制御できなかったものが、司に制御できるかと問われれば、佐川には、分からないというしかない。だから、今この時こそ、三つの神器が必要だというのに、肝心の石守が行方知れずだ。佐川は不安を隠せない。
「かつて、その暴走を止める為に、いずみさんのお父さん、名和心氏が、あの『野いちご』の封印を施したんです。もしかしたら、いずみさんも手伝っていたかもしれません。いずみさんのあのスケッチブックの封印は、今、力に気づいて初めて施した封印という訳ではなさそうでしたからね。少なくとも、父親の封印を目の当たりにしていたんだと思います。いずみさんなら、もしかしたら、霊の暴走を止めることができるのかもしれません。しかし、いずみさんもまた、志木家の血筋。シャーマン体質を受け継いでいる可能性があるのです」
佐川の指摘に、青洲はごくりと唾を飲み込んだ。
その時、突然、白舟の胸ポケットから呼び出し音が響いた。
「はい、え? 分かりました。すぐに行きます」
深刻な顔で黙り込む三人を残して、白舟はあたふたと部屋を後にした。
「で、俺は何処に行けはいいんだ?」
深刻な顔で、問いかける青洲に佐川がニヤリと笑う。
「まずは、石守へ。石守冬樹を吉田さんの力で引っ張り出して欲しいんです」




