第十二話 水は低きに流る(2)
いずみが吉田を出てから、真っ先にしたことは長い髪を切ることだった。目立ち過ぎるとお姉ちゃんが言うのだ。
いずみは、封印の場所で倒れて以来、この世に生を受けられなかったいずみの兄姉たちと再び交信できるようになっていた。いつもできるわけではない。いずみが眠りに落ちる瞬間もしくは眠りから目覚める瞬間の僅かな時間、三人と意識を交感することができる。初めは、いずみの決意を知って思いとどまらせようとしていた兄妹たちだったが、日を追うごとに、いずみの心に寄り添うように力を貸してくれるようになった。
三人との交感はこんな風に始まった。
『いず……』
『いずみ……』
――誰?
『いずみ、どうしておじさんの傍を離れたの? 離れちゃいけなかったのに……』
――お姉ちゃん? どうして? どうして……居るの?
『そんなこと、今はどうでもいいわ』
『いずみ、人を呪わば穴二つという言葉を知っているか?』
――お兄ちゃん……
『いずみ、あんなやつに仕返しするだけ無駄だぜ? おまえが掛けた封印で、もう随分苦しんでるはずなんだから、もうほっとけよ。だって、マメ太は……』
『ダメだ、やめろ。それは俺たちが言っていいことじゃない。吉田が隠している以上、それは吉田が語ることだ』
――なに? 青洲さんは何かを隠しているの? 教えて、チイお兄ちゃん。
『……ごめん、言えねー』
『いずみ、少し頭を冷やしなさい。あなた一人で何ができるというの? あなたが華陽を手に掛けて、マメ太が喜ぶと思うの?』
――マメ太を喜ばせる為じゃない。華陽さんを罰する為でもないよ。
『じゃあ、何の為なんだ?』
――苦しいの。私は自分の気持ちを収めることができない。自分の気持ちを鎮めたいの。だから、どうなるかなんて分からない。華陽さんを手に掛けると決まった訳でもない。とにかく、私は自分が施してしまったあの封印をどうにかしなくちゃいけない。その為には、私はもう一度、華陽さんに会わなきゃならない。どうするかは、その時に決めるよ。
施した封印を手掛かりに、華陽の居場所を特定した。いずみは、自分が施した封印を辿って、その場所まで行くことができるのだ。それは磁力や重力などの目に見えぬ力に似ていた。
例えば、ここに一つの棒磁石が転がっているとする。そこには何もないように見えるが、その場一帯に砂鉄をふりかけると、砂鉄は両極を中心に無数の線を描きだす。封印はそれに似ていた。吉田家に置いてきた封印のスケッチブックから、封印を施した華陽まで、細い細い線が続いている。封印の場所がそれぞれ磁石の両極の様な状態になっているので、より線の密度の濃い方を目指すことによって、その場所を特定することができる。封印の線は、いずみには気配として伝わってくる。
辿りついた屋敷の表札を確認した日の夜の事だ。眠りに落ちる寸前、頭の中で声が響いた。
『志木家には、いずれ来なきゃならないだろうとは思っていたんだ』
――どうして?
『いずみ、私たちはね、初め母さんに憑いていたの。だって私たち母さんの子供なんだもの、当然よね? でも、ある日追い出されたのよ。母さんに性質の悪い霊がたくさん憑くようになって、私たちは居られなくなったの』
『そうだぞ。志木聖はひでーやつなんだ。母さんに色々悪い奴を吹きこんでさぁ』
――志木聖?
『志木聖は母さんが夜働いていた時の客だったんだ』
『母さんが心配だぜ。あんな奴らに憑かれちまってよぉ。どうなったんだか……』
『たぶん、母さんはもうこの世にはいないわよ』
三人は声を上げて泣き始めた。
――あの……ねぇ、泣かないで? まだ決まった訳じゃないんだし。ところで、父さんには憑かなかったの?
『父さんには憑けなかった』
人の魂には色々なタイプがある。簡単に憑依できる人、できない人、一時的にしか憑依できない人などがあるらしい。憑依できる人は、所謂、霊感があると言われる人なんだと思うと長兄は言った。父親は、手がかりも足掛かりもなくて、つまり憑けない人だったというのだ。
『ホワイトボードにマーカーで書いても、擦ればすぐにとれちゃうだろ? 父さんはそんな感じだったんだ』
――それで私に憑いたの?
『本当は、一時避難的に憑いたはずだったんだ。ところが、おまえの魂はその三つのタイプともまた違ってた』
――ちがうの?
『実は、俺たちおまえから離れたくても、離れられないんだ。何かの力でぎゅーっと繋ぎとめられているみたいで……よく分からないんだ』
それで水子供養をしてもらった時も、結局、あちら側に行くことができなかったのだと兄妹たちは口々にそう言った。
華陽の居場所を把握していながら、いずみが志木家にすぐに乗りこまなかったのには訳があった。
いずみは吉田を出る時、自分が持っていた荷物の一切合財を病院のゴミ箱に捨てて来た。冬樹からもらったミニボストンも、靴も、石守家で使っていたエプロンも全部まとめて袋に入れて捨てて来たのだ。青洲から買ってもらった色鉛筆はさすがに迷ったが、ほとんどの色が持つのも難しいくらい小さくなっていたので、それも捨てた。スケッチブックは捨てるわけにはいかないので、病室の敷物の下に隠してきた。
すべてが終わってしまえば、見つかっても構わなかったが、できることなら自分と吉田家の接点を断ち切っておきたかったのだ。捨てたゴミが完全に処分されるまでは事を起こせない。インターネットカフェやまんが喫茶などで時間を潰す。公園の遊具の下で一夜を明かしたこともあった。
春とはいえ、夜風は体にしみる。ちんまりと縮こまってウトウトしていると、青洲が迎えに来てくれた夢を何度も見た。
――馬鹿だな、私。青洲さんが私を心配してくれることなんて、もう無いのに……
涙が零れ落ちる。
――あぁ、本当だ。本当に、人を呪えば穴二つなんだね。
『今なら、まだ、戻って謝ればおじさんは許してくれると思うぞ?』
――もうダメだよ。もう引けないの。私自身が封印の力に引きずられてる。華陽さんに会わずにはいられない。そして会ってしまえば、私は何をするか分からない。どうしたらいいのか……分からないの。
『いずみ……何があっても、どんなことになっても、私たちはあなたの味方だから……』
『そうだぞ』
兄妹たちは口々にそう言った。
――ありがとう。お姉ちゃん、お兄ちゃんたち……
――まただ……
秋子は握っていたフォークを持ったまま、外の気配に耳をそばだてる。
既に食事を摂ることすら難しくなった志木聖は、病室となった自室で一日中点滴を打たれていたし、相変わらず具合の悪い華陽も食事は自室で摂るので、大抵の食事を一人か、もしくは司と一緒に摂る。この日は、珍しく早く帰ってきていた司が一緒に食卓についていた。
「シュウ? どうかしたのか?」
司が探るような視線を秋子に向ける。最近の司は秋子のことをこう呼ぶ。大旦那である志木聖とは既に離婚しているので、当然秋子は司の義母ではない。以前のようにワザとらしく『お義母さん』と呼ばれるのに比べれば、随分ましだと秋子は思っている。
「いえ、何でもありません」
秋子は司の問いかけに小さく首を振って、食事を続ける。
――お姉ちゃん? まさかね……
昔、まだ秋子が小学生だった頃、いけないと言われていたのに良く姉の所へ会いに行った。逆に、姉も秋子の所に会いに来てくれた。それぞれ別の家に養子に出されていたけれど、小学生の足で歩いて会いに行けない距離ではなかった。だから、姉が交通事故で亡くなるまでは、二人で示し合わせて、中間にある公園や川の岸辺でよく待ち合わせをしたものだ。
公園のブランコに座って姉を待ちながら、時々、秋子は目を閉じて耳をそばだてる。姉が近づくと、気配で分かるのだ。何かオレンジ色の温かいものが近づいて来る気配。姉の気配はいつも陽気で暖かくて秋子をウキウキさせる。
それに似た気配を、最近、ここ志木家で感じるのだ。初めて感じたのは、一週間ほど前のことだった。ただ、姉と違うところは、その気配が濃密な悲しみを纏っているということだった。胸が痛くなるほどの悲しみ。
――お姉ちゃんに似ている人がいるのかもしれない。私に気配を感じ取らせるような誰かが……
そう考えると、少し嬉しくなって、秋子はその人の悲しみが癒えることを祈りつつも、その人の気配を捜すことを楽しみにするようになっていた。
「シュウ、後で俺の部屋に来てくれないか」
無言で食事に集中しているふりをしていた秋子は、司の言葉にはっと顔を上げる。志木家に嫁に来て随分経つが、司の部屋に呼び出されたことは無かった。いつでも司が秋子の部屋に来る。
「……あの……どうして?」
動揺した視線が宙をさまよう。
「話があるんだ」
「……話しなら、今、ここで伺います」
用心深く返答する秋子に、司は苦笑する。
「俺の部屋で話す。もし君が来ないのならば、ヒルコを迎えに行かせる。ヒルコの方が君よりもずっと色っぽく対応してくれるから、俺はそれでも全然構わない。それが嫌なら、自分で来なさい」
最近の司は、秋子のことをあからさまに子供扱いする。いや、厳密に言えば、子ども扱いではなく、所有物扱いと言った方が近いかもしれない、あるいは愛玩動物とか……
秋子は小さくため息をついた。
秋子は、司の部屋の前を何度も往ったり来たりしていた。
司の態度が、がらりと変わったのは聖が倒れてからだ。
変わったと言っても、しかしそれは、ほんの些細なことだ。簡単に言えば、秋子に対する態度が変わったのだ。皮肉も言わないし、辛らつな言葉もぶつけない。無理やりに抱こうとしないし、時々秋子を見つめる視線が妙に優しげだったりする。しかし、そのことが逆に秋子を不安にさせる。
――何が司をそうさせているのか。
秋子の脳裏に、以前感じた朱の光球のイメージが浮かぶ。
――あれは、司だったのだろうか……。
考えてみれば、そもそも、司が秋子に辛らつな言葉をぶつけるのは、聖が近くに居た時ではなかったか……
ふと、思いついて考え込んでいると、ドアが中から開いた。
「いつまで、そこでウロついているつもりだ?」
不機嫌そうな口調に、秋子は首を竦めた。
司の部屋は驚くほど物がない。パソコンが乗ったデスクと、ベッド、クローゼットがあるきりだ。初めて入った秋子はキョトキョトと辺りを見回す。そんな秋子を気にする様子もなく、司はデスクの引き出しから長四角の木箱を取り出した。
「これを身につけておくと良い」
唐突に差し出された木箱に秋子はたじろぐ。恐る恐る受け取って、箱の蓋を開けようとしたところで制止された。
「ここでは開けないでくれ。ヒルコが嫌がる」
「え?」
「タリスマンだ。クオーツにセーマンとドーマンを刻ませた。ヒルコはそんなもの役に立たないというんだ。だったらどうして嫌がるのかと訊いたんだが、それには返答がない」
司はクスクス笑う。一方、秋子は眉間にしわを寄せる。
――タリスマン? セーマン? ドーマン? なにそれ。やっぱり司の言葉はほぼ呪文だ。
「……さっき、気配を感じたんだろう?」
司の探るような瞳に、秋子ははっと顔を上げる。
「名和家の人間は、お互いに存在を気配で感じ取れるらしいな」
「……そうなんですか?」
きょとんと問い返す秋子に、司は苦笑する。
「本当に何も知らないんだ」
「名和の両親は、名和家の事をすごく怖がっていたんです。名和家は呪われてるって、口に出すのも嫌な様子で……。父は、できるなら婿養子になって姓を変えたかったらしいんです。でも事情があってできなかったって、それだけを何度も口にしました」
秋子は木箱を指でなぞりながらぽつりぽつりと説明する。
「そうか……まもなく、君の同胞がここにやってくる。そうしたら、否応なしに、俺はその人と対峙しなければならない。ターゲットは華陽だが、父が倒れた今、俺が志木家を守らなければならないからな。仮にその人が俺を倒した場合、後の事をシュウ、君に頼みたい。詳しいことは、野上に話してある。そして、もし、その人が倒れた場合、君は速やかに志木家から退避しろ」
「え?」
後を頼むと言われてたじろいでいた秋子は、更に驚愕して瞠目する。
「できれば、佐藤の実家以外に避難しろ。あの親父さんの元では避難にならないだろうからな」
司は眉間にしわを寄せる。
「でも……」
志木家を出てしまえば、秋子には行く当てがない。そもそも司が倒れず、その人が倒れた場合に、どうして自分が出て行かなければならないのか。どうしてその人と、そんな事態に陥るのか。話しあう余地はないのか。
「行く当てが、どうしても見つからない時は、吉田グループの吉田赤秀に匿ってもらうのがいいかもしれない。名和家だと言えば、それなりの対応をしてくれるはずだ」
司はデスクの引き出しをガサガサと探っていたが、やがて一枚の名刺を取り出した。吉田グループと言えば、秋子が美大に行く時に出資してくれた企業だ。
「どうして……どうして吉田グループが私なんかを匿うんですか?」
差し出された名刺を受取らずに、秋子は小さく首を振りながら後ずさる。
「君が名和の人間だからだ」
司は更に一歩踏み出して、名刺を秋子に握らせる。
「私は……私は、どうしてここに居てはいけないんですか? おっしゃる通り、私には行く当てがありません。それに、もし、私で何か役に立つことがあれば、何でもします。だから……」
姉に似た気配を持つその人と、闘うことなく話しあう余地はないのか。自分なら何か役に立つのではないか。秋子は祈るような気持ちで言葉を紡ぐ。
秋子がそう言った瞬間、司の表情が一変した。冷たく嘲笑うようなその瞳。拒絶の瞳。
「思いあがらないでください。貴女にできることなど何一つありませんよ。今までだってそうだったでしょう? 貴女にできることは、夜の相手くらいだ。それももう飽きたんでね。この先、俺が志木家を継いだあかつきには、貴女に出て行って欲しいんです。邪魔なんですよ。それだけです」
冷徹な瞳には取りつく島もなく、触れた相手を容赦なく傷つける昏い笑み。
――これがいつもの司だ。分かっていたはずなのに、なのにどうしてこうも胸が塞がったような気持ちになってしまうのか……
秋子は唇をかむ。
「……」
懸命に目を見開いていたのは、驚いたからじゃない。胸の奥からこみ上げてくる熱い感情が零れ落ちないようにする為だ。
秋子は、渡されたタリスマンも名刺も手から滑り落ちたのに気づかぬ様子で、無言で部屋を逃げるように立ち去った。
タリスマン お守り
セーマン 星型の印(五芒星)
ドーマン 格子状の印(九字紋:横五本縦四本の線からなる格子形)