第十二話 水は低きに流る(1)
水は低きに流る :水が高いほうから低いほうへ流れるように、物事が自然の成り行きに従って運んでいくことのたとえ。
青洲は一人、いずみの病室のソファの上でひっそりと座っていた。
窓から入ってくるのは東風、すっかり緩みきった心地よい風だ。
――なのに、どうしてこうも冷えきった気持ちになってしまうのか……
青洲は小さく身震いする。
いずみが出て行ってから、病室の中の物は何一ついじっていない。青洲が誰にも入ることを許さなかったからだ。にもかかわらず、ベッドは使った形跡さえないくらい綺麗に整えられている。荷物は何一つない。初めていずみに会った時に持っていたミニボストンも、青洲が買ってやったスケッチブックも色鉛筆も、何一つ残っていなかった。いずみがここにいたと言う気配さえ残っていないような気がする。青洲はベッドのシーツに手を滑らせる。温かみの欠片もない。
いずみの失踪に気づいた時、青洲は愕然とした。
――どうして気づかなかった……
自分を責める言葉ばかりが湧きあがってくる。いずみから投げつけられた言葉の棘に激昂して、その夜、初めていずみを一人ぼっちにした。その結果がこれだ。
いずみの失踪を知ったのは、翌朝看護師ににこやかに声を掛けられた時だった。すべてが、いずみの計画だったのだということを知ったのも……
「青洲様、今日からしばらく外泊なんだそうですね。いずみさん、とても嬉しそうでしたよ?」
――何のことだ?
「搾乳した分は冷凍して三日分たっぷりありますから、ご心配なさらず、ゆっくりして来てくださいませ」
いずみには、同日に生まれた新生児に母乳を提供して欲しいと頼んであった。
「青洲様?」
固まる青洲に看護師が訝しげに問いかける。胸騒ぎがする。昨夜のいずみは、かつてないくらい挑戦的で、反抗的で、およそいずみらしくなかった。いずみの病室まで慌てて駆けつけ、ドアを開けて青洲は瞠目した。
クローゼットを開け、ベッド脇のチェストの引き出しを開け、洗面所の化粧台の棚を開けてみた。荷物はおろか、いずみがここに居たのだという気配さえ、きれいさっぱり無くなっていた。
――いずみちゃん……書き置きさえなしなのか?
あまりにもきれいさっぱり何もなくなっていることに、いずみの決心の硬さが表れているようで、青洲は茫然とすることしかできなかった。
――いずみちゃん、どうして? どうしてこうなるんだよ?
いずみが昨夜言った言葉を思い起こす。
『打てば? それで青洲さんの気が済むならちっとも構わない。もう、面倒なのはうんざりなのよ。私は自由になりたいの。だってまだ若いんだし、今までやれなかったことだらけだったから、それを一つずつやっていきたいの。だから、もう私には構わないでほしいの』
青洲はソファに脱力したように座ると頭を抱え込んだ。
――いずみちゃん、君はそんなに不自由な思いをしていたのか? 俺と居るのがそんなに窮屈だった?
いずみが失踪してから、青洲は、いずみがいた病室でぼんやり過ごすことが多くなった。仕事がない時間は大抵病室のソファでぼんやり過ごす。自分の中から何かがごぽっと抜けおちてしまったようで、何をするにも気が入らない。
見かねた赤秀がいずみの行方を捜してくれているが、まだ見つかっていなかった。一度だけ、たった一度だけ、銀行で金を下ろしたという情報が入った。すぐにその付近一帯を隈なく捜させたが見つからないという。青洲は苦笑する。銀行で金を下ろせば足がつく。下ろした銀行からはすぐに離れる。それを教えたのは青洲自身だった。
下ろした金額はほんの僅か、どこか遠くに行っている訳でも、誰かと遊び回っている訳でもないようだ。しかし、そのことが、逆に青洲の不安を煽る。本当に自由が欲しくて、自由になって楽しく暮らせているのなら、それで構わない。そう思えるまでに気持ちは鎮まってきていた。しかし、いずみに関する些細な情報が青洲を不安にさせる。
ちゃんと食事はできているのだろうか、また雨に打たれてどこかで蹲っているのじゃないだろうか、また世界から零れ落ちそうになって途方に暮れているんじゃないだろうか。
いつものように青洲がいずみの病室でぼんやりと座り込んでいると、ドアがノックされた。返事をすると赤秀が入ってきた。その後ろに佐川が続いて入ってくる。青洲は瞠目して立ちあがった。
「佐川? おまえ無事だったのか? 何していたんだよ。心配したぞ」
いつもの佐川ならば、へらへらと笑って皮肉か冗談の一つでも言いそうなものだが、その日の佐川はいつになく生真面目な顔で御心配かけてすみませんと言う。
「佐川?」
いつもと様子が違う佐川に青洲は首を傾げる。
「報告が遅くなってすみませんでした。今、赤秀さんからいずみさんのことを聞きました。僕はもっと早く、こちらに来るべきだった。実を言うと、僕は、いずみさんが吉田さんから離れることはないだろうと高をくくっていたんです。まさか、一人で行動を起こすとは思っていなかった。僕がいずみさんに余計なことを言ってしまったのかもしれません」
青洲に気を許し過ぎていると忠告したことが今になって悔やまれる。あの時は、石守がいずみのお腹にいたなどと知らなかった。だから、てっきり青洲が水子の霊を滅したと思ったのだ。
――いずみに関して言えば、そんなことなど心配する必要さえなかったというのに……
情報不足が事態を悪い方へ悪い方へと導いて行く。佐川は痛みを堪えるような顔で髪の毛を掻きむしりながら続けた。
「今から、島で僕が調べたことを報告します。そのうえで、吉田さんに一緒に行ってもらいたいところがあるのです」
「俺に?」
青洲は自分を指差す。佐川は頷いた。
「ええ、そうです。あ、でもその前に……」
佐川は病室の中をぐるりと見回した。目を閉じ、中指で眉間をトントンと軽く叩く。
「ありますね。ここにあります」
そうブツブツ呟きながら、部屋を歩き回り始めた。そんな佐川を見つめて、青洲と赤秀は顔を見合わせて肩をすくめる。
「何があるんだ?」
青洲の問いかけに、佐川はしーっと言って、片手を上げて青洲を制止する。間もなく、佐川は部屋の隅の敷物を剥がし始めた。その下から、何か大きめな四角いものを引っ張りだす。
「いずみのスケッチブックじゃないか!」
佐川が手にしている物を一目見て、青洲は声を上げた。
以前、いずみを喜ばせたくて何が欲しいかと訊いた。そのスケッチブックは、青洲がいずみに買ってやった初めてのものだった。
佐川は、青洲や赤秀にも見えるようにそのスケッチブックのページを次々に開いて行く。そこにはたくさんの野の花々が描かれていた。
ナズナ、レンゲ、オオイヌノフグリ、スギナ、タンポポ、シロツメクサ、ハハコグサ、ハルジオン……
植物のみならず、まるで、その場全体を紙に閉じ込めているようだ。木の芽流しの雨の匂いや、葉をそよがせる風に至るまで、その植物を取り巻く気配が感じられる。いずみのスケッチを初めて見た赤秀は感嘆の声を上げた。
植物のスケッチが終わったところで、島の四聖獣が描かれていた。青龍、朱雀、白虎、そして玄武が、砕かれた頭と足を復活させて、そこには描かれている。
「すごいな、これは……」
佐川が嘆息する。
「いずみは、どうして玄武を元のままの姿で描くことができたんだろう? 見たことはないはずだ……誰かに写真でも見せてもらったんだろうか……」
青洲は茫然と呟く。
砕かれる前の玄武を、いずみは見ていないはずだ。しかし、手足の形や、頭の傾け具合や、玄武の目線などすべてが一致していた。
「これを見れば、四聖獣の修復は完璧にできそうだ。これのコピーをもらってもいいかな。すぐにでも鳴春に送りたいんだが……」
赤秀も感銘を受けたように口を挟む。
「四聖獣の修復って、もしかして、他の二体にも何かあったんですか?」
佐川が驚いたように問う。佐川が島を出た次の日に、青龍と朱雀は破壊された。そのことを知らせると、佐川は深刻そうな顔で、
「良かった、いずみさんがこれを描いていてくれて、本当に良かったですね」と言う。
どういうことかと問う赤秀に、佐川が続けた。
「いずみさんは名和家の血筋なんですよ。だから封印ができる。それぞれの四聖獣に宿っている魂が、今、この紙に定着させられているのです。玄武から続くこの一連の四聖獣の破壊は、呪を施されたものだと僕は推測しています。ただうっかりと壊してしまった、そんなものではないんです。だから玄武、白虎の破壊では、それぞれが守護していた対象であった薫さん、白舟さんにダメージがあった。しかし次の青龍と朱雀の破壊では、吉田さんにも赤秀さんにも影響がなかった。それはこの封印があるなしで左右されたのだと思います。僕は今、初めて、名和家の本来の力を確信できた気がします」
佐川は何度も一人頷いた。
そんな馬鹿な話が、と笑う赤秀に、信じられませんか? と佐川は静かに笑う。
「ちょっと、待ってくれよ」
そんな二人の間に青洲は割り込んだ。
「いずみちゃんは、鈴守だろ? 名和の血筋な訳がないじゃないか。彼女の母親が鈴守なんだから。父親は旧姓斎藤だ。仮に名和の姓を変えたのだとしても、名前は、心。四聖獣に何のかかわりもない名前じゃないか?」
今現在、散り散りになった三家が、今を昔のように子どもに名前を付けているとは限らない。しかし、斎藤心氏は生きていれば四十半ばの人間。あの頃の三家と吉田宗家の子どもたちは、生真面目なほどに、四聖獣の伝説を意識した名前を付けられていた。
青洲の言葉に、佐川は心得顔で何度か頷いて、
「そう思うのが普通なんでしょうね」といつものへらへら笑いを作る。
普通と笑われて、青洲はむっとする。
「何か知ってるんなら、さっさと披露しろよ」
不貞腐れた様子の青洲にニヤリと笑って、佐川は続けた。
「そもそも、四聖獣の色や属性は五行説に基づいて定められています」
五行とは、木・火・土・金・水の万物を形成する五つの元素が、順番に生みだされて循環する性質、相生、または相手を滅ぼしていく性質、相剋を持つというものだ。これが、万物は陰と陽から成るという陰陽論と結びついて、陰陽五行説とも呼ばれる。
これを四神にあてはめて、青龍が木、朱雀が火、白虎が金、玄武が水となり、残った土は中央に置かれ、黄龍か麒麟にあてられることが多い。この五大元素は、古代中国ですでに発見されていた五つの惑星とも相関関係にあるとされている。中国では、赤道を周回する星々をも観測し、これを二十八の星宿に分類しており、それを七宿ずつ分けて、やはり東西南北に配置した。これらを踏まえると、青龍は、東方を守護して、季節は春、五行に置いては、木の属性を司るということになるのだ。
「東方七宿は、角、亢、氐、房、心、尾、箕で、角宿が龍の角を、尾宿が龍の尾を指しており、この七宿をつなげると、龍の姿が浮かび上がるのです。つまり斎藤心氏の名前は、この東方七宿からとったものなんだと思いますよ。恐らく斎藤心氏は、名和家の五番目の子どもだったんだと思います。だからあからさまに青龍に関わる文字を付けられなかった。逆に、それが幸いしてうまく隠れられたのかもしれませんが……」
佐川の説明に、青洲も赤秀も黙り込む。
「さて、いずみさんの立ち位置が分かったところで、核心のページを見てみましょうか?」
青洲と赤秀は、はっと佐川に視線を送る。
「核心……」
呆然と呟く青洲に、佐川は軽く肯く。
「そうですよ。もうお分かりだと思いますが、このスケッチブックは名和家が施した封印なんです。当然、その力に気づいたいずみさんがすることは、一つです。復讐の相手を封印すること。ほら」
佐川はスケッチの最終ページをめくる。途端に、青洲と赤秀の口から嘆息が漏れた。
「華陽……」
青洲が苦しげに眼を閉じた。
「あの日、いずみちゃんの前に現れたのは……」
青洲は、いずみに元妻華陽のことを、まだ話せていなかった。青洲自身、華陽に対して未だに心の整理がついていなかったし、本音を言えば、許せていなかった。憎んでいた。そんな感情をいずみに知られたくなくて、話していなかった。
青洲は考える、もし自分が華陽と薫の事件のことを話して、青洲の気持ちを知っていたら、いずみはもっと華陽に対して警戒したのではないか、容易く封印の絵の在り処を教えることなどなかったのではないか、あんな事件に巻き込まれずに済んだのではなかったか……青洲は呻く。
「そうです。彼女がいずみさんと、そのお腹の子を害し、名和家の封印であった絵を切り裂いたんです。そして中に封印されていたモノを解放した……」
「あの封印は何だったんだ? 華陽は何を何の為に解放した?」
佐川はパタリとスケッチブックを閉じる。
「それを説明するのは、少し長い話になりそうです。可能なら、もう一人の御兄弟の白舟さんもいっしょに聞かれることをお勧めしますが……」
生真面目な様子で提案する佐川に、青洲は頷いた。
遠くで、微かに春雷が轟いて、窓から湿気を帯びた風が、ざぁっと吹きこんだ。
参考図書 :世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本 東ゆみこ監修 造事務所編著