第二話 冬来たりなば春遠からじ(1)
いずみは部屋中を磨きたてていた。三年間も奉公先で仕込まれたので、掃除は得意だ。晩秋の乾燥した空気に埃が舞う。
マスクの代わりにタオルで頭と口を覆って、本をパタパタと打ち合わせる。エプロンだけは長年愛用してきたもので、奉公先を飛び出した時にさえ、ミニボストンに突っ込んで持ってきていたものだ。
本を本棚にしまい、脱ぎ散らかされたおじさんの服を畳んで隅にまとめ、万年床を押し入れに入れると、古ぼけた畳に座ることができるようになった。台所もトイレも近くの薬局で買ってきた重曹で磨きたてた。
おじさん……名前は吉田青洲という。なんだか、とても偉そうな名前だ。
でも、青洲さんと呼んだ方がいいかと訊いたら、その名前はあまり好きじゃないんだと眉間に皺を寄せたので、相変わらずおじさんと呼んでいる。吉田さんと呼ぶのも、なんだか寂しいし……。
掃除が一段落した時、ピンポーンと呼び鈴の音がした。
「はぁい」
いずみは慌ててタオルを外すと、ドアを開けた。そこには、知らない男の人が立っていた。
「はい、どちら様でしょうか?」
いずみの問いかけに男は答えず、黒ぶちの眼鏡のふちをツイッと指で持ち上げて、目を見張った。
「本当に、女の子がいる……」
その男の人は口を開くと、ポカンとした表情で呟いた。
「……はい?」
いずみはきょとんと見つめ返す。
「いやいや、疑っていたわけじゃあないんですがね? 吉田さんが世帯用の住宅に移りたいって言いだしたもんで、その……」
「モロ疑ってるんだろ?」
突然後ろから、おじさんの声がした。
「よ、吉田さんっ」
男の人は、引きつった笑いを浮かべた。
「最近は随分、市の対応が早くなったんだな。ちらっと世間話をした次の日に視察に来るとはね……」
「あの……中でお話します?」
いずみは、険悪な雰囲気のおじさんを促した。
「いずみちゃん、何をしてるの? 無理しちゃダメだろ?」
おじさんは部屋に入るなり顔を顰めた。
「何って、掃除してたんですよ。だって、すっごい埃だらけで……。ごめんなさいね、お座布団がないんです」
いずみは男の人に謝った。男の人はイエイエと首を振る。
「こいつに座布団なんているもんか、板の間にでも座らせとけよ」
さっき、押入れの中から出てきた湯呑セット(引き出物だったみたい)に、さっき買って来たばかりのほうじ茶を注いだ。
「あ、どうぞお構いなく」
「水で十分なのに……」
なんだか、おじさんは機嫌が良くないみたいだった。
おじさんのアパートは、平屋の小さな戸建てが集まった市営住宅の一つで、一番安くて狭い独り暮らし用の建物だ。
――おじさん、本気でいずみとその子供を引き取るつもりなのかしら……。
いずみが入院している間も、退院してからも、特にそんなことを言ってなかったので、確認しないまま一月ほどが過ぎていた。
「来春には、お子さんがお生まれだとか……」
佐川と名のったその男の人は、未だに信じられないという風情で問いかけた。
「五か月目に入ったところなんです」
いずみは、まだ、さほど膨らみの目立たないお腹を手でそっと押さえた。
「信じられない……」
佐川は、お茶をずずっと啜った。
「子孫を残せるのは、トキかパンダか吉田か、と言われていたあの吉田さんが……」
「おい、そんな事を今話さなくたっていいだろう? 気がすんだら、さっさと帰れよ」
佐川の言葉に、いずみがはっとして、泣きそうになっているのに気づいたおじさんが、慌てた様子で言った。
「はいはい、言われなくたって、もう帰りますよ。こっちだって暇じゃない。わざわざ昼休みを割いて見に来たんですからね。でも、確認が取れた以上、手続きをさせていただきますよ。後で、戸籍謄本とか必要な書類を出しに来てくださいね?」
佐川は、未だにキツネにつままれているとでも思っているような風情でアパートを後にした。
「おじさん、私……」
自分は、おじさんの子孫を残そうとしている訳じゃない。おじさんの優しさに甘えているだけだ。
「気にするな」
「でも……」
――いずみには、そんなおじさんの優しさに甘える権利なんて、少しもないのに……。
「俺が産んで欲しいといずみちゃんにお願いしたんだ。君の優しさに付け込んでいるのは、おじさんの方なんだよ」
おじさんは、いずみの心中を読んだかのようにそう言った。
「でも、世帯用のアパートなんて……ダメだよ。いずみにそんなお金をかけるだけの価値なんてない。それにそんなお金どうするの?」
「いずみちゃんは、おじさんのこと、すっごい貧乏だって思ってるだろ?」
おじさんは、大きな溜息をついた。
「え?」
――貧乏なんじゃないの?
「まぁ、そう思うのも無理はないよな。こんなアパートだし、こんな格好だし……」
おじさんは苦笑した。
「だって、入院費の前金を払うときも……」
「そうか、そう言うのもあったな」
おじさんは頭をポリポリ掻きながら続けた。
「あの時は、確かにお金がなかったよ。と言うのも、前の月に有り金のほとんどを定期に入れさせられちゃったんだ。凄腕の金融関係の知人がいてね。それでも生活費は残しておいたんだよ? でも、そういう状態の時に限って、欲しかったパソコンが安売りしててね」
確かに、おじさんの部屋には、最新のノート型パソコンが、卓袱台にぽつりと乗せられている。
それだけが部屋の中で浮いていて、『えーと、僕の場所はここで、オーケーなの? ホントに?』と呟いているようなのだ。
「次の給料日まで、なんとかすれば、なんとかなると思って買ってしまったんだよ。入院費の時も定期を解約すれば良かったんだけど、なんだか、色々説明させられそうで面倒くさくてね、君には心配かけちゃって……悪かったね」
「じゃあ、大丈夫なの? いずみがここにいても、おじさん、困ったり、無理したりしていない?」
「無理なんてしてないさ。贅沢はさせてあげられないかもしれないけど……ね」
「……」
「おじさん、実は、いずみちゃんにお願いしたいことがあるんだ。どうしようかって迷っているんだけど、もし、いずみちゃんが嫌じゃなければ、でいいんだけど……」
おじさんは、かなり躊躇っているようだった。
「なぁに? いずみにできることなら何でもするよ?」
「さっき佐川が言ってたことなんだけど……世帯用のアパートを借りるのに、戸籍謄本がいるんだよ。それで、君に……おじさんの籍に入ってもらえたら、いいなーって……あ、でも嫌ならいいんだ」
「おじさん、本気なの? 本気で……」
「ああ、ダメだよね。いやいや、聞かなかったことにしてよ。他の方法を考えるよ。あ、そろそろ、仕事に戻らなきゃ」
いずみは、逃げるように部屋を出て行こうとしている、おじさんの背中に抱きついた。
「おじさん……後悔しない?」
「いずみちゃん……」
おじさんは振り向いて、いずみを抱きしめた。
「いずみちゃんこそ、後悔するかもしれないよ?」
いずみはおじさんの胸に顔を埋めたまま、首を横に振った。
「おじさん」
「いずみちゃん」
二人は見つめあって、微笑みあった。いずみがキスをねだるように、目を閉じる。少したじろいだおじさんの気配が伝わってくる。
「いずみちゃん……」
おじさんが意を決して、口づけようとした、その時、突然音楽が鳴り始めた。
『じ~んせい、らっくありゃ、く~もあるさ~』
ビクリと二人して飛び上がる。音のする方を見ると、見慣れない黒い携帯がうなっていた。
「……はい」
『あ、その声は、もしかして……吉田さん?』
佐川の声だ。
「もしかしなくても吉田だ」
『あは、すみません。僕、ケータイを落としちゃったみたいで……』
「……」
『よかったー、吉田さんとこで。もう昼休みは終わりですよ? ついでなんで、そのケータイ、届けてもらって構いませんかぁ?』
『構う!』と言いたい気持ちを呑みこんで、青洲は了解と告げた。
その夜、青洲が婚姻届を持って帰った。緑色の枠の薄紙のあれだ。
「これが婚姻届?」
――初めて見た。
しかし、しげしげと見つめていたいずみは、顔を曇らせた。
「おじさん、いずみ、やっぱり結婚できないみたいだよ」
「どうして?」
青洲は、ごくりと唾を飲み込む。
「だって、いずみ、未成年だもん。親の承諾がいるって、ここに……」
「いずみちゃん、未成年?」
青洲が、ぎょっとしたのが分かった。
「もうすぐ十九になるよ。父さんは小さい頃に死んじゃったし、母さんなんて、どこにいるんだか分かんない」
「そうだったんだ……たくさん苦労をしたんだね……」
青洲はそう言うと、何度もいずみの頭を撫でて、ずっと抱きしめてくれた。