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野いちご  作者: 立花招夏
38/61

第十一話 人を呪わば穴二つ(3)

 外には明るい陽光が溢れている。

――すっかり春ね

 秋子は自分にあてがわれた部屋の片隅で、窓の外を眺める。生垣のレンギョウが花盛りで、黄色い花がいかにも楽しげに咲いている様子を見て、秋子は目を細めた。


 志木聖は今入院している。二週間ほど前に、突然倒れたのだ。原因は不明なのだが、昏倒したまま目を覚まさない。数日前から華陽も具合が悪いとかで、検査入院をしている。

 秋子は志木聖と離婚したが、未だに志木家に留まっていた。封印と三種の神器と四聖獣の伝承の片が付くまでここに留まること、それが離婚に当たって、志木司が出した条件だった。

 何の事だか良く分からなかったが、離婚できると聞いて、秋子は二つ返事で承諾した。承諾すると、すぐに司はたくさんの書類を紙ばさみに挟んで持ってきた。当然、そのうちの一枚が離婚届である訳なのだが、他に挟まっているこの書類の束は一体何なのだろう。

「この書類はなんですか?」

 不審げに、離婚届の下に挟まっている書類に目を通す。何かの権利書のようだ。眉間にしわを寄せて文面を読み始めた秋子を司が制止する。

「あまり、詳しく読まない方がいいかもしれませんよ? お義母さん。いや、読んだ方がいいかな。離婚したくなくなるかもしれませんしね。志木家の財産が惜しければ、よくよく目を通して離婚を思いとどまることですよ。俺ならそうしますね」

 そう言って、司は目を弧にして笑う。

「志木家の財産なんて興味ありませんっ」

 秋子は口を引き結んで、良く確かめないまま、すべての書類に署名し、ハンコを押した。


 そして後になって、秋子は後悔していた。

――もっときちんと確認するべきだったかも……それに、もっと他に確認すべきことがあったんじゃないだろうか……

――あの離婚届はもう提出されたのだろうか? だとしたら、今ここに居る私の身分ってなんなのだろう。

 司は封印と三種の神器と四聖獣の伝承の片が付くまでと言ったが、一体それは何なのか、いつ片が付くのか、しかも、何故こんなことを司が決めるのか。秋子は聖の嫁であったはずなのだが……

「はぁ、私ってば、バカだなぁ。片が付くのが十年後とかだったらどうしよう……」

 唯一つ、ここに居られて良かったと思うのは、既に帰れる家がないという現実があることだ。名和家は既に離散しているし、養父母の家も、ほぼ同じような状態になっていた。

 秋子は更に憂鬱な気分でため息をつく。


 そもそも、自分が志木家に嫁いだのは、佐藤の家業であった鉄工所を潰さない為ではなかったか。志木家からの潤沢な資金を受けて、借金の返済は叶った。しかし養父母の心は、次第に荒んで行った。

 志木家を当てにして、更なる金融投資に手を出し失敗する。志木家に度重なる金の無心を始め、再三の申し出に志木家が断ると、ギャンブルや消費者金融にまで手を出す始末。結局、鉄工所は不渡りを出して倒産した。養父母は離婚し、どうにか人手に渡らずに済んだ実家に養父が一人でひっそりと暮らしている。養母は、田舎にある自分の実家に帰ったそうだ。養父の家が人手に渡らずに済んだのさえ、志木家のお陰という状況で……でも、養父のいる家にはもう戻れない。

――ここを出されて困るのは自分の方だ。

 秋子は一人苦く笑う。

――養父母はどうしてしまったんだろう。

 ギャンブルなどに手を出す養父ではなかったし、養母はしっかり者で、いくら困ったからとはいえ、養父が消費者金融などに手を出すことを止めないわけがないはずなのに……。しかも、久しぶりに会った養父は、すっかり人が変わってしまっていた。秋子は唇をかむ。

――あんな人ではなかったのに……どうして……


 そんなことをつらつらと考えていると、血相を変えた若いメイドがノックもなしに部屋に飛び込んで来た。

「もっ、申し訳ありません奥様。少しここに居させていただいても良いですか?」

 メイドの顔は蒼白だ。

「構わないけど……どうしたの? また?」

 聖が倒れてから、志木家の屋敷のあちらこちらで奇妙な現象が多発するようになっていた。無言電話はしょっちゅうで、時々電話の向こうで子どもの笑い声がするとか、女のすすり泣く声が聞こえるとか。また、冷蔵庫のものがすぐに腐ってしまうとか、拭いても拭いても廊下に水たまりができているとか、誰もいないはずの部屋から大勢の足音がするので、行ってみても誰もいないとかで、屋敷のメイドたちはすっかり怯えてしまっていた。

 メイドたちが騒ぐ度に秋子も顔を出すのだが、秋子が奇妙な現象に出くわしたことは一度もない。なんでも、秋子が近くにいると不思議な現象が起こらないのだそうで、今や秋子の部屋は避難所、もしくは結界と化していた。

「そうなんです。さっきシーツを取り出そうと思ってリネン室に行ったんです。そうしたら……」

 鍵など掛かっていないはずのリネン室のドアが開かないのだと言う。無理やりドアノブを回そうとガチャガチャすると、中から女の泣き声がする。気づいたらドアノブが生ぬるく濡れており、慌てて手を放すとべったりと血が付いていたと言う。

 ガタガタ震えながら拳を握りしめるメイドの手を、秋子は解いて開いてみるが、血らしきものは何も付いていない。

「大丈夫、血なんて付いてないわ」

 秋子は、メイドを椅子に座らせると、気を落ち着かせる為にカモミールティーを用意する。

「お、奥様、申し訳ありません。こんなことまでさせてしまって……後は、私がっ」

 ティーポットからカップに注ごうとしたところで、メイドが慌てて立ちあがる。

「いいから座ってなさい。それに私、もう奥様じゃないし……」

 湯気が立つカップにハチミツを小さじ一杯入れてかき混ぜる。

「いいえっ、奥様です。どうしてそのようなことを?」

 メイドはブルブルっと首を横に振って、元々大きな瞳を更に見開いて問い返す。

「あら、聞いていないの? 私はもう志木家の人間じゃないのよ? だって離婚届にサインしたし……」

 そう言う秋子に、メイドは少し戸惑った様に首を傾げた。

「でも、やはり奥様です。司様から、引き続きそう呼ぶようにと言われておりますので」

「?」

 秋子も首を傾げる。

――相変わらず、あの人(司)の考えていることは良く分からない……


 ようやく落ち着いて部屋を出て行ったメイドを見送って、秋子は小さくため息をついた。秋子はなるべく屋敷内をうろつかないようにと申し渡されているのだ。大旦那様である聖の目につかないようにと言われている。一度、聖にひどい目に遭わされてからは、すっかり聖のことが怖くなっていたので、喜んでこの部屋に引きこもっていた訳なのだが、春の陽気に誘われて、外に出てみたいと思いたった。

――大旦那様も華陽さんもいないし、司さんは会社だし……構わないわよね?


 久しぶりに外に出た気がする。玄関の扉を開いて、秋子は外の光の強さに目を細めた。行くあてがある訳ではなかったが、ぶらぶらと庭を歩いて門へと向かう。八重桜が重そうな花を誇らしげに風に揺らしていて、風には幽かに清浄な甘さが溶け込んでいる。春は秋子の一番好きな季節だ。すべてが初々しく、次に来る季節への期待と不安に戸惑っている。均一でない空気。その不安定さが、逆に心地よい揺らぎを秋子に感じさせる。清々しい気持ちで歩いていると、門の少し手前で声を掛けられた。

「奥様、どちらへいらっしゃるのですか?」

 メイド長の野上だ。歳は五十になるくらいだろうか、それほど年嵩には見えなかったが、意志の強そうな眉と艶やかに結い上げた黒髪が印象的な女性で、大抵の使用人は彼女がいるだけで、無口になり、行動的になり、有能になる。野上が、直接秋子に何かを言ってくることはほぼなかったが、常に監視されている、そんな気はしていた。

「あの、えっと……お天気も良いようだし、少し散歩にでも行ってこようかと……あっ、それに、佐川のおば様に預けてある茶丸の様子を見てこようかな……なんて……」

 秋子は引きつった笑顔を浮かべ、ふと思いついた用事を口にしてみる。

 茶丸は野良犬だった。ある日志木家の敷地に逃げ込んで、飼い犬であり番犬であった志木家の犬達にいじめられて、屋敷の床下に逃げ込んでいたものを秋子が見つけ保護した。茶色で丸っこい顔をしていたので、茶丸。秋子が付けた名前だ。今は、訳あって、佐川の家に預けてある。佐川家は志木家の遠縁に当たる家だ。

「特別なご用がない限り、屋敷内から出さないようにと司様より承っております。しかも今は、大旦那様が一大事の時、少しご自重していただかないと、使用人たちにも示しが付きません」

「……すみません、天気が良かったものですから、つい……。大旦那様のことを考えないことは無かったのですが、ずっと、部屋に居たので……息がつまりそうで……」

 さっきまでの清々しい気分が一気にしぼんでいく。項垂れて、それでも、くどくどと言い訳をする秋子に冷徹な視線を落として、野上は再び口を開いた。

「このようなことを一介の使用人が口出しすべきではないと思いますが、あえて言わせていただきます。大旦那様ならびに司様が、奥様の為に、どれほどご尽力くださったのかお忘れでしょうか? 佐藤家の窮地を救い、それでも立ち行かなくなった御尊父様が、終の棲家であったご実家を手放さずに済んだのは誰のお陰です? 不渡りを出した鉄工所の従業員二百十余名、誰一人失職することなく、再就職できたのは誰のお陰だったでしょうか? この志木家一大事の折、少しくらいの不自由を堪忍できぬとは、あまりにも大人げないとお思いになりませんか?」

「……ごめんなさい……部屋に戻ります」

 秋子は項垂れたまま、しおしおと自室へ戻った。

――なんて至らない嫁だと思われているんだろうな。もう嫁じゃないのだけれど……

 秋子は、泣きそうな気持で小さくため息をついた。


 その日の午後、志木家は突然慌ただしくなった。大旦那様の意識が回復したのだ。聖は、すっかり衰弱しきっていたが、屋敷に戻りたいと言っているらしい。そこで医者とも相談した結果、本人の意向を汲んで、自宅療養に切り替えることにしたのだと言う。衰弱が激しいので、免疫的にも弱っている、とにかく清潔にとの医者の指示の元、屋敷中の窓と言う窓が張り開けられ、大掃除が開始された。日頃から掃除は行きとどいていたが、カーテンや絨毯まで清潔にと言われれば、やり直すしかない。


 そんな作業中に、メイド長から秋子は呼び出された。

「奥様、誠に申し訳ないのですが、大旦那様のお部屋を大掃除致しますので、少しお力をお貸し願えませんでしょうか?」

 聞けば、奇妙な現象は、大旦那様の部屋で起こる回数が断トツで多いらしい。メイド達が怯えて、作業が一向に進まないのだと言う。

「私もすべてを信じている訳ではないのですが、時折、背後に気配を感じることがございまして……」

 いつもの威厳が少しばかり鳴りを潜めて、心なしか心細げにみえる野上に親近感を覚えた秋子は、二つ返事で了承した。


 大旦那様の部屋は、以前、ひどい目に遭わされた時に入ったきりで、それ以降近づいてもいない。少しばかり不安はあるものの、たくさんの使用人が立ち働いているのを見れば、すっかりそんな不安も吹っ飛んで、秋子は張り切って部屋の中へ入った。

「まぁぁ、奥様はそんなことをしなくても良いのですよっ」

 秋子が雑巾を絞っていると、血相を変えた年嵩のメイドが慌てて秋子から雑巾を取り上げた。

「だって……私は何をすればいいの?」

「ここに、居てくださればいいのです。あちらのソファに座って、お茶……は、今は無理ですが、後ほどご用意致しますので、本でもお読みになっていてくださいませ」

 埃っぽい空気をハタハタと手で追いながら、書棚の傍にある応接セットを指し示した。

「……はい」

 秋子は言われるままに、ソファにすとんと腰を下ろす。

 最近、秋子の扱いは、ほぼ結界師だ。特に何をしているわけではないのだけど……秋子は首を傾げる。確かに、所謂霊感があるとかないとか、世の中で言われる類の話には無縁であるというのは昔から自覚があった。だって、自分の目や耳や感覚で確認できないのだ。信じろと言う方が無理だろう。だけど……志木家に来て、何かが居る、それを時々感じるようになった。大抵、司が傍に居る時だ。突然記憶が飛んで、今まで自分が居た場所から移動している。移動した記憶は無い、だけど時間が少しだけ経過している。つまり自失している間に行動したとしか考えられない。

――ヒルコ……あれはなんなのだろう。霊? 私は一時的に霊に憑かれているということなんだろうか? 自失している間、私の体をヒルコが動かしているということ?

 しかし、問題なのは……秋子は呻く、その間に自分がしていることなのだ。大抵の場合、自分から司に……もうやめよう、思い出したくもない。


 司に抱かれるたびに、何かが一つ一つ繋ぎとめられていく。そんな気がしていた。それが司の望みなのか、秋子の望みなのか、あるいは単なる秋子の勘違いなのか……分からないまま今に至っている。ただ、何となく感じるのは、何かの理由で司が自分を必要としているということ。

 今まで司が秋子にしてきたことは許しがたいことばかりだが、それ以上に、司の真意の方が気になった。

――何か理由があるのだ。

 鈍い秋子にもそれくらいは感じ取れる。ただ単に、ひどい目に遭わせて楽しんでいるのではないと思う。

――いや、たまにはそうなのかもしれないが……。

 その証拠に、司が秋子に手を上げたのは一度だけ。しかも、司を拒んで果物ナイフで自刃しようとした時だった。それ以来、秋子の前には果物ナイフもステーキナイフも、デザートナイフでさえ、一切並ばなくなった。すべて一口大にカットされている。これじゃ、キッズプレートだ。秋子は苦笑する。


 司は一見暴君に見えるが、むしろナイーブだ。秋子はそう思う。

 もし、この婚姻が聖とではなく、司とのものであったなら……秋子は考える、そうであったら、自分はこれほどまで悩むことなく、傷つくことなく、司の伴侶として暮らしていたのではないだろうか?

 否、こんな仮定を考えても仕方のないことだ。秋子は深いため息をついた。


 本でも読んでおいてくれと言われたが、特に読みたい本も持ってこなかったし、今から取りに行きたいような本もない。仕方なく、大旦那様の書棚を覗いてみるが、経済や、経営の本ばかりで、秋子が読めそうなものはないようだ。唯一、書棚の下段の隅に、世界の名画集が並んでいたので、ヴラマンクの画集を抜き出した。


 モーリス・ド・ヴラマンクは十九世紀の終わりから二十世紀初頭にかけて活躍したフランスの画家で、フォーヴィスム(野獣派)の代表者だ。叩きつけるような荒々しいタッチの絵が有名だ。彼の有名な言葉に、

『花瓶とクロスとは同じ物質か? 地上に落ちた花瓶は、音を立てて割れなければならない。クロスの落ちる音は軽い。机を打てば木の音がしなければならない。それを描いてこそ絵なのだ!』というものがある。物の本質をエネルギッシュに描いた画家なのだ。秋子はこの画家の絵が大好きだ。見ていると元気が湧いて来る。


 モノの本質を捉えたいと、かつて、秋子も美大で奮闘していたことがあった。もっとも、秋子が取り組んでいたのは、絵ではなく彫刻だった。名和家の者は、美術系の学校に行く場合にかぎり、ある企業から援助を受けることができた。だからこそ、両親を失って、養女になっていた秋子でも、気兼ねなく金のかかる美大に行けた訳なのだ。

 仕方なく、秋子は画集を眺めながら、掃除が終わるのを待つことにした。


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