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野いちご  作者: 立花招夏
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第十一話 人を呪わば穴二つ(2)

 いずみが少しずつ変化してきたのには気づいていた。

 最初に出会ったあの雨の日から逃亡して島に辿りつくまでは、常に頼りなげで、自分の意志を持っていないんじゃないかと心配するほどだったのだ。島で玄武を見たいと言い張った辺りから変化が始まったような気はしていたが、確実に変わったと認識したのが、この奥病棟に移ってからだった。常に不安そうで、その不安を埋めるために闇雲に助けを求めて手を振りまわしている、そんな様子だったのだ。ずっと以前から断崖絶壁の上に居たのに、突然、こんな所にいたのだという現実に気づいて、怯え、助けを求める、そんな様子に似ていた。

 青洲は、赤秀が出て行ったドアのカギをカチャリとかけた。

「……青洲さん?」

 少し怯えた瞳が青洲を見上げて小さく名を呼ぶ。

「……」

 青洲は無言のまま、いずみを抱き上げるとベッドへと運んだ。ベッドの縁にいずみを腰かけさせて、青洲はその前に立ち、いずみの瞳を覗きこむ。

「佐川がそんなに心配?」

「え?」

 思いがけないと言う顔でいずみが青洲を見上げる。

「……心配ですよ。青洲さんは心配じゃないんですか?」

 青洲は、心配だ、といずみの言葉に同意する。

 赤秀の話にいずみが動揺したのは三度。絵の送り主の死、佐川の失踪、そして絵の描き手についてだった。いずみは、あの絵のことを随分前から知っていたのかもしれない、あの絵が封印だったことも、もしかしたら描き手のことも知っているのかもしれない。

――封印できる描き手……いずみの父親は絵描きだが、彼に封印などできただろうか?

 中川に調べさせたところによると、斎藤心の絵は風景画しかないと聞いている。あの野いちごの絵は抽象画で、しかも斎藤心氏の画風とは異なるものだった。封印ができる描き手など、そうそう居るものじゃない。恐らく封印をしたのは、鈴守か名和か石守の血筋であるはずだ。

 石守冬樹……青洲の脳裏にこの名前がゆらりと浮上する。青洲は重い気持ちで、次の質問を口にする。

「あの絵は何だった? 君はあの絵が何か知っていたんだろう? 切り裂いた時に、何が起こった?」

「……」

 途端に重い沈黙が返ってくる。

「それとも何も見なかった? 切り裂いたのが君じゃなかったから……」

 青洲の言葉に、いずみは頑なな表情で、青洲を睨みつける。

「私がやったの!」

 いずみの言葉を無視して青洲は続ける。

「……切り裂いたのは、俺に言えない人間だった?」

「……」

 無言で目をそらすいずみの顎を指先で持ち上げて、青洲は口づけた。いずみの軽い動揺が伝わってくる。構わず、青洲はいずみをベッドの上に押し倒す。

「……青洲さん? 青洲さんっ」

 いずみの細い手首をベッドに押しつけたまま、何度も口づけを落とし、首筋に唇を這わせる。触れる素肌の滑らかさに、零れる吐息の甘さに、切なげに自分の名前を呼ぶ声の頼りなさに、吹っ飛びそうになる理性を押えこんで、青洲はいずみの反応を冷静に観察する。

 衣服の下の素肌に青洲の手が触れても、肌蹴た胸元に唇を這わせても、戸惑いがちな瞳が時折青洲に向けられるだけで、いずみは抵抗らしい抵抗を示さない。

「抵抗……しないんだ」

 青洲の言葉に、ふと我に返ったように、いずみは押さえつけられたまま青洲の瞳をぼんやりと見上げる。

 青洲は初め、いずみがお腹の子を失って呆然自失になっていて、何も語らないのだと思った。次に、いずみの異常なまでの頑なさに、何かを隠しているのだと思った。そして、赤秀の話に動揺するいずみを見て、誰かを庇っているのでは……と思いついたのだった。

 庇うのならば、心当たりは一人しかいなかった。

 石守冬樹だ。いずみは石守家で奉公していたのだ。あの絵のことも封印のことも、石守家で何かを知った可能性がある。密かに中川に調べさせていたのだが、今現在、石守冬樹は行方不明だ。病気療養中だと志木司は言ったが、石守家にもいないし、どこかの病院にいるという情報も出てこない。中川は外国に行っている可能性を示唆したが、もし、何らかの理由で国内に潜伏しているとしたら? そしていずみの前に現れたのだとしたら……

 あの日あの部屋で何があったのか、青洲は時間を掛けて、いずみから聞きだそうと考えてはいるのだが、何一つ事態が前に進まない。いたずらに青洲の嫉妬心や、いずみを失うことに対しての恐怖心が嵩を増してゆく。既に危険水位に達していた。

――もう溢れそうだ……しかし……

 力ずくでいずみを支配しても、心まで支配することはできない。

――いずみの本心を知りたい。石守冬樹を庇っているのでなければ、何を隠してる?

 青洲は苦しげなため息をつくと、いずみから離れた。

「……どうして、私が抵抗するって思ったの?」

 いずみが身を起こして、胸元の衣服を掻き合わせながら問う。

「君が……石守冬樹を庇っているんだと思っていた。ここに……あの日、あの絵がある部屋に、彼が来たんだと思った。そして石守冬樹が絵を切り裂いたんだと思っていた……」

 石守冬樹に恋情を抱いて庇っているのなら、いずみは青洲を拒絶するはずだ、そう思ったのだ。

「私が冬樹さまを選んだから、青洲さんを拒絶すると思ったの?」

 突然その場に相応しくないクスクス笑いが聞こえて、青洲はそらしていた目をいずみに戻す。

「青洲さんは、私を買いかぶり過ぎてる」

 はんなりとほほ笑むいずみに、青洲は怪訝そうに首を傾げる。

「私は、優しくされれば誰にでも体を許す、そんな女なのよ。青洲さんが考えているような女じゃない。そう、誰でもいいのよ」

 いずみの笑みが深くなる。

「……いずみちゃん。何を言ってるんだ?」

 青洲は眉間にしわを寄せた。

「赤ちゃんの面倒を見てくれそうだったから、青洲さんの傍にいただけ。それだけなのよ。それだけの理由があれば、私は誰にだって抱かれるわ」

「いずみっ」

 青洲はいずみの腕を掴んで手を振りかざした。いずみは、一瞬だけ身を強ばらせたが、すぐに青洲を真っ直ぐに見つめる。

「打てば? それで青洲さんの気が済むならちっとも構わない。もう、面倒なのはうんざりなのよ。私は自由になりたいの。だってまだ若いんだし、今までやれなかったことだらけだったから、それを一つずつやっていきたいの。だから、もう私には構わないでほしいの」

 青洲は、振りかざした手を下ろしてギュッと握りしめ、震えるような深呼吸を一つする。

「……何をしたいんだ? 君は何をするつもりだ?」

 押し殺したような青洲の問いに、いずみは臆することなく、ほほ笑んで答える。

「……色々なことよ。友達を作って一緒にショッピングに行ったり、旅行に行ったりしてみたいわ、それに私、同年代の男の子と遊んでみたいのよね。私、若い男の子と遊んだことないから」

「……」

 にっこりほほ笑むいずみの視線を、青洲は受け止めきれずに目をそらした。やがて、くるりと背を向けると、荒々しくドアを開け、青洲は無言のまま部屋を後にした。


 いずみは一人、病室に佇んだまま、ぼんやりと窓の外を眺める。

――ネスト(巣)から出る時が来たんだ……

 はた、と涙が零れ落ちる。

 心の中で目覚めた憎悪が、日を追うごとに強さを増していた。いずみの心の中で、確かに聞こえていた諌める声や宥める声が、どんどん力を失って、真っ黒な鬼の心が荒れ狂う。

――ごめんなさい。青洲さん。もう、青洲さんは私なんかと関わってはいけない。私は、私が犯してしまった過ちの後始末をしなきゃならない。その為に、きっと私は……人を殺す。青洲さんは殺人犯なんかと関わってちゃいけないんだ。

――ごめんね、青洲さん。私……人を殺したいの……

 いずみは、スケッチブックを取り出した。心を集中させるために、目を閉じ、記憶に刻みつけられた標的の顔を呼び出す。

――許さない。髪の毛一本でさえ例外なく、私はあなたを閉じ込めて逃がさない。待ってなさい、華陽さん、私はあなたを許さないわ。


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