第十一話 人を呪わば穴二つ(1)
ドアの外で言い争う声が、部屋の中まで聞こえてくる。
「もう少し待ってくれ、赤秀」
青洲の声だ。
「もう一週間以上待った。十分だろう? 話を聴くだけだ、何も取り調べをしようと言っているんじゃない」
イライラした様子の赤秀の声が響き渡る。
「いずみはまだ落ち着いていない。もう少し待ってくれ」
青洲が懇願するように赤秀を押しとどめている背後で、ドアが開いた。
「青洲さん、私なら大丈夫だから……」
青洲にそう言うと、いずみは赤秀に視線を移して、どうぞとドアを広く開けた。
「……いずみちゃん……」
困惑する青洲を赤秀は一瞥すると、病室に入って行く。それに続きながら、青洲は小さくため息をついた。
――精神的に落ち着いていないのは、むしろ俺の方だ……。
あの日、マメ太を失ったと知って、いずみはパニック状態に陥った。
「嘘! 嘘だよね?」
「……」
沈黙する青洲に取り縋って揺さぶりながら、いずみはマメ太に会わせて欲しいと懇願した。
「マメ太に会わせて! どこにいるの? マメ太に会わせてよっ」
「……事故か事件か分からないから……調べてるんだ……だから、今は……会わせられない……」
「そんな……ひどい……まだ小さいのに……まだ……あんなに小さかったのに……ひどい……」
いずみは、取り縋った手を力なく、はたり、と落とした。
「いずみちゃん、あそこで何があった? あの部屋で何があったんだ? 教えてくれないか?」
「……」
青洲の問いかけに、いずみは、途端に彫像のように固まった。
「いずみちゃん?」
「……マメ太にひどいことをした人は罰せられる?」
「当然だろう?」
「死刑にされる? マメ太と同じように!」
いずみの口から飛び出した言葉は、青洲の予想を上回るほど憎しみがこもったもので、それまでの弱弱しかったいずみのイメージからかけ離れたものだった。
「それは……裁判所が決めることだね」
いずみから飛び出した言葉の強さに、思わず青洲は口ごもる。
「……私がやったんだ……」
「いずみちゃん……」
「あの絵を切り裂いて、マメ太を死なせたのは私よ、全部私がやったのっ……」
小さな握りこぶしを震わせて、視線を床に落としたまま、いずみが叫んだ。
「いずみちゃん、俺の目を見て言えよ!」
逸らしていた目を青洲に向けて、いずみは何度も何度も、自分がやったのだと言い張った。そして、もうここにはいられないから、出て行くと言う。
せめて抜糸が済むまではとか、せめてもう少し体力が回復するまではとか、色々な理由を付けて、もうしばらくここに留まるようにと、青洲は説得していた。
マメ太を失ったショックで、そんなことを言い出したのだろうと青洲は思っていて、もう少し精神的に落ち着けば、本当のことを話してくれるだろうとも考えていたのだが、予想に反して、いずみの態度は日を追うごとに硬化していった。
――俺達も本当のことを話すべきなんじゃないだろうか……
何度も何度も自分の心に問いかける。白舟の意見はもっともだが、これではいずみの暴走を止めることができない。
――短慮を起こさないでくれると良いのだが……
ベッド脇のソファの一人掛けの椅子に赤秀が座り、その向かいの二人掛けの椅子に青洲といずみが並んで座る。
「さて、そろそろ本当のことを話してもらおうか。あの部屋で何があった?」
赤秀の威圧的な言葉にも、臆する様子もなく、いずみは赤秀を真っ直ぐ見つめた。
「……私がやったんです。絵を切り裂いて……勢い余って転んで……それで……」
「へーえ、転んだだけで筋弛緩が起こるのか? 君は……」
赤秀は冷えた視線をいずみに注ぐ。
「……」
赤秀が睨みつけても、いずみは怯むことなく無言のまま睨み返す。
「では聞くが、君が切り裂いたあの絵がどんなものなのか、君は知っているのか?」
「……」
――封印だ。今なら分かる。あの絵から解き放たれたあの黒い煙を見た今なら、あれがどんな絵だったのか、父が何をしていたのかが分かる。
だまりこむいずみを睨みつけて、赤秀は続けた。
「あの絵は封印なんだそうだ。送り主が、そう書いてあった。あの絵を守るために、少なくとも二人の人間が命を落としている」
赤秀の言葉にいずみははっと顔を上げた。
「命を落とした……」
「そうだ。その絵を描いた封印主と、送り主だ」
「……」
――送り主って、まさか……まさか……
いずみは動揺する。
「おい、ちょっと待てよ、そんな話俺も聞いてないぞ」
青洲が横から口を挟む。
「これがあの絵と一緒に同梱されていた手紙だ」
赤秀は一通の手紙を取り出して、青洲に手渡した。
拝啓
宗家 龍生様
突然このような物を送りつける無礼を御許しください。
当方、訳あってこの絵を所持することが難しくなったため、宗家吉田龍生様にこの絵を託したいと存じます。この絵は、名和家が残した最後の封印になるやもしれません。
実は、この封印は私が施したものではなく、私の甥もしくは姪が施したものであるはずなのですが、それを確認することは叶いませんでした。かなり以前から封印が不安定になっており(封印主が、既にこの世にいない可能性も考えられます)、そうでありますのに、残念ながら、私には、この絵の封印を維持する術がありません。つきましては、この絵を島の神社に奉納していただくことはできないでしょうか。多少なりとも封印を維持できるのではないかと思いついた次第でございます。加えて、四聖獣の伝承の真の意味を解読し、再び、宗家と三家、ひいては島の安寧を得られますよう、御助力頂ければ幸いでございます。
とりいそぎ、用件のみにて失礼いたします。
平成○年×月○日
田口俊秋(旧姓 名和)
敬具
青洲の横から手紙を覗きこんでいたいずみは、送り主の名前に小さく息を呑んだ。
「この送り主が……亡くなったんですか?」
がくがく震える指先を握りしめながら、いずみが問う。
「そうだ。宅配業者が異変に気づいて通報したらしい。俊秋氏は奥の間で倒れていて、既に絶命していた。検死の結果は突発性呼吸不全ということだった。玄関先に梱包されたこの絵があって、ここが送り先になっていたから、連絡があったんだ」
「いずみちゃん、この日付……」
青洲が手紙の日付を指でなぞる。
「君に出会った日だ……」
薫の命日でもあったあのひどい雨の日……名和家の一人が命を落とし、しかしその遺志により、この絵は吉田に辿りついた。そして、いずみもまた、青洲の元に辿りついたのだ。
「……」
いずみは悲しげな顔で黙り込んだままだ。
「この絵は誰が描いたんだ? 調べたのか?」
「……」
いずみは動揺して、びくりと体を強ばらせるが、それに気づいた様子もなく赤秀が答える。
「もちろん調べたさ。しかし、名和家っていうのはすごく捜しづらいんだ。ほとんどの者が姓を変えて潜むように暮らしている。名和俊秋の兄と、その子ども二人を探し出せたんだが、すべて既に亡くなっていた。恐らく俊秋が書いてある通り、封印主も亡くなっているんだろう。封印というのが本当で、そのせいで俊秋が命を落としたのなら、封印主など真っ先にやられるはずだろう?」
「封印……か……」
青洲は考え込む。
――絵が切り裂かれたと言うことは、封印が解かれたということではないのか? しかし、吉田家にはその後何も変わりがない。島にいる三家にも連絡をとったが、何も異常はないと言う。異常と言えば、青龍と朱雀が壊されたことぐらいだ。
「赤秀、どうしてこの絵は、俊秋氏の遺志どおり島の神社に奉納していないんだ?」
青洲がふと思いついたように問う。
「しようとしたさ。だけど、鳴春がとてもこんなものを神社に置けないって言うんだ。手に負えないって。親父に相談したら、しばらくうちの倉庫に置いておけって。確かに鈴守には手に余るだろうって言うんだ。で、手に余るってなんのことだって言ったら、おまえたちには分かるまいよと見下したように言うんだ。マッタク、ムカつく親父だぜ。でも、あの頃は、親父もまだボケてなかったはずなんだがなぁ……」
そう言って赤秀は肩を竦めた。
「そう言えば佐川は? 島を出てこっちに向かっていると鳴春は言っていたが、連絡はあったのか?」
佐川には四聖獣の伝説を調べてもらっていた。
「それが……実は佐川と連絡が取れないんだ……島の西海岸の海底に、古い神社の鳥居が沈んでいるのを見つけたという連絡があって……それきりなんだ」
赤秀が眉間にしわを寄せる。
「神社の鳥居?」
青洲は首を傾げる。島にある神社は島の東、吉田姓と同じ名を冠した神社が一つあるきりだ。西側に神社があったなどと、昔話でさえ聞いたことがなかった。
一方、いずみは一人、赤秀の言葉に瞠目していた。
『僕が九字護身法を教えておいて良かったでしょう?』
佐川の得意げな笑顔がいずみの脳裏に浮かぶ。
――まさか……まさか……。あれほどまでに霊に対する対処法を身に着けていた佐川だ。何もあるはずがない。無いはずだ……でも……
あの封印から出て来た霊の気配は尋常のものではなかった。島で感じたあの女の霊どころではない。絶望的に暗く、底しれず冷たく、痛いほどの渇きを包含したエネルギー塊。
――あれは何処へ行ったのだろう。華陽の言った『伯父さま』とは誰のことなんだろう? もし佐川が、封印が解かれたせいで危険な状態に巻き込まれているのだとしたら? 一刻の猶予もないのだとしたら……
ここまで考えて、ふと、自分に探るような青洲の鋭い視線が注がれていることに気づいた。赤秀も怪訝そうに、いずみと青洲を交互に見つめている。いずみはゴクリと唾を呑んだ。
「いずみ、あそこで何があった? 君は何を見た?」
いつもよりも格段に低い声で、青洲が問いかける。
――こわい……
いずみは竦み上がって、青洲を見上げた。
「……赤秀、悪いが席をはずしてくれるか?」
いつもならば、赤秀がいる方が緊張して小さくなってしまういずみなのだが、青洲の怒気をはらんだ瞳に睨まれて、いずみは、部屋を出て行く赤秀の背中を縋るような思いで見つめた。