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野いちご  作者: 立花招夏
35/61

第十話 天は自ら助けるものを助く(4)

野いちご 赤い実だよ

木蔭で 見つけたよ

誰も 知らないのに

小鳥が見てた


野いちご 赤い実だよ

ひとつぶ つまんだよ

朝つゆ 光るよ ほら

こぼさぬように

(阪田寛夫訳 フィンランド民謡)


――歌声が聞こえる……くりかえし、くりかえし、穏やかに、安らかに、宥めるように、包み込むように……あれは……誰の声だったか……

『いずみは、この歌が大好きだな』

――父さんの声だ。

『でも、あなたが抱いていないとダメなのよ』

――母さん?

 生ぬるく不安定な夜。突然言いようのない不安におののいて、居ても立っても居られなくて、火がついたように泣きわめくいずみを、かつて誰かがしっかり抱きしめて宥めてくれていた。それをすっかり忘れていた。

『それに君の声じゃないとダメなんだよ』

 父さんが、優しくいずみの背中をポンポンと叩く。

『君の声は本当にいいね。君が初めて僕に声を掛けてくれた時、すっかり聞き惚れてしまったよ』

 そう言う父さんに、くすぐったそうに微笑み返す母さん。

――母はあんな柔らかい表情をしていただろうか? あんなやさしい声で笑っていただろうか?

『いずみ、丈夫に育ってね。元気に育ってね。それだけが、父さんと母さんの願いなのよ?』

――……母さん?


『いずみっ、起きろ! マメ太が死んじゃうよ』

――誰?

『もー、この報知機、ぜんっぜん誤作動しねー。吉田家こんなところに金かけてんじゃねーぞっ。おいっ、いずみっ、おまえが何とかするしかなさそうだぞっ。起きろよー』

――誰なの?

『ちょっとー、いずみだけじゃ無理よ。誰かおじさんに知らせに行って!』

『えー、おじさん、鈍感だからなー。ねぇちゃん行けよ。一番怨念強そうじゃん』

『きぃぃぃ、なんですって?』

――まさか! お姉ちゃん?お 兄ちゃん達?

『おい、いずみが目を覚ましたぞ』


 いずみは薄暗い視界の中で必死に目を凝らした。冷たい床の上で自由の利かぬ体がもどかしい。生温かかく広がっていた羊水は、既に冷えきっている。

――どれくらい時間が経ったんだろう……マメ太が死んでしまう……死んでしまう……助けを呼ばなきゃ……助けて……助けて! 青洲さんっ

「……た……たす……」

――思うように喉を越えぬ声……もどかしい……

『いずみ、左の奥、左の奥に……がある。押して!』

 お兄ちゃんの声が脳内で響く。

――無理よ。体がちっとも動かない。

『いずみ、マメ太が危ないのよ……早くしないと死んでしまう!』

――マメ太っ!


 ドアの外で誰かが騒ぐ気配がして、デスクで書類に目を通していた青洲はふと顔を上げた。秘書の中川が困った様子で入ってきた。

「青洲様、お騒がせして申し訳ありません、実は大旦那様が……」

 困った顔で報告する中川を背後から突き飛ばすような勢いで、青洲の父、龍生が部屋に乱入する。

「青洲! 何をしておるのだっ。薫が……またしても薫がピンチだと言うのにっ! 悠長に仕事などしている場合かっ」

 龍生は、こめかみに青筋を立ててどなり散らす。

「……父さん……」

 青洲は困惑と憐れみの表情を浮かべて口ごもる。

「父さん……じゃあるかっ、薫を捜せっ! 早く! 今すぐにだ!」

 龍生は掴みかかるように青洲の腕を引っ張った。そこに追いかけて来た赤秀が龍生の腕をとる。

「父さん、ほら、病室に戻るぞっ!」

「まったく! どいつもこいつもっ!」

 龍生が赤秀の腕を振り払って、元来た道を駆け戻ろうとした瞬間、火災を知らせる非常ベルの音が鳴り響いた。


 現場はひどい有様だった。真っ青な顔で倒れているいずみ、ずたずたに切り裂かれた絵画、棚から落ちて無残に砕けた調度品の置物。駆けつけたみんながいっせいに息を呑む気配がした。青洲は一瞬瞠目してから、すぐにいずみに駆け寄った。

「いずみ! いずみちゃん!」

 抱き上げた途端、右手からカラリとナイフが転げ落ちる。真っ青な顔、床に拡がる透明な液体、閉じられた瞼は微かに痙攣して、体が絶望的なまでに冷たい。

「いずみ! しっかりしろ! 今、助けてやるからっ」

 青洲はいずみを抱えあげると、悲惨な現場に右往左往している家人たちをかき分けて病室へ急いだ。


 手術中の赤いランプが灯った手術室の前で、青洲は長椅子に腰かけたまま頭を抱え込んでいた。

 いずみを診察した医師は、いずみが非常に危険な状態にあること、ただちに胎児を取り出す必要があること、そして……胎児がほぼ絶望的であることを深刻な表情で説明した。

――どうして? 何があった?

 倉庫の後始末をした中川から不穏な報告もあった。緑色の抽象画の切り裂き痕は、いずみが握っていたナイフによるものだろう、と……。

「いずみさんがやったのだと考えるのが、もっとも順当なのですが……」

「何の為に? 何の為にいずみがそんなことをしなきゃならないんだ!」

 青洲は中川に食ってかかる。

「そのへんは、いずみさんが回復し次第聴くことができるでしょう。それともう一つ、気になっていることがあるのです」

 なんだ、と青洲は不機嫌そうに問い返す。

 中川はスーツの内ポケットから四角く折りたたまれたハンカチを取り出した。

「いずみさんの病室に、このような花が一つ落ちていたんですよ……青洲様は、この花に心当たりがありますか?」

 中川が丁寧にハンカチを広げると、中から花びらが出て来た。ピンク色の釣鐘状の花で、花弁の内側に無数の斑紋がある。

「いや、知らない。こんな花は初めて見るよ」

 花弁を良く見ようと手を伸ばした青洲の手を、中川はやんわりと押しとどめた。

「申し訳ありません。触らない方がよろしいかと思います」

「?」

 怪訝そうに首を傾げる青洲に、中川は続けた。

「この花は、ジキタリスと言います。花壇などにも植えられている植物なのですが、有毒なのです。花を見て楽しむ分には良いのですが、口にすると危険なのです」

「まさか、この花のせいで……」

 青洲が目を見開く。

「いいえ、それは違います。この花の有毒成分は強心剤として働くのです。先ほど、白舟様に確認したのですが、いずみさんの状態は、そのような作用によるものではなく、むしろ、筋弛緩剤のようなものを使った状態に似ていると言うのです。私が気にしているのは、このような花が、病室にあったということなのですよ。病院に持ち込むにしては、この花は、不穏で、不適切だと……」

「それは……つまり……」

 青洲は口ごもる。

「もしかしたら、これを持参した来訪者は、いずみさんを害する為に、二重の用意をしてきたのではないかと……」

「……」

 青洲は瞠目する。

――それほどまでに強い意志を持って、害される理由がいずみにあったと言うのだろうか?

 中川の説明に、絶句している青洲の背後で手術室のドアが開いて、中から白舟が出て来た。

「兄さん、ちょっといいかな……」

 眉間にしわを寄せて難しい顔をした白舟は、青洲を手術室脇の小部屋へと誘導した。


――頭が重い。体中が痛い。あれ? どうして私、こんな所にいるんだっけ?

 うっすらと目を開けた視界に、点滴のパックが目に入る。

――そうだ、私病院にいて……ううん、ちがう……ちがう……華陽さんが来たんだった……

 いずみは目を見開いた。

「マメ太っ」

 慌てて、点滴を受けていない方の手でお腹をまさぐる。途端に下腹部に激痛が走った。

――いないっ! マメ太がいない。

 お腹の中でグリグリ動いていた、あの小さなマメ太の気配がすっかりない。いずみは痛みにかまわず、体を起こそうともがく。そこへノックの音とともに看護師が入ってきた。

「あら、目が覚めましたか?」

 看護師長の佐藤だった。佐藤看護師長は、いずみの顔を覗きこんで小さく笑う。

「あのっ、マメ太は? 赤ちゃんは?」

 いずみの問いかけに、佐藤看護師長は少し困ったように目を伏せた。

「……今、青洲様をお呼びしますね」


 いずみは放心したようにベッドに横たわっていた。青洲がそんないずみを心配そうに見つめる。

――手は尽くしたんだよ……

 青洲はそう言った。

――マメ太もよく頑張ったんだよ……だけど……


『じゃあ、呼びたいように呼んでよ』

 くすぐったそうな笑みをいずみに向けて、はにかみながらそう言った夢の中の少年の横顔を、いずみは思い出していた。

――マメ太……ううん、薫……ごめん、ごめんね。私のせいだ。あんな大事な絵がある場所に、あんな人を連れていくべきじゃなかったんだ。マメ太は、ちゃんと警告してくれていたのに、私……気がつかなくて……

 涙が後から後から零れては落ちて行く。

――ごめんなさい……薫……そう呼んであげられなくて……


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