第十話 天は自ら助けるものを助く(3)
その日、青洲のオフィスに島から連絡が入った。ひどく慌てて取り乱した様子の鳴春だった。
『青洲! おまえ大丈夫なとか?』
いきなりな問いかけに、青洲は面食らう。
「大丈夫って……何が?」
青洲の問いかけには答えもせずに、鳴春は更に問い返す。
『おまえは大丈夫なんばいな。そいなら、赤秀は? 赤秀は大丈夫なとか?』
赤秀と打ち合わせ中だったのだ。目の前の赤秀にチラリと視線を投げてから、青洲は返事をする。
「赤秀は、今、目の前にいるよ。代わった方がいいか?」
青洲の言葉に、報告書に目を走らせていた赤秀が何事かと顔を上げる。
『いや、大丈夫ならよかと。実は、島の青龍と朱雀が壊されとぉんたい。さっき、井戸ば使おうてした一太ん所の嫁が見つけたと。確認したら朱雀もやられとって……どっちも頭ば砕かれとって……。午前中までは何てもなかったとぜ? オイ、おまえたちが心配で……』
鳴春は泣きだしそうな声で言った。
「青龍と朱雀まで……」
青洲は呆然とする。
「俺たちは大丈夫だ。……うん、気を付けるよ。ありがとう。また近々、そっちに行くよ。佐川はちゃんと調べてくれてるんだよな? え? こっちに向かってる? そうなのか。分かった。大丈夫だよ。うん、分かってる。ありがとう。じゃあ」
青洲は電話を切ると、赤秀に島で起こったことを伝える。
「白虎の時は、白舟のやつひどい中耳炎を起こしてたけど、俺たちは関係ないみたいだな」
聞き終えた赤秀は、そう言って肩を竦めた。
「関係があったら大変だぞ? ひどい頭痛か脳溢血か、あるいは、会社を乗っ取られて経営者をクビになるかじゃないか? 頭を砕かれてるらしいからな」
青洲も肩を竦めた。
* * *
いずみは華陽を連れて、あの絵がある部屋へと歩いていた。一度しか行ったことがない場所なのだけれど、どこなのかはっきり分かる。気配を感じるのだ。より気配が濃密な方を選んで歩を進める。この前も、なんとなく歩いていたつもりだったが、結局はあの絵の気配につられて辿りついたのかもしれない、いずみは、そんな気がしてならなかった。
――あの絵は……結局、なんだったんだろう?
あの絵を描いた時の父の顔を思い出す。鬼神のようだった父の顔。
――父さんは、あれを何のために描いたんだろう。……あの絵のせいで、薫さんの事件が起こったの? もし……そうなのだとしたら、どうしよう……どうしたらいいの? 分からない。分からないよ……
「ねぇ、いずみちゃん、あなたは、その絵をここで初めて見たの?」
後ろをついて来ていた華陽が話しかける。
「……うん、どうして?」
心の中で警鐘が鳴った気がして、いずみはとっさに嘘をついた。
「じゃあ、その絵を誰が描いたのかは知らないのね?」
「……うん……知らない」
『いいか、この絵は父さんが描いたんだ。おまえは何もしていない。分かったね? いずみは何もしなかった。いいね、このことは忘れるんだ!』
父の声が脳裏に響き渡った気がして、いずみは、動揺しながらも返答する。
「そう……」
華陽は、いずみの動揺には気づく様子もなく頷いた。
ドアは前回と同じように、嫌な擦過音をたてて開いた。華陽は、開かれたドアから迷うことなく真っ直ぐにあの緑色の抽象画を目指して歩き出す。
「やっと……見つけたわ! こんな所にあったなんて……」
華陽は歩み寄ると、指先で絵をなぞる。中央の野いちごまで指を滑らせたところで、突然何か熱いものにでも触れたかのように手を引っこめた。
「忌々しいっ。ガゴウジ、今、出して差し上げますわ」
華陽は突然何か白銀に閃くものを振りかざしたかと思うと、絵の中央の野いちご目指して突き立てた。
「華陽さんっっ」
いずみは瞠目すると、慌てて華陽に駆け寄り制止する。
「放しなさいよ! まだ封印は解けていないわ」
深々と絵に突き刺さったナイフの柄が、いずみの動揺と共鳴するかのようにブルブルと振動する。
「華陽さん? どういうことなの? やめて、やめてよっ」
――父さんの絵がっ!
「邪魔よっ!」
華陽はいずみを容赦なく突き飛ばした。バランスを崩して倒れてしまったいずみを見下ろして、華陽は妖艶にほほ笑んだ。
「そう、そうだったわ。その前にその子を何とかしなくてはね……」
転んで強かに脇腹を打ってしまったいずみが、なんとか立ちあがろうと蹲っているところに、華陽は近寄ると、いずみの腕に何かを突き立てた。鋭い痛みが走り、いずみは悲鳴を上げる。いずみの腕から外された華陽の手には、薬液を注入し終わった注射器が握られていた。
「いたっ! な、何を……何をしたの?」
突然、脱力感がいずみを襲う。立ちあがろうとしていた腕から力が抜け、いずみは再び床の上に転がった。目の前が薄暗くなる。
「大丈夫。これであなたが死ぬことは、たぶんないわ。ちゃんと量を計算したもの。一時的に筋力が衰えるだけ。計算が間違っていなければね」
華陽はおかしくて仕方がないというように、艶めかしい笑い声を響かせた。
「司が一度あなたの声を聞きたいってうるさいのよね~、鈴守なんかに期待できることなんて何もないのに……。仕方ないから、あなたはもう少し生かしておいてあげる。だけど、その子はダメ」
「……な……ぜ……」
頭の中に空白が広がっていくようだ。目の前がどんどん霞んでいく。声も出すのも精いっぱいだ。
「石守だからよ。石守は危険なの。だからイラナイのよ」
「……っ」
その時、突然、何かが体の中から流れ出す感触がした。足の間を伝わって、透明な液体が足元に流れ出す。
――破水した?
いずみは瞠目する。
「心配いらないわ。その子は一呼吸もすることなく、一声も泣くことなく、楽に死ねるから。その程度の量は入れておいたから」
悪意の塊のような華陽の言葉に、いずみは瞠目する。
――助けて! 青洲さんっ! マメ太がっ、マメ太が死んじゃう!
声にならず、動くこともままならず、伸ばした手が空しく宙を掻く。涙だけが、いずみの気持ちを表すように幾筋も流れては落ちる。
それを楽しげに確認すると、華陽は、再びナイフで絵をずたずたに切り裂いた。やがて、切り裂かれた絵の中から、どす黒い湯気が立ち上る。同時に、ガタガタと倉庫中の窓ガラスが震えるように音を立てた。
「ガゴウジ、伯父様に力をお貸しくださいな」
黒い煙は、部屋の天井付近でグルグルと何度も旋回し渦を巻き、雷鳴のような、もしくは地響きのような不穏な轟音をとどろかせた。黒い煙が蛍光灯に触れる度、スパークする音がして、蛍光灯は苦しんでいるように不規則な点滅を繰り返した。
「ガゴウジ! お願いです。伯父さまに力を!」
黒い煙は、ようやく華陽の言葉を聞きとれたかのように、
『オオオオオォ』
と地の底から響いているかのような音をたてながら、倉庫の明かりとりの小さな窓をすり抜けて外へ出て行った。
「いずみちゃん? あら、もう意識が無くなっちゃった?」
華陽は、妖艶な笑みを浮かべて黒い煙が出て行くさまを見送っていたが、倉庫内が静かになると、足元に転がっているいずみに視線を落とした。いずみは、お腹を抱え込むように丸まって横たわっていたが、その体の下には、破水した羊水が広がっている。
このまま放っておけば、胎児は母体から出られないまま死んでしまうかもしれない。そうなれば、いずみも無事ではないだろう。それならそれでも良い。華陽は肩を竦める。妊娠中のトラブルなど良くあることだ。
「いずみちゃん、最期に、良いことを教えてあげるわね。聞こえているなら聞きなさいな。実は私ね、石守には、あなたを始末する為に行ったのよ。狙いはあなただったの。だからあなたが追い出された後、駅のホームから、突き飛ばしてやろうと思って捜していたのに、あなたったら、どんだけ野蛮人なの? 電車も使わずに、歩いて青洲の所まで辿りつくなんてね。そうそう、これも教えておいてあげなくちゃね。私と青洲が愛し合ってたなんて嘘っぱちよ。私、青洲が大嫌いだったわ。凡庸なくせに、偉そうにしてて、傲慢で、青洲なんかに指一本触れられたくなかったの。私はね、あなたみたいに、優しくしてくれるなら誰でもいいなんて人間じゃないの。……そうね、薫ちゃんのことは、少し好きだったわ。あの子には才能があったもの。でもね、私の言うことを聞かなかったから、少しお仕置きをしてあげたの。まさか死んじゃうなんて思わなかったわぁ。びっくりだったわよ」
華陽は、いずみの顔を靴先で持ち上げて上を向かせる。意識を失っていると思っていたいずみの瞳には、まだ光があった。頼りなげな視線が宙で焦点を結んでいる。
「ふふ、まだ意識があったの? でも、動けないでしょ? 良い気味ね。ついでに言っておくわ。私、あなたも大嫌いだった。声を聞いただけで虫酸が走るのよ。今助かっても、結局、あなたは司に始末されるわ。だって彼がその声を聞いて気分が悪くならないわけがないんだから」
華陽は、思いっきり馬鹿にしたようにいずみを見下ろすと、お腹を庇うように縮こまっている背中をつま先で蹴飛ばしてから、絵を切り裂いたナイフをいずみの手に握らせた。
「じゃあね、いずみちゃん」
いずみは、薄暗い倉庫に横たわったまま放置された。
(ガゴウジについて)
奈良県奈良市にある元興寺は、日本で最も古い歴史をもつ由緒正しい寺だ。この寺を由来にした奇妙な言葉がある。『ガゴウジ』、『ガゴジ』、『ガンゴジ』ともいい、れっきとした日本語で、意味は『鬼』である。
元興寺の鬼伝説は、「日本霊異記」の道場法師の話がその原型とされる。
「その昔、元興寺の鐘楼に悪霊の変化である鬼が出て、都の人たちを随分怖がらせたことがある。その頃、尾張国から雷の申し子である大力の法師が入寺し、この鬼の毛髪をはぎとって退治したという有名な話がある。元興寺では、鬼を退治した道場法師を神格化して「八雷神」とか「元興神」と称し、奇妙な鬼面を伝えている。この面は、鬼を退治した鬼神を象徴しているという」
古来、鬼は闇に隠れ、人をくらうものとされ、悪鬼邪気の象徴であり、追い払わなければ春は来ないと言う。この鬼を退治するのに元興神のような鬼を越える鬼神の存在を想定したのだ。
(本章参考文献)
消された王権 物部氏の謎(オニの系譜から解く古代史) 関裕二著
元興寺の鬼(元興寺公式サイト)