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野いちご  作者: 立花招夏
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第十話 天は自ら助けるものを助く(2)

 佐川は、船縁で、へたり込んでため息をついた。

――灯台もと暗しとはこのことだ。

 散々、泳ぎ回って、慣れぬ水中メガネとシュノーケルに四苦八苦し、海水をガブガブのみ、もう限界だと辿りついた漁船の船底に奇妙な石の遺跡らしきものの影を捉えた。慌てて、水中カメラを船縁から下ろすと、底にかなりな大きさの石の鳥居が横たわっているのが映し出された。鳥居の中央には、やはり石で造られた額束がくづかが建てられているのだが、海藻や貝がびっしりくっついていて読めない。

「こいは何だ?」

 背後から一太がカメラの画像を覗きこむ。

「これは、神社の鳥居ですね。神社の名称が刻まれた額束も付いているのに、これではさっぱり読めませんね。どうするかな? 確認するだけでいいのに、こんな巨大なものを引き上げるわけにもいかないしね……」

 佐川は頭を抱え込む。船から確認できたのはひどくラッキーだったが、肝心の神社の名前を確認するには状態が悪い。

――もっと浅瀬にあれば良かったのだが……

「こんくらいの深さなら、オイがちょっと行ってきてやるか。なんが書いてあるか読めばよかとろ?」

 画面を食い入るように見つめていた一太が、突然そう言った。

「一太さんが潜るんですか?」

 佐川は怪訝そうに一太を見つめる。

「ふふん、さてはオイがスペシャルティ・ダイバーげなことば知らんな?」

 一太は得意そうにふんぞり返ると、背後にあった船窓の枠に頭をぶつけて、いてっと頭を押えた。

 スキューバダイビングは、水深が大きくなるほど緊急時の浮上が難しくなり、窒素酔いや減圧症の危険性も高くなる。だから技術レベルに応じて潜ることができる深度が決められているのだが、スペシャルティ・ダイバーともなれば、約四十メートルまでは潜水可能だ。潜水用具を船室の奥から引きずり出し始めた一太を、佐川は神々しいものを見るように振り仰いだ。


 一太が、付着物を取り除き、撮影してくれた画像を覗きこんで、佐川は納得と満足の入り混じったため息を何度もついた。鳥居の額束に書かれている文字は、当然その神社の名前が刻まれている。

 そこには、『四鬼神社』と書かれていた。


* * *


 いずみは、一人病室でぼんやりと窓の外を見つめていた。既に来月には臨月を迎える。超音波の画像から、胎児の発育が順調であることと、ほぼ間違いなく男の子であることが分かっている。あの夢に出て来た少年がお腹の子のイメージと重なる。

――何かを伝えようとしていたんだろうか?

 危険が迫っていると言った少年の真剣なまなざしを思い出す。

――僕らにできること。僕らにしかできないこと……。私にできることってなんだろう? 絵を描くこと? でも、一体何の? 誰の絵を描けと言うんだろう? さっぱり思い当たらない。

 いずみは、深いため息をついた。


 気がかりはそれ以外にもある。青洲への返事だ。あれから青洲はあの話題を一切口にしなかった。吉田に留まるのかとも、石守に行くのかとも訊かない。もっとも、そんなことを聞かれても、いずみは途方に暮れるしかできないのが現実で……その問題を考えれば考えるほど、あの狭くて薄暗かった青洲の部屋が、途轍もなく温かく懐かしく感じられ、できることならば、あの頃に戻りたいと願うところで思考は止まってしまうのだった。


 いずみの病室のドアがノックされたのは、そんなことをごちゃごちゃと考えていた昼下がりのことだ。午前中は、やれ検温だの検査だの回診だので、バタバタする病室だが、昼から夕方までは、特別なことがない限り静かでゆっくりとした時間が過ぎて行く。

「はい」

 看護師ならばノックとともに入ってくる。青洲ならばノックとともにいずみに声をかけるのが通常だった。しかし、今回の来訪者は、いずみの返事を確認してからドアを開けたようだった。ドアを開けた瞬間、清冽な生花の匂いが部屋中に拡散する。

「いずみちゃん……」

 声の主に、いずみは目を見張った。

「……華……陽さん?」

 長く伸ばされたさらさらの黒髪、しなやかな淡い色のパンツスーツをさらりと着こなした姿は、下手にスカートやワンピースなどを着るよりも遥かに優美で女性らしく見える。華陽さんは、いずみが石守の家で奉公していた時に、仲良くしてくれていたメイド仲間だ。もっとも華陽は、石守の親せき筋の人だったので、メイドと言うよりは客に近かった。何故メイドとして働いているのかとの問いには、少し声を低めてこう言った。

『実はね、私、捜しているモノがあるの。だから今までにも色々なお屋敷で働いてきたのよ』

『捜している物?』

 いずみは目を見張って問い返す。

『絶対に誰にも言わないでね? いずみちゃんだから話したのよ?だから旦那さまにも、昌代さんにも、冬君にも、内緒よ?』

 それが何なのか、その時、いずみは訊かなかったのだけれど、自分だけに話してくれたのだと思うと、いずみはすっかり嬉しくなって、無条件に誰にも言わないと約束したのだった。


「いずみちゃん、心配したわ」

 華陽は、持参した花束をベッド脇の小テーブルの上にばさりと置くと、ベッドの上で呆然として座っているいずみをふわりと抱きしめた。

「いずみちゃん、あなたが石守の家を出た日、私、すぐに後を追ったのよ。でもどこにもいないし、電車に乗るつもりかもと思って駅でも探して回ったわ。あの時、どこに行ってたの? 私、ずっとあなたからの連絡を待っていたのよ? 今じゃ、冬君も昌代さんもあなたを探しているわ。聞いていない?」

 電車に乗るなど、乗車経験のなかったいずみにとっては、選択肢になかったのだ。いずみは、石守を出てから青洲に拾われるまで、すべての行程を徒歩で移動していた。

「聞いてたよ。聞いてはいたんだけど……」

 いずみは言葉を濁す。華陽に会いたいと思わないこともなかったが、石守に戻るつもりは皆無だったのだと思いつく。自分が迷っているのは、このまま吉田で厄介になっていて良いのか、それともここを出て、吉田に迷惑を掛けない暮らしを自力で模索するかだったのだということに思い当る。そこまで考えて、ふと疑問がわき上がった。

「そういえば、華陽さん、どうして私がここにいるって分かったの?」

 いずみの問いかけに、華陽は、少し気の毒そうな顔をしてほほ笑んだ。

「その様子だと、いずみちゃん、何も聞いていないのね?」

「何のこと?」

 胸騒ぎがする。

「あら、やだ、どうしよう。いずみちゃんは知らない方がいいんじゃない?」

 華陽は少し困った顔をして言葉を濁す。

「教えて! 何のことなの? 気になるよ」

 いずみの必死な様子に、華陽は更に困った笑みを浮かべたが、声を潜めて話し始めた。

「私が話したって、青洲には言わないでね? 青洲はあなたに知られたくなくて教えていないのかもしれないから。実は私ね、青洲の妻だったの」

 華陽の言葉に、いずみは呆然とする。

――華陽さんが青洲さんの奥さんだった?

「だから、少々人脈があって、あなたがここにいるってことを聞き出せたのよ」

 華陽の言葉は、いずみの頭のどこか表面を上滑りしていく。

――青洲さんの元妻……

 頭の中でこだまする。

『……ごめん、いずみちゃん、その人については、まだ冷静に話せる自信がないよ。その人は、俺のかつての配偶者で、今はもう他人だ。いつか話せるようになったら、いずみちゃんには、きちんと話すから。少し時間をくれるかい?』

 島で聞いた青洲の言葉が頭の中でリフレインする。

「ごめんなさい。なんだかショックを受けている?」

 華陽が更に気の毒そうに、いずみの瞳を覗きこんだ。

「……ううん……ううん、少しびっくりしただけ……」

――嘘だ。ショックだった。

 冷静に話せないと言うことは、その人に対してまだ心が残っているということだ。どういう気持ちが残っているのかは知らないが、とにかく、忘れられないでいると言うことだ。

 今まで少し引っかかる、とか、少し違和感がある、とかだった淡い感情が、現実にこうして人の形で現れ、しかもそれが自分の知っている人だと分かると、不安が濃く暗い雨雲のように、むくむくと湧きあがり、いずみの心を浸蝕していく。

「そう? だったら良かったわ。ほら、私達、お互い嫌で分かれたわけじゃなくて、薫ちゃんの事件のせいでうまくいかなくなっちゃったでしょ? だから、それを知ったら、いずみちゃんが嫌な気持ちになるんじゃないかって心配して、青洲はあなたに知らせなかったのかもしれないわ。あら、私、余計なことを言っているわね」

 華陽は気の毒そうにいずみを見つめた。

 確か、青洲は薫が自分の元妻と外出中に事件に巻き込まれたのだと言っていた。

――だからそのせいで華陽さんとうまくいかなくなったの? でも、そうなのだとしたら、まだ青洲さんは華陽さんのこと……

「……華陽さんは、青洲さんのことを……」

――まだ愛してるの?

 口ごもって黙り込むいずみの心の声を聞きとったかのように、華陽は言った。

「そうね、もし青洲が戻ってきて欲しいって言ったら、戻りたいって思うかもしれないわ。だって、私達、愛し合っていたんだもの……」

 いずみは、ごくりと唾を飲み込む。

「あなたは? いずみちゃん、あなたは青洲のことをどう思っているの? 彼、優しい人だから、きっと好きになったわよね?」

 華陽は悲しげにいずみの瞳を覗きこんだ。

「私……」

「ごめんなさい。こんなことを言いに来たんじゃないの。もう、いいのよ。私たちはもう終わったんだから。青洲が私に戻ってきて欲しいなんて言う訳がないんだわ。だって、今は可愛いいずみちゃんが傍にいるんだから……」

「華陽さん……私……」

 いずみは途方に暮れる。

「それよりもね、私、ずっと気になっていたことがあって、それを確認したくて来たの。私、以前、捜しているモノがあるって言ったわよね? 実は私、ある絵を探しているの」

「絵?」

「そう。恐らく薫ちゃんの事件に関わっている絵だと思うの。薫ちゃんが誘拐されたという話は青洲から聞いているのよね?」

「ええ……簡単にだけど……」

「彼女が発見された時、背中全体に野いちごの入れ墨が描かれていたことは?」

「え?」

――野いちごの入れ墨? そんなの訊いていない……

「そう、まるで薫ちゃんを縛りつけるみたいに背中一面に描かれていたの」

 島の玄武が、野いちごの蔓に縛り付けられるように絡みつかれていたのを見たのはついこの前だ。ひどく取り乱して野いちごを取り払っていた青洲を思い出す。

――だからだったんだ。あんなに血だらけになっても野いちごの蔓を取り払いたいと青洲さんが思った、その理由……

「信じてもらえないかもしれないけど、私、生まれつき巫女シャーマン体質なのよ。霊の気配に敏感っていうか……。実は、あれ以来、いつも薫ちゃんの気配を感じているのよね。彼女苦しんでいるみたいなの。野いちごの絵を捜して欲しいようなのよ。その絵には何かがあるらしいの。たぶんその絵を見れば、その理由が分かるんだと思うんだけど……。いずみちゃん? もしかして、心当たりがあるの?」

 真っ青になって、がくがく震え始めたいずみを華陽は怪訝そうに見つめた。


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