第十話 天は自ら助けるものを助く(1)
激しい雨が、外と内に明確な線引きを施していた。
塗り込められたような薄闇の中、ある和風家屋の一室で、田口俊秋は息を殺して佇んでいた。田口は養子に出された先の姓だ。元々の名を名和俊秋と言った。
眼前には緑色の抽象画。
ここ数年、この絵の負の気配が濃密になって来ていたのには気づいていた。それが、ここ数日一段と濃い。封印主に何かが起こったのだ。封印が不安定になっている。限界なのかもしれない。俊秋は意を決したように抽象画を壁から外すと、厳重な梱包を施した。先ほど、連絡しておいた宅配業者がまもなくやってくるはずだ。宛先を書きつけ玄関の隅に置く。
そもそもこの絵は、俊秋が描いたものではない。ある日、ここに届けられた。送り主の名は偽名、住所は、ある地方都市の公園の住所になっていた。しかし、俊秋は確信する。これは名和家の誰かが施した封印なのだと。何かの事情があって手放さざるを得なかったに違いない。恐らく危険が迫っていた、そう言うことだ。
名和家が身の危険を感じて散らばり、息を殺すように身を潜めて暮らし始めたのは、ここ数年のことではない。ほとんどの者が名和の名を隠し、養子に出せるものは出して、身を隠した。お互いに連絡を取り合うことも、お互いの暮らしぶりを知ることもないのだが、近くにいれば、お互いに気配を感じ取ることができた。名和家の力は封じる力。その力の気配を感じることができるのだ。だから封印を施されたこの絵が届けられた時、俊秋は身震いをした。それが名和家の封印であるとすぐに感じ取ることができたからだ。
名和俊秋とその兄が、実家のある島を離れて、都内に出て来たのは子どもの頃だ。それぞれ別々の家に養子として引きとられた。その兄が、交通事故死したのは、もうかなり以前のことだ。子どもが数人いたが、無事に育っていれば、もう高校生くらいの子どもがいてもおかしくない年頃だ。絵の送り主は、恐らくそれらのうちの誰かなのだ。確認する術はないが、確信している。気にはなるものの、動くことはできない。せっかく施した封印の在り処を知らせることにもなりかねないからだ。
同じ名和の血筋と言っても、すべての者が封印できる力を持つ訳ではない。五人兄弟であっても、誰一人その力を授からなかったという家を知っている。俊秋の家では、兄がその力を授かっていた。力が強ければ強いほど気配は強くなる、よって力を忌み嫌うもの達に見つけられるリスクが増す。
負の気配の怖いところは、その存在に気づけるものが限られていると言うことだ。警察は当てにできない。騒ぎ立てれば、狂者のレッテルを貼られる。だから名和家は身を潜めたのだ。
古の時代、あの四聖獣の伝承が生まれた頃の時代には、名和家はその力を自在に操っていたと言われている。それが、長年の平和な時代で、その力を使う機会が減り、意義や使い方までが忘れ去られた。それは名和家に限らず、鈴守、石守にも共通して言えることだ。力は実際に使われることがなくなり、形骸化もしくは儀式化した。一度、島に戻り、力の正しい使い方を調べる必要があるのだろうとは思うが、果たせないまま十数年が経過していた。
ぞわり、と闇自身が引き攣れるような気配がして、俊秋ははっと振り返る。
――ドコにやっタ?
頭の中に禍々しい声が響く。
――封印ヲ ドコニやっタ?
薄闇の中、俊秋の足もとに深い闇が凝っていた。
「……ひっ」
俊秋は慌てて後ずさりするが、まるで闇に絡め取られたように足が動かない。闇は、ぞわぞわと俊秋の脚を這い上り、やがて俊秋自身を呑みこんでいった。
* * *
いずみは、中庭の池の前に一人ぼんやりと佇んでいた。頭の中がごちゃごちゃだ。あの野いちごの絵が吉田家にあったことも、石守家が自分を探していることも、青洲の誠実な告白までも、すべてが悪いことに感じられる。
――自分の敵とはなんだろう? 吉田家が敵ならば、とっくの昔に自分は無事ではいられなかったのではないだろうか?
石守家については、あの石守冬樹が、母親である昌代の意向に反することなど、まして昌代を説得するなどと言うことは、到底信じられない。冬樹にしても、昌代にしても、使用人一人ごときに、人や時間を費やして探し出そうとすることなどありえない。
もし、探していることが本当だとすれば、自分を探している真の目的はもっと悪いことだ。堕胎していないなら、その費用を返せとか、石守の血筋の子どもを私が産むことを許せないとか、そう言ったことに違いない。
でも、それらは、いずみにとっては全く瑣末なことだ。なによりも、自分が辛いと思うのは、青洲の本心が分からないということ。青洲にとって自分はお荷物だ。
それでも、居たいなら吉田に居ても良いと言うのは、ただの責任感ではないだろうか? 本当は、吉田から出て行って欲しいと思っているのではないだろうか? それを言い出せないだけなのではないだろうか?
池の中を優雅に泳ぐ赤と白の斑の大きな鯉を見ていると、背後で声がした。
「薫、また池を見ているのか?」
「父さま……」
いずみのことを、すっかり薫と呼ぶようになってしまった龍生のことを、いずみはいつしか父さまと呼ぶようになっていた。薫がそう呼んでいたのだと言う。
吉田龍生は、振り返るいずみの頬を、いきなり人差し指でつついた。
「いたっ」
つつかれた頬を押えていずみが見上げると、龍生が面白そうに笑った。
「父さまっ」
睨みつけるいずみに、
「おまえに辛気臭い顔は似合わん。やめておけ」と龍生は澄ました顔で言った。
「父さま……」
その時、突然黄色い鳥がハタハタと舞い降りてきて、龍生の肩に留まった。小首を傾げる様子が愛らしい。カナリヤのようだ。
「おお、もう戻ってきたのか。ほれ、薫の所へ行くか?」
龍生は小鳥に話しかける。
「二、三日前から、外に出たがっていたから、さっき出してやったのだ」
龍生は、いずみに説明すると、
「懐かしいだろう? フィン、薫が戻ってきたぞ」と再び小鳥に話しかけた。
ぴるるるるる、ぴーぴーぴーぴー
小鳥は龍生の指先で歌うようにさえずると、フワリと飛び上がり、いずみの肩に留まった。人差し指を軽く伸ばして近づけると、フィンはためらうことなく、いずみの手にちょんちょんと弾みながら移動した。
「外に出たがる癖に、外に出ると戻りたがるのだ。好奇心が旺盛なくせに怖がりな飼主に似たのだろう」
龍生はにやりと笑った。
「……鳥かごの中で育った鳥は、鳥かごから出られないのかな……」
ぼそりと呟いたいずみを見下ろして、龍生は少し首を傾げた。
「人は鳥かごの中では生きられない。鳥かごの中にいると思うのは、おまえの心の中に檻があるからだ。ここは檻ではない、ネスト(巣)なんだよ、薫。だから、おまえは、再び羽を得て戻ってきたのだろう?」
「え?」
驚いて見上げるいずみの視線を受け止めて、龍生は眩しげに目を細めてほほ笑んだ。
「誰に分からなくても、わしの目を誤魔化すことはできないさ、薫。なぁ? そうだろう?」
ぴるるるるるる、ぴーぴー、ぴるるるる
いずみの指先から飛び立ったフィンは、抗議するように龍生の頭の周りを何度か旋回してから、龍生の肩に留まった。
「そうか、おまえも分かっているのか? そうか、そうか……」
嬉しそうに目を細める龍生をぼんやり見つめながら、いずみは首を傾げる。
――今、父さまは、私のことを薫と呼んでいた? ちがう。私じゃない……私じゃなくて……
* * *
島の西側の海域は、岩礁が入り組んでいるので、島民はめったに船では近寄らない。特別にチャーターした漁船の先端に立って、佐川は双眼鏡を覗きこんだ。
「もうちょっと島に寄ってもらえますか?」
「もうちょっとなら寄れるばってん、もうボチボチ限界たい。こん辺は岩だらけだけんな。座礁してしまうとぞ」
操舵室から一太が声を張り上げる。
「分かりました。行ける所まで行ってください。後はなんとかします」
錨を下ろして停泊した船から、佐川は海に飛び込んだ。こんなことになるのならば、スキューバダイビングの講習も受けておくべきだったと、佐川は軽くため息をついてシュノーケルを口に咥えなおす。
海水の透明度は高く、天気も良い。しかし、この広大な海の中で、探しているものが見つかるとはとても思えない。それほど圧倒的なモノを相手にしているのだ。広大な自然の前に人は無力だ。仮に目的のものを見つけられたとしたら、それは見つけられたのではない、見つけさせられた、そう言うことなのだろう。
佐川は、水面に顔を出して太陽を振り仰いでから、大きく息を吸い込んで再び海底を覗きこんだ。




