第九話 船は水より火を恐る(4)
「兄貴、こいつは本当に鈴守なのか? 鈴守ならば、あの部屋に入ろうなどと思わないんじゃないのか?」
真っ青な顔でぐったりと目を閉じたままのいずみに、赤秀が顔を顰める。鈴守は負の気配にセンシティブだ。以前、赤秀は確認の為に、あの絵を鳴春に見せようとしたことがある。しかし、鳴春はあの部屋のドアに手を触れることさえ嫌がった。
「俺が悪かったんだ。俺が……いずみを追いつめた」
青洲は、ベッドに横たわるいずみの手を握りしめたまま顔を歪ませる。いずみは、鈴守に間違いないのだ。しかし、混乱したいずみが負の気配に気づかなかったとしても無理のないことだ。
病室からいなくなったいずみを、病棟中探しまわった。いずみは、倉庫として使っている別棟の部屋の一室で倒れていた。寒々しい蛍光灯の下、冷たい床の上に倒れているいずみ。その伸ばされた手の先に……あの絵があった。
大きな溜息をついて赤秀が病室を出て行くと、青洲は青白い顔で目を瞑るいずみを覗きこんで、その頬にそっと口づける。
――いずみは、まだあの雨の中にいるのかもしれない……
青洲はぼんやりとそう思う。もうすっかり安心して、もう世界から零れ落ちる心配などないとすっかり安心して暮らしているのだと思っていた。青洲自身が考え得る限りの安全を準備し、常に傍にいて見守っていたつもりだった。それが……青洲の嫉妬から出た少しばかりの拒絶に、これ程まで激しく反応するとは思ってなかった。いや、いずみにとっては、少しばかりの拒絶ではなかったのだろう。例えるならば、高い崖の縁から両手を伸ばして青洲に助けを求めるような状況だったのかもしれない。自分は、いずみがそんな状態でいることに気づかずに拒絶してしまったのかもしれない。自分では駄目なのかもしれない。青洲は項垂れる。
「……青洲さん……」
ぼんやりと目を開いたいずみが、小さく呟く。
「いずみちゃん……ごめん、俺は君を傷つけてしまったみたいだ」
青洲の言葉に、いずみは小さく首を振った。
「私こそ、ごめんなさい……突然あんなこと言われたら困るよね。私……馬鹿だから、気がつかなくって……」
いずみは小さくしゃくりあげた。
「……そうじゃないんだよ、いずみちゃん……そうじゃなくて……」
青洲は口ごもる。どんな言い訳も、結局はいずみを傷つけてしまいそうな気がする。いずみの行動が問題なのではなく、自分の独占欲が問題なのに、それを言い訳にしてしまえば、いずみの過去を責めることになってしまう。黙り込む青洲を悲しげに見つめて、いずみは小さな震える声で続けた。
「もう、困らせたりしないから……だから……だから……」
――嫌わないで……
肝心な言葉は、震える唇に阻まれて言葉にならない。
「いずみちゃん、誤解しないで聞いて欲しいんだけど……。実は俺……君に隠してることがあるんだ」
涙でぐしょぐしょのいずみの頬を拭ってやりながら、青洲は意を決したように話し始めた。
「二、三日前に、石守の関係者が君を探しに吉田にやってきた」
「……」
いずみは目を見開いて、青洲を見つめる。
「石守家は君を追い出したことを後悔していて……君に戻ってきて欲しいと考えているようなんだ」
いずみは、目を見開いたまま、あり得ないと言うように小さく首を横に振った。
「石守冬樹が君を探しているそうだ。それを聞いて、俺は……君を失うことが怖くて、嘘をついた。ここに君はいない。ここにいるいずみは、鈴森いずみではないと……そんな見え透いた嘘を、探しに来たその人に、ついてしまったんだ。俺、最低だろ?」
「……青洲さん……私は……」
戸惑ったように口ごもるいずみの言葉を遮って、青洲は続けた。
「君が、石守冬樹の元に戻りたいのなら、俺に君を止める権利はないと思う。石守冬樹はお腹の子の父親なんだからね。逆に、君には、石守に戻るのか、吉田に留まるのかを決める権利がある。すべては、君次第だ。結論は急がない。ただ、一つだけ、俺の気持ちを言わせてもらえるなら、俺だってそのお腹の子の父親だと……思ってる。それだけは、忘れないでいて欲しい」
青洲は、心にわだかまっていた気がかりを話しおえて、幾分気が楽になったのか、幽かにため息をついてから、哀しげにほほ笑んだ。
「……」
いずみは、ぼんやりと青洲を見つめたまま黙り込む。
「……もし、石守に戻ることに決めたとしても、その時は俺にきちんと話して欲しい。俺が連れて行く。絶対に一人で行動しない、それだけは約束して欲しい」
いずみは途方に暮れた気持ちで、青洲の言葉を聞いた。




