第九話 船は水より火を恐る(3)
豪奢な天蓋付きのベッドの上に、秋子は手足を縛られたまま転がされていた。
「……っ」
恐怖に目を見開いて、力なく首をふる。
「秋子、封印はどこにある? おまえは知っているのだろう?」
ギシリとベッドが沈み、濃茶のガウンを纏った老人がベッドに片膝をつく。老人でありながら、妖艶な雰囲気を纏った志木聖は、最近めっきり衰えてしまった腕力に舌打ちをしつつ、俯く秋子の顎を指でつまんで上向かせる。秋子は聖の嫁として志木家にいるが、今まで聖は自分の部屋に秋子を入れたことがなかった。名和家の末裔として、何らかの力を見せれば、すぐにでも処分するつもりだったのだが、秋子はおよそ名和一族らしくなく何の力も見せない。そればかりか、少しばかり睨みつけただけで、震えあがって口さえきけなくなってしまう。大人しい草食獣のような女。こんな女は手を下すだけ無益だ。それが聖の秋子に対する評価だった。
「忌々しい名和一族が、こっそり施した封印だっ。おまえが知らぬわけがないだろう!」
聖は秋子の肩を掴むとガクガクと揺さぶった。
「……知りません」
秋子は蚊の鳴くような声で小さく言うと、ポロポロと涙を流した。
恐らく、秋子は本当に何も知らないのだろう。そうと分かっているのに、聖は秋子を掴む手の力を緩めなかった。八つ当たりだ、自分でも分かっているのだが、自分を止められない。
「この、役立たずがっ」
襟元を力の限り掴むと、何度も平手で頬を打つ。
泣きながら、嵐が通り過ぎるのを待っている草食獣のように身を縮めている秋子に、更に嗜虐性を刺激される。
「少しお仕置きをした方が良さそうだな」
聖は、切れ長の瞳に昏い笑みを浮かべながら、ベッドの上でぐったりと横たわる秋子を見下ろし、人差し指と中指を立て、何やらぶつぶつと呪文を唱えた。間もなく、聖の口から黒い煙のようなものが零れだす。黒い煙は、空中でクルクルっと輪を描いてから、獲物を見つけたように秋子の首に巻きついた。
一瞬、恐怖に目を見開いた秋子の口から、細い悲鳴が零れる。
「イヤァァァァ」
一瞬にして周りの空気が無くなったのかと思うくらいの息苦しさに、秋子は悲鳴さえあげられなくなる。喉を押え、酸欠になった金魚のように口をパクパクさせる。吸っても吸っても息ができない。秋子は恐怖と苦痛に体をばたつかせる。
「おまえのような役立たずは、死んでも誰も惜しむまいよ」
聖は冷酷な瞳で、もがき苦しむ秋子を見下ろして、せせら笑った。
『シュウコが死ぬヨ』
社用車で外出していた司の耳元で声がした。
「お父さんか……」
司は眉間にしわを寄せた。
『土蜘蛛の子を使っテル』
「ヒルコ、しばらく時間を稼げるか?」
ヒルコは返答する間もなく、司の意を汲み取って、既に志木家へ向かったらしかった。いつものように携帯を取り出す余裕もなかったので、司が呟いた言葉に運転手が反応する。
「何かおしゃいましたか?」
「急用ができた。大至急、自宅へ向かってくれ」
「はっ」
運転手が慌てて強引にUターンすると、車は悲鳴のようなタイヤ音を上げた。
最近の父、聖は著しく衰えていた。力の一部を封印されていることが、その理由だと本人は考えているようだが、それだけではない。長い間、依り代として肉体も心も酷使しているのだ。そろそろ限界だ。しかし、それを自分では認められない。だから名和家の末裔である秋子に当たっているのだ。
――気持ちは分からぬでもないが……
司は眉間にしわを寄せた。
『……どうか……ドウカ、お許シクダさい……』
苦しげな息の下から、秋子が許しを乞う。既に秋子は窒息寸前で、意識がないはずなのにだ。そんな秋子を、目を細めて見下ろしながら聖は嗤う。
「小賢しい真似を……ヒルコ、何の為の助命か?」
聖は軽く舌打ちをすると、呪の力を弱めた。
『……旦那サマ、ヒルコは……この体が欲しゅうございマスれば……』
少し息が楽になったヒルコが、息を切らせながら言葉を紡ぐ。
「馬鹿がっ、その体は依り代にはなれぬ。そんなことも分からぬほど血迷うておるのか?」
『いいえ、何か、ナニカ、ホウホウガ……』
既に涙で濡れていた秋子の頬を、更なる熱い涙が流れ落ちる。
その時、背後でドアが開いた。
「お父さん、こんな所で秋子が死ねば、また良からぬ噂が立たないとも限りません。無益な殺生はおやめください」
それでなくとも、志木家はお化け屋敷だと、近所で噂になっているのだ。
「司っ、おまえまでなんだっ。こんな時間に……」
怒りにまかせて怒声を上げた拍子に、聖は激しくむせ込んだ。
「お父さん、さあ、少し落ち着いて横になってください。ヒルコ、大旦那様を少し眠らせてさしあげろ」
秋子はコクリと頷くと、突然瞳から光を失って、気を失うように崩折れた。司は、無残な様子でベッドに転がっている秋子を無造作にベッド下に下ろすと、父親を横たわらせた。
「お父さん、土蜘蛛の子は俺が引き取ります。よろしいですね?」
「好きにするがよい」
司が、足元に転がっている秋子の上に手をかざして、呪を唱えると、秋子に纏わりついていた黒い気体が湯気のように立ち上って、司の掌に吸収されていった。
呼吸ができるようになって、やや顔色が回復してきた秋子を肩にしょって、部屋からそっと出て行こうとしている司に聖が呼びかけた。
「その女とは離縁する。手続きをしてくれ。それには何の利益も情報もない。傍にいれば、イライラしてまた手を下してしまうだろう。そうなると厄介だ」
父親の言葉に頷いてから、司は秋子の顔をちらりと確認する。まだ気を失っているようだ。
「離婚については了解しました。早々に手続きを致します。ただ、今この女に出て行かれると色々不都合があるので、しばらく屋敷に置いておきます。なるべく父上の目の届かない所にいるようにさせますので……」
「ふんっ、好きにするがいい。ただ、そいつは紛れもなく名和の血筋だ。甘く見ない方がいい。ヒルコは縛り付けられている。気づいているか?」
「ええ、気づいておりますよ」
ヒルコは、秋子の体を欲しがっている。依り代にならないことを分かっていながらだ……。哀れなヒルコ。
「器どもは狡猾だ。依り代にはならぬ癖に、手を下す……鼻もちならない」
聖は吐き捨てるように言うと、静かに目を閉じた。
秋子は誰かの肩に担がれて、廊下を歩いている時に気が付いた。もう自分は死ぬんだと思っていた。だけど生きている。
ドサリと自室のベッドに横たえられ、涼しげな切れ長の目が秋子を見下ろす。
「どうして……助けたの?」
秋子は、司の瞳をぼんやりと見つめて呟いた。
「勘違いするな。助けた訳ではない。今この屋敷で死人を出したくないだけだ」
司は感情の見えない表情でそう言うと、秋子から目をそらす。
「……そうだったの。もう死んでも良いと思ったのに……ここじゃ、死ぬ自由もない訳ね?」
放心しきった様子で、ぼんやりと言葉を紡ぐ秋子を、司は、目を細めて睨みつけた。
「終末が近づいている。封印の場所が分かった。三種の神器も揃いつつある。おまえは、この先どうなるのか、見てみたくはないのか?」
「……あなたの言葉はいつも呪文みたい……さっぱり分からない」
司の言葉の意味が分からない秋子は、ぼんやりと司を見上げると小さくため息をついた。秋子の大きな瞳は漆黒で、司に柴犬を連想させる。鈴守、名和、石守の三家では、闇に取り込まれないようにと天真爛漫に育てる傾向にあるらしいが、意味のないことだ。そんなことで器としての気配を消せるはずもない。しかし、そのせいか秋子にしても、報告を受けている鈴森いずみにしても、どこかしら稚い雰囲気が抜けていない。司は、秋子の様子に毒気を抜かれたように脱力して盛大にため息をつくと、眉間に指を当てて、くつくつと笑いだした。
「何も分からないのなら、何もするな。大人しく俺の伽の相手をしていれば良い。そうすればヒルコも喜ぶ。あれは愛情に飢えているからな」
「なっ、私はそんなっ……」
秋子は瞠目した後、真っ赤になり、次いで真っ青になった。
「……ヒルコって……」
「何度かおまえの体に入り込んでいるだろう? 心配するな、おまえの体には一時的にしか憑けぬ。おまえは依り代にはなれない体質だからな」
「それって……憑くって……ユ、ユー……」
秋子の言葉を司は遮った。
「ヒルコはヒルコだ。この世に生を受けて、すぐに親に捨てられた哀れな子だ。少しくらい憑かれたところで何の害もない。幽霊などと無粋な呼び方をしないでやってくれ」
司は眉間にしわを寄せてたしなめてから、今日はもう休めと言い残して部屋を出て言った。