第九話 船は水より火を恐る(2)
夜遅くに帰ってきた青洲は、いずみを起こさないように、そっとベッドの隅に体を横たえた。志木司に会ってから、いずみを真っ直ぐに見ることができない。眠っているいずみが、石守冬樹の名前を呟いたことも、青洲の動揺に拍車をかけていた。
自分はいずみに良かれと思って、吉田に留め置いているが、いずみの本当の幸せとは何だろうか。石守冬樹はお腹の子どもの父親だ。その父親が、周囲の誤解を解いたので戻ってきて欲しいと言っているのならば、自分がいずみを留め置く理由などないのではないだろうか。一度は愛し合っていた仲ならば、尚更、邪魔をしているのは青洲と言うことになる。
日中は仕事に追われて頭の隅に追いやっていた気がかりが、暗闇に誘われたように次々と頭に浮かんでくる。青洲が横たわったまま考え込んでいると、隣のいずみがフサリと身を寄せてくる気配がした。
「青洲さん、お帰りなさい」
少し眠そうないずみの声がする。
「ごめん、起こしちゃったかな?」
「ううん。ずっと待ってたの。ずっと起きて待ってるつもりだったのに、いつの間にか眠っちゃってて……」
小さく笑ういずみにつられたように、青洲も小さく笑う。
「どうしたの? 何かあった?」
青洲は、いずみの頬に指を滑らせる。
「ううん、何もない……何もないんだけど……」
いずみは青洲の胸に顔を擦りつけた。
「寂しかった?」
子猫がじゃれつくようないずみの仕草に、青洲はクスリと笑む。
「寂しかった。それにね……あのね、青洲さん、私……青洲さんのことが大好きなの……だから……お願い……」
いずみは、そう囁くように言うと、起きあがって自分の夜着のボタンを一つずつ外し始めた。
「……いずみちゃん?」
いずみの行動に驚いた青洲も起きあがる。
「……抱いて欲しいの」
「何言って……」
「だって、不安なんだもの。青洲さんは、ここに戻ってからずっと忙しそうだし、それに……なんだか最近、青洲さんは私と目を合わせてくれないし……私、青洲さんに見放されたら……生きていけないから……だから……」
潤んだ瞳で見上げるいずみを、青洲は眉間にしわを寄せて冷ややかに見下ろした。
「だから? だから体で確認したいの?」
「……」
思いがけず、冷たく鋭い言葉を掛けられて、いずみはビクリと体を震わせた。
「そうやって、石守冬樹にも抱かれたの?」
「……」
いずみは小さく息をのむ。
――そうだった……
石守冬樹に関しては、自ら望んでそうなった訳ではなかったが、そう思われても仕方がない状況にいることに、ようやく気づく。現状だけを見れば、誰もが自分のことをふしだらな女だと思うんだろう。あるいは、寂しいから、不安だから、それを埋める為に簡単に関係を持ってしまう女だと……
――確かに私はそういう女だった。満たされる一瞬を期待して、冬樹さまを完全に拒絶することができなかった。そしてその結果がこれだ。生まれてくる子に罪はなく、私だけに責任がある……
いずみは、ボタンを外す手を止めて、ぼんやりと自分の指先を見つめる。
放心した様子で固まるいずみを見下ろして、青洲は心の中で、自分に舌打ちする。
「……ごめん、こんなこと言うべきじゃなかった。俺、どうかしてた。少し頭を冷やしてくる」
そう言い残すと、青洲は病室を後にした。
奥病棟の中庭で、青洲はぼんやりと月を見ていた。細くとがった三日月。
――どうしてあんなことを言ったんだろう……
それでなくても、いずみは普通の状態ではなかったのだ。母親に捨てられ、石守でも厄介者として扱われていたというのに。そんないずみが、差しのべられた手に縋らないでいられただろうか、あるいは関係を強要されて、拒むことなどできただろうか。青洲は、あの雨の日にちんまりと蹲っていたいずみを思い出す。
つい、この前まで何の疑いもなく、保護者として、いずみを大事に守ってきたつもりだったのだ。それを奪われそうになって動揺している。青洲は一人苦笑する。
――保護者が聞いてあきれる。これじゃ、ただの駄々っ子だ。自分のものだと思っていたものを取り上げられそうになって、癇癪を起している駄々っ子じゃないか。どこへ帰るのかなんて、誰を選ぶのかなんて、いずみが決めることなのに……
病室に戻った青洲は、いずみのベッドが空になっているのに気づいて瞠目する。
「いずみちゃん?」
洗面所やバスルームを探すがいずみは見つからない。青洲は慌てて病室を飛び出した。
どこをどう歩いたのか、さっぱり分からなくなっていた。どこに行きたいのか、どうしたいのか、ちっとも思いつかない。だけど、病室に一人でいることがいたたまれなくて、いずみは、ふらりと病室を後にしていた。庭で佇んでいる青洲の背中に背を向けて、いずみはフラフラと廊下を歩き続けた。
青洲に嫌われてしまえば、ここに自分の居場所はない。だけど、これから先、どうやって生きて行けばよいのかも思いつかない。自分はいつでもこうだ。情けない自分にため息が出る。
足の向くままに階段を上り、階段を下り、長い廊下をとぼとぼと進む。奥病棟自体は、それほど広くないので、廊下伝いに別の棟に来てしまったのかもしれない。前にいた病棟とも雰囲気が違うようだ。ふと気づいて、辺りを見回す。倉庫のような佇まいだ。いくつか鉄製のドアが並んでいた。
その中の一つに引き寄せられるように、いずみは近づいた。全部が同じような扉なのに、その一つだけが、何かの気を発しているようで、いずみは首を傾げる。ドアノブに手を伸ばすと、鍵は掛かっていなかった。
ぎぎぎぎぎーっ
不気味な音をたててドアは開いた。壁にあるスイッチをぱちっと押すと、少し薄暗く寒々とした蛍光灯の光が部屋中を満たした。中には、たくさんの骨董品らしい、壺や器や掛け軸などが、棚の上に無造作に置かれている。もうかなり以前から、誰も手入れをしていないのだろう、棚の上の品々はうっすらと埃をかぶっていて、隅の方には小さな蜘蛛が巣を造っていた。
いつものいずみならば、そのような場所と分かれば、すぐに退出していたことだろう。それほどその部屋は、がらんとしていて寂しげで、侵入者を拒むような空気で満たされていた。更に奥に進んでみたいと思ったのは、部屋の最奥に掛けられていた一枚の絵画に目がとまったからだ。
ゴクリ
いずみは、小さく唾を呑み込んで、絵にむかって歩き出した。
――間違いない、あの絵だ。でも、どうしてここに?
いずみは幽かな記憶を手繰りよせる。
「……いずみ、あの絵を覚えているかい?」
あの抽象画を描き上げて数カ月たった頃、父の持病が急速に悪化した。この言葉は、すっかり弱って骨と皮だけのようになった父が、意識を失う寸前に発した言葉だった。
「おまえが、中央に野いちごの絵を描いてくれたあの緑色の絵だ」
小学生だったいずみは、喘鳴が混じる父の幽かな声に耳を寄せて頷いた。
「あの絵は……都内にいる、父さんの……唯一の親戚の叔父さんに……わ、渡してある。もし、おまえが困って……お、叔父さんを頼ることになったら、あの絵を……探せ。もし、叔父さんが……その絵を持っていれば、ま、まだ安全は……か、確保されているということだ。も、もし、叔父さんのところ……以外で、そ、その絵を見ることがあれば、その家は……おまえの……さ、最大の敵の家だと思って間違いない。よ、用心しなさい……」
いずみは、困惑する。叔父さんがいるなんて、今まで聞いたこともなかった。しかも、
――敵って……何?
「叔父さんって誰? なんて名前なの?」
いずみは、父親に問いかける。
「い、いいか? この名前は……だ、誰にも言っては……いけないよ。か、母さんにもだ。母さんは、お、恐らく……もう取り込まれてる。も、もっと早く気づくべきだった……父さんのせいだ。と、父さんが……役に立たないばっかりに、か、母さんを……すまない……すまない、いずみ……」
父は涙を流した。
「父さん?」
あの時、いずみは、父が苦しさのあまり錯乱して、うわ言を言っているのだと思っていた。もうかなり弱っていたし、水さえ飲めない状態で、ただただ夢と現を往ったり来たりしている、終末の段階にいたからだ。
「いいか、お、叔父さんの……な、名前は……」
「父さんっ!」
その後、父は意識を失い、長い夜を過ごした後、静かに息を引き取った。最期の瞬間まで医者に診せることもままならず、近所の人のアドバイスに従って、いずみが一人で父親を看取った。母親は、亡くなった日の朝、酔っ払って帰ってきた。
いずみは、ガクガク震える手で、緑色の野いちごの蔓が生い茂る抽象画をそっとなぞる。自分が描いた野いちごも、寒々しい蛍光灯の灯りの下で震えているようだ。
名和俊秋……それが叔父の名前だった。