第九話 船は水より火を恐る(1)
「……青洲さん?」
いずみはほほ笑んで起きあがると、青洲に手を伸ばす。いつもならば、青洲はいずみを抱きしめてくれるのだけれど、その日は、少し当惑した様子で、いずみの頭をくしゃりと撫でただけだった。
「……」
いずみは、ほほ笑みの引いた瞳で青洲を見上げる。
「どう? こっちの病室は、もう慣れた?」
看護師長に怒られたあの日、朝食さえ摂らないうちに、この奥の病室に移された。別棟の病棟の更に奥の別棟。そこは、吉田家のプライベートの病室だった。一見したところでは、中庭のある一軒家。小さめなナースステーションと各部屋にナースコールがある以外は、普通の家と何ら変わりない。もちろん各部屋は個室の病室になっていて、それぞれの部屋にシャワーとトイレが付いている。別室で、ジャグジー、サウナ付きの浴室もあるが、一通りの生活が個室内で完結できるようになっている。
五年前、青洲の母、浅香はこの病棟の一室で亡くなった。元々あまり丈夫な人ではなかったのだが、薫を失ってからは、すっかり抜け殻のようになってしまい、寝込むことが多くなり、笑顔を取り戻す間もなく逝ってしまった。この奥病棟に居るのは、今は、いずみだけだ。看護師は検温とか食事とか決まった時間にしかやって来ない。テレビもビデオも完備されていて、いずみが望めば本でも雑誌でもゲームでも用意してくれるらしいのだが、いずみは何も要望しないままその日一日を過ごしていた。スケッチブックと色鉛筆は、いつものように持っているが、今は何を描く気も起こらない。しーんと静まりかえった病室にぽつんと一人でいると、いずみは、世界から忘れ去られた気分になる。
「ここは、寂しいよ……前の病室に戻ってはダメ?」
いずみは、しょんぼりと俯いた。
「……駄目」
青洲は、そう言うと、小さくため息をついた。
いずみが寝言で呟いた名前に、青洲は打ちのめされていた。そんな青洲の気持ちを知る由もないいずみは、当惑する。
「どうして?」
「……いずみちゃん、君は……」
青洲は言葉を途切れさせる。
「……青洲さん? どうかした?」
「……俺、シャワーを浴びてくるよ」
青洲は、伸ばしかけた手を途中で止めると、いずみと視線を合わせることなく部屋を出て行った。
時間はゆっくりと流れていく。
青洲は忙しいのか、夜遅くにいずみの病室に帰ってきて、朝早く朝食も摂らずに出ていく。少しずつ青洲との距離がひらいていく気がする。そんなことはないと何度言い聞かせても、いずみはどんどん惨めな気持ちになっていく。すっかり旅の疲れも取れたせいか、もて余した時間がいずみを更なる不安へといざなう。
奥病棟には、こじんまりした庭が付いていて、小さな人工の滝付きの池と植え込みで、まるで水墨画のような風情を演出している。池では大きな鯉が緩やかに泳いでいて、池を囲む岩の上では、時々亀が甲羅干しをしていることがある。いずみは、備え付けのサンダルを履いて庭に出ると、亀がいないかと植え込みの下を覗きこんだ。ここの亀は、とても人懐っこい。この前食事についていた蒲鉾を差し出すと、直接手から啄ばんだ。この亀は、わざわざ連れて来たのではなく、いつの間にか住みついていたのらしい。今朝は朝食にバナナが付いていた。何かの本で亀がバナナを食べると聞いたことがあったいずみは、本当に食べるかどうか試してみたくて、膝が汚れるのも構わず、池の際の植え込みの下を覗きこんだ。
「薫っ、あぶないっ」
突然、大きな声で呼びとめられ、背後から抱きかかえられて、いずみは驚いた。持っていたバナナが足元に転がる。振り返ると、大柄な老人がいずみを羽交い絞めにするように抱きかかえている。
「……あの……」
いずみは、抱きかかえられたまま目を見張る。
「薫っ、前に池に落ちたことを、もう忘れたのか? おまえは、少しお転婆が過ぎる。もう少しおしとやかにしないと、嫁の貰い手がないぞ」
老人は眉間にしわを寄せて、いずみをたしなめた。
「だって……亀にバナナをあげようと思って……」
どことなく青洲や赤秀に似た面ざしを持つその老人に親近感を持ったいずみは、そのまま訂正することなく言い訳を返す。
「ぬぅわぁにを言っておる。亀がバナナなど食べるものかっ」
老人は、小馬鹿にしたようにいずみを睨みつけたが、いつの間にか足元に転がったバナナに食らいついている亀に目を止めると、絶句した。
「大旦那さまっ」
その時、背後から看護師の悲鳴のような声が聞こえた。
吉田家当主の吉田龍生は、癌を患っていた。にも拘わらず、病院を毛嫌いし、奥病棟にさえ行くことを拒んでいるのだと言う。
「今日は、どうしても検査を受けてもらわないといけないと思って、強引に連れて来ていたんですよ。最近、少しボケたことを言うようになっていて……びっくりしたでしょう? 大丈夫でしたか? すみませんでした」
医師である吉田白舟は、奥病棟の談話室でいずみに謝った。
「大丈夫です。少しびっくりしたけど……」
いずみは、微笑んで続けた。
「あの……私って、薫さんに似ているんですか?」
問いかけられた白舟は、一瞬いずみをまじまじと見つめてから、
「いえ、それほど似ていないと思います。妹の薫は、ボーイッシュな子でね。顔は僕に良く似ていました」
白舟はそう言うと、寂しげにほほ笑んだ。
「……」
いずみは、しんとした気持ちになって黙り込む。
薫の死、それがどれほど吉田家に重くのしかかっているのかが痛いほど伝わってくる。ようやく青洲が戻ってきて、吉田家は再び元の平和を取り戻そうと懸命になっているに違いない。自分は足手まといになっているんじゃないだろうか……いずみは、自分を見る赤秀の眼差しを思い出して身を竦めた。
「……私は……たぶん、こちらにすごくご迷惑を掛けているんでしょうね……」
いずみは項垂れた。そんないずみを白舟は面白そうに見つめて言った。
「何をもってあなたが、そんなことを言うのか僕には分かりませんが、少なくとも僕はあなたに感謝していますよ」
白舟の言葉にいずみは顔を上げて、きょとんと白舟を見つめる。
「……だって、赤秀さんは、私のことが嫌いみたいですよ?」
いずみの言葉に、白舟は苦笑する。
「あれは、一種のやきもちですよ。赤秀は兄を連れ帰れるのは、兄を助けられるのは、自分だって思い込んでいましたからね。あれは、なんだかんだいって、青洲兄のことを敬愛しているんです」
「……」
「今の青洲兄が、あなたにとってどのような人物なのかは分かりませんが、僕たちにとって青洲兄は、吉田の父と同様に、強い庇護者だったんです。何があっても兄に相談すれば何とかなる。そう思っているところが僕達にはあって……青洲兄が薫を失ったことで、あれほどまでダメージを受けるなんて想像もつかなかったんですよ。兄の強さは、守るべきものがあればこその強さだったのだと、今回のことで僕は思い知らされました」
「青洲さんは、私にとっても庇護者です。青洲さんがいなければ、恐らく私は……」
――あの雨の日に、この世界から零れ落ちていたに違いない……
「僕はね、この前兄が突然帰ってきて、あなたと一緒にいるらしいと中川から聞いた時、ああ、兄は守るべき対象を見つけて、安全な岸にたどり着いたんだとほっとしたんですよ。それまで僕は、もしかしたら兄は、もうこの世にいないのではないかと危惧していたので……」
いずみは息がとまりそうになる。青洲さんに何かがあれば、私もきっと生きていけない。そんな気がした。
「兄の守護神と言われている龍はね、顎の下に宝珠を持っているんですよ」
白舟が突然にこやかな顔になって話しだす。
「ホウシュ……ですか?」
いずみは首を傾げる。
「宝玉のことです。見たことがありませんか? 龍のキーホルダーとか絵とか、本来は顎の下にあるとされているのですが、手に持たされているものもあるんです」
「ごめんなさい。見たことがないと思います」
いずみは、店と名の付く場所へ、あまり行ったことがなかった。
「そうですか。大抵の龍は宝珠を持っているんですよ。その宝珠は如意宝珠だと言われています。如意……つまり、思いのままになる宝玉なのだと。兄にとって薫は、兄の力を最大限に引き出すことのできた宝珠だったんじゃないかと僕は思うんです。そして今、その役目をあなたが引き継いでいる。僕はそんな気がするんですよ」
白舟の言葉にいずみは、小さく首をふる。そんな大それた役目を自分がしているわけがない。自分は青洲の重荷に過ぎない。
「だから、あなたは何も気にする必要はないんですよ。無事に過ごして、健やかな赤ちゃんを産めばいいんです」
いずみは、白舟の言葉に泣きそうになる。
「でも、このお腹の赤ちゃんは……」
しかし、いずみの言葉は白舟に遮られた。
「鈴守の子は、吉田の子でもあります。それ以上に、あなたの心が青洲兄と一緒にある限り、あなたも、その子も吉田の一員なんです」
白舟の言葉に、いずみは涙が止まらなかった。




