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野いちご  作者: 立花招夏
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第八話 出る杭は打たれる(4)

 志木司は、車の後部座席にもたれながら、小さな笑みをもらした。

『ツカサ、どうして鈴森いずみを連れて帰らなカッタ? あそこにいるとワタシが教えてやったノニ』

 後部座席には司以外に誰もいないはずなのに、すぐ耳元で、くぐもった幼女の声がする。声は運転手には聞こえていないらしく、何の反応もない。司は、くっと笑って携帯を取り出すと、掛けるふりをしながら一人呟く。

「あそこに鈴森いずみがいることなんて、教えてもらわなくても分かったさ」

『ナゼ?』

「返して欲しいと俺が言った時の青洲の顔を見たか?」

 司はおかしくて仕方がないと言うように、顔を歪めた。

『?』

「返さないと言わんばかりに睨みつけていただろ? 居るってことが見え見えだ」

『この後、どうするツモリだ? 鈴守をあきらめるノカ?』

 幼女の声はくぐもっているだけでなく、その声からは何の感情も汲み取れない。あきらめることを望んでいるのか、残念だと思っているのか……。しかし、司は、まるですべてお見通しだと言わんばかりに、形の良い口角を引き上げて笑んだ。

「まぁ、見てろよ。俺が蒔いた不安の種が、どんな花を咲かせるのかをね。あの青洲が嘘をついてまで手放したくない女だ。会うのが楽しみになったよ」

 司は、くつくつと笑いながら、携帯を内ポケットにしまいこんだ。


* * *


 辺り一面に濃霧が立ちこめている。見えるのは自分の足元だけ。いずみは、ぼんやりとその中で佇んでいた。耳をすませても何も聞こえない。足元の地面を見て、ここは野外なのだと言うことだけが分かる。

――歩き出すべきか、留まるべきか……。

 その時、唐突に誰かが歩いて来る靴音がした。

 サク、サクサク、サク……

 誰かが近づいて来る気配がする。さほど大きくない人の……むしろ、子どもの様な軽やかな靴音だ。

「やあ、こんな所に居たんだ……見つからない訳だね」

 高く良く通る澄んだその声は、すぐ背後から聞こえた。

「誰?」

 いずみは振り返って問いかける。そこには、いずみと同じくらいの背の高さの、少年(少女?) が立っていた。黒髪のショートヘアーに、漆黒の大きな瞳。

「分からない?」

 その少年(少女?) は、悪戯っぽい目を輝かせる。

「え? だって……会ったことないよね?」

 会ったことはないと思う……だけど、何故だか懐かしい。いずみは戸惑いながら返答する。

「きっと分からないだろうとは思ってたけどね……」

 少年(少女?) は、振りながら肩を竦めて続けた。苦笑しているようだ。

「おいでよ。危険が迫ってる。早くしないとやられるよ?」

 少年(少女?) は、鋭い視線でいずみを見つめると、手首を掴んでをぐいっと引っ張った。

「え? どこに?」

 少年(少女?) は、返答もないままいずみの手をとると、濃霧の中、ためらう様子もなく前進した。

「ねぇ、あなた、名前は? 名前くらい教えてくれたっていいでしょ?」

 いずみは足をもつれさせながら、必死について行く。それくらい少年(少女?) の足は速かった。

「名前なんてないよ」

 少年(少女?) は、少し傷ついたように言う。

「え? なんで名前がないの?」

 いずみが驚くと、彼(彼女?) は、眉間にしわを寄せて振り向いた。

「どうして名前が必要なの?」

「だって……呼べないじゃない」

 いずみが口をとがらせると、その少年(少女)は虚を突かれたように立ち止まると、一瞬照れ臭そうな顔をしてから、ぷいっと前を向き、再び歩き出した。前よりも、少し歩く速度が遅い。いずみに気を使ってくれているらしい。

つないだ手から、温もりが伝わってくる。手を通して、ぎこちなく、戸惑いながら、控えめに伝わってくる心の波動。

「じゃあ、呼びたいように呼んでよ」

 ついに、少年(少女?) は、くすぐったそうな笑みをいずみに向けると、はにかみながらそう言った。

「なにそれ……」

 いずみは、首を傾げる。その少年(少女?) には、やはり既視感があった。背中から肩にかけての真っ直ぐなラインとか、少し癖のある柔らかそうな髪とか、横顔の鼻から口に掛けてのラインが、やけに懐かしい。初めて会ったのに懐かしい……。いずみが、不思議な気持ちで歩いていると、少年(少女?) は、突然立ち止まって、少し緊張した面持ちで振り返った。

「着いたよ。ここだ」

 そこには、古ぼけた木の扉があった。その古い木の扉にいずみは見おぼえがある。

「ここから先は、僕は行けない」

――僕? 男の子なの?

「……もしかしたら、もう遅いのかもしれない。だけど……何もしない訳にはいかないだろ?」

 少年は、難しい顔をして呟いた。

「遅い? 何が遅いの?」

「気づくのが遅かったかもしれない。あなたは小さいものには鈍感だから……」

――小さいもの?

「……何をするの?」

「僕らにできること。僕らにしかできないこと……」

 言葉の意味は分かっても、言っている意味が分からない。少年の言葉は、まるで呪文のようだといずみは感じる。

「さっぱり分からないよ?」

 いずみは首を傾げる。

「いいから、扉を開けて」

 少年は急きたてるように、いずみの背中を押した。

 いずみは、その古ぼけた懐かしいドアの前に立つと、手に馴染むドアノブを回し、ぐっと引く。途端に、中からぶわっと懐かしい匂いがあふれ出した。


 父さんが絵を描いているんだ。

 いずみは部屋の中をキョロキョロと見回す。室内には絵具の匂いが充満していた。部屋の中には大きなカンヴァス、複雑に混ぜ合わされて微妙な色合いに調節された、パレットの上の絵具たち。

 筆をカンヴァスに乗せる音と匂い、そのほかは、何ものも立ち入ることを許されていない。

 静寂、ただ、静寂……

 いずみの目は、父親の背中を見つめながら、ぼうっと座る小さないずみに注がれる。

 いずみは思い出していた。父が絵を描き始めると、いつもこんな雰囲気の空間と時間が、部屋全体を支配した。圧倒的なその力に、小さないずみは、ただただぼうっとなって見ること以外を忘れてしまう。自分の小さな背中が喜色を湛えているのが分かる。いずみは、父が絵を描いている時間が大好きだったのだ。

 いずみは、父が描いているその絵を良く覚えていた。否、今鮮明に思い出したと言う方が正確だ。

 その時父が描いていたのは抽象画で、風景画ばかりを描いていた父の作品とは趣を異にしたものだった。緑色の蔓性の植物をモチーフにした、全体的に緑色の絵で、その蔓の奥に何かが潜んでいるのが分かる。何か恐ろしいまでの負のエネルギーを滲ませて潜む何か、それを封じるように立ちはだかる蔓、蔓、蔓……。絵の所々に、赤いルビーのような果実が描きこまれている。

 その時、小さないずみが突然声をあげた。

 絵を描いている父に声を掛けることなど滅多になかったいずみだったが、その時、何かに突き動かされるように声を掛けた。それを思い出す。

「お父さん? ここは? ここはどうして何も描いていないの?」

 絵のど真ん中に五百円玉程の空白があった。何もない、真っ白な空白。

「……描けないんだよ」

 小さないずみの言葉に、父は少し困った顔をして振り向いた。

「どうして描けないの?」

「どうしてかな? 何故か分からないんだけど、描けないんだよ」

 父は難しい顔をしてため息をついた。

「ねぇ、いずみが描いてもいい?」

 小さないずみは、目を輝かせる。父に似て絵は得意なのだ。小学生にしては、一人前な絵を描くなぁと父に褒められたこともある。もっとも、半分以上は親のひいき目だったかもしれないが。それに、失敗したって塗りこめてしまえばいいことを、いつも父親の仕事を見ていたいずみは知っていた。

「……描いてみるかい?」

 父は悪戯っぽく微笑むと、大胆にも、持っていた絵筆をいずみに渡した。

「ここに野いちごを描いてあげる」

 小さいいずみは、高らかに宣言した。

 それを見ていた今のいずみは慌てる。

――私、そんなことを言ったかしら?

 父の絵に描くなど、今のいずみでは考えられない。慌てて止めたい衝動に駆られていると、小さいいずみは、臆することもなく大胆な筆さばきで、その小さな空白に大粒の野いちごを描きこんだ。

 鮮やかに紅く、濃く、露を纏った様に濡れた野いちご。

 その野いちごは、まるでショートケーキの上の一粒のイチゴのように、燦然と絵全体の頂点に立った。それなしでは、すべてが成り立たない、それほどの存在感をもって、その絵を支配した。

 横で、父親がごくりと喉を鳴らしたのに、今のいずみは気づいた。そして、思い出す。

――そうだ……この後……確か……

 ビシッッ、ずざざざっ、ドーンッ

 今のいずみが気づいた時には、小さいいずみは、父から手加減のない平手打ちを食らって、ふっとび、壁に激突していた。それは、あっという間のできごとで、悲鳴を上げる間もなかった。一度だっていずみに手を上げたことがなく、叱ったことさえなかった父が、この時は鬼神のような形相だったことを思い出す。

 震えながら呆然と父を見上げて、いずみが泣き始めると、父は我に返ったようにいずみに駆け寄り、抱きしめた。

「いずみ、たぶん、おまえが最後の希望なんだ……。ああ、分かっていたとも……分かっていたんだ。いいか、この絵は父さんが描いたんだ。おまえは何もしていない。分かったね? いずみは何もしなかった。いいね、このことは忘れるんだ!」

 父は泣いていた。そして、少し震えていた。そして、あまりの衝撃と困惑で、いずみは、父の言いつけどおり、その時の記憶を封印したのだった。


 いずみは、すっかり思い出していた。

 それ以来だ、父が、いずみに絵について色々な技法を教えてくれたのは。中でもとりわけ、記憶に鮮明なのは、人物画についてだった。

「いいか、いずみ。自然界にあるものは、限りなく厳密に精密に描いても構わない。だけど、人物画を描く時には気をつけろ。そのまま描いては駄目だ」

「どうして?」

 父は少し考えてから、突然いずみの似顔絵を描き始めた。いずみは目を見張る。まるで写真のように正確に紙の中に写し取られていく自分。指の皺一つ、髪の毛の一本に至るまで精密に、父は描きとろうとしていた。いずみは、描かれていく絵を見つめて、ごくりと唾を飲み込む。手が自然に喉のあたりをさする。

――息苦しい……まるで、紙に閉じ込められていくみたいだ……

「どうだ?」

 いずみの様子に気づいた父が、鉛筆を止めた。

「なんだか良く分からないけど……苦しいよ……」

 父は、心得顔で頷くと、突然、絵の中の目をぐりぐりっと漫画チックな瞳に描き変えた。まつ毛バサバサの星が宿っているような大きな瞳。元々クリクリした大きな目をしているいずみだけれど、これじゃあ少女漫画だ。ところが、父がそうした途端に、息苦しさがふわっと無くなった。父は言った。

「いいか、いずみ。人を描く時は、特徴をデフォルメするんだ。そうしないと、今おまえが感じた息苦しさを、その人にも味わわせることになる」

「どうして? どうしてこんなことになるの?」

 いずみは目を見開いて父に問いかける。

「どうしてだろうね? 分からない。血筋……じゃないかな」

 父は寂しそうに笑った。

「……私が描いてもそうなるの?」

 いずみの問いかけに、父は少し首を傾げてから、

「じゃあ、父さんを描いてごらん」と言う。いずみが紙に鉛筆を走らせると、父は、しばらくしてクスクス笑い出した。

「もう、いいよ。もうやめてくれ。成程、君のは、少しタイプが違うようだよ。なんだかすごく心地が良いんだ。陽だまりの中でウトウトしてる気分になる。でも気づいたら、大変なことになっていそうだ。君の方がよほど怖いね」

 父は心地良さげにほほ笑んでから、急に真顔になって諭すように、

「やっぱり血筋なんだろうよ。君もなるべく人物画は描かない方がいい」

と言った。

 いずみは、こっくりと頷く。

「分かった。人はなるべく描かないようにする。描く時は、正確には描かない」

 父はいずみの言葉に満足そうに頷いて、そして、こう付け足した。

「いいか、いずみ、正確に精密に描く時は一つだけ、戦う必要に迫られた時だけだ」

「戦う時? 何と?」

「その時が来たら分かるよ。そして、このことは誰にもしゃべっちゃいけない。母さんにもね」

 突然、ぶわっと激しい風が吹いて、いずみが手で顔を覆って目を閉じると、鼻先でパタンとドアが閉じた。


 再び濃い霧の中

「分かった?」

 背後で少年の声がする。

「分かったって……何が?」

「僕らにできること。僕らにしかできないことだよ」

 少年は、眉間にしわを寄せて言った。

「あなた……誰?」

 いずみも眉間にしわを寄せる。

「誰でもないよ……今はまだね」

 誰かに似ているのだ。いずみは、考え込む。ふと、いずみの視線が少年のスラリとした長い指に留まる。この、男の子にしては節の目立たない滑らかな指は……

「冬樹さま?」

 呟いたところで、いずみは目を覚ました。気配に気づいて横を向くと、そこには、少し困惑したような表情で、青洲がいずみを見つめていた。


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