第八話 出る杭は打たれる(3)
十年前
秋乃がその人にあったのは、夜の仕事を始めて、まだ間がない頃だった。
「君が、鈴森秋乃さん?」
突然の来訪で、突然の指名だった。細面に涼しげな切れ長の瞳をしていた。しゃべり方も仕草も柔らかいのに、威圧感のある男だった。その涼しげな瞳の奥に、何か閃く刃物のようなものが潜んでいるようで、秋乃は竦み上がる。
「はは、緊張してしまったかな?」
男は目を細める。柔らかい笑顔、だけど、その瞳の奥には得体の知れない闇がちらちらしている気配がした。秋乃は更に身を硬くする。
竦み上がっている秋乃を店のママが目線でたしなめる。先ほど、指名が入ったと知らせに来た時に、この店一番のVIPだから、くれぐれも粗相のないようにと、秋乃は釘を刺されていた。
その男の名前は、志木聖。六十代とは思えない肌の張りを持ち、男でありながら妖艶な美しさを持った人物で、そうであるのに、いったん口を開けば、そのなよやかな外見からは想像ができなくらいの威厳と威圧感を醸し出す人物だった。
「君は、斉藤心の奥方なのだそうだね」
まだ新人で気がつかないからと気遣うママを無視して、人払いをし、秋乃と二人きりになった店内で、志木はいきなり秋乃にこう問いかけた。秋乃は目を見開いて志木を見つめる。志木は、心の絵を買っている画商と知り合いなのだと言った。
「彼の絵は、実にすばらしい。もっと高値で買い取ってやってくれと言っているのだが、なにしろ、彼の御両親が作った借金が莫大でねぇ」
秋乃は、心の絵を褒められたことが嬉しくて、志木への警戒心を少し解いた。
「心の絵を褒めていただけただけで、とても嬉しいです。ありがとうございます」
秋乃はにっこりとほほ笑む。
「ちょっと小耳にはさんだのだけど、彼の御両親は本当の親じゃないとか……」
「……」
秋乃は小首を傾げる。
「いや、本当の親じゃないのに、借金を肩代わりさせられるのも、気の毒なことだと思ったんだよ。何かほかにやり方があるのじゃないかと思ってね」
「彼は養子なんだと言っていました」
他のやり方があるのならば、教えてほしいと心底思う。
「彼の元の姓は何か知っているかい?」
「……それが何か関係あるんですか?」
秋乃は用心深く答える。
「いや、特にそう言う訳じゃないよ。あそこまでの絵を描ける人だからね、何か血筋のようなものでもあるんじゃないかと、ふと、そう思っただけだ」
志木は、何気なく言って、ロックのウィスキーをちろりと舐める。
「すみません、それは聞いていないので、お答えできないようです」
「ふぅん、夫婦なのに変な話だね?」
志木は目を細めて秋乃を探るように見たが、それ以上追及はしなかった。
その日から、志木聖は、店に来るたびに秋乃を指名するようになった。
* * *
今現在、志木グループを実質上取り仕切っている志木司が、青洲に面会を申し込んで来たのは、青洲が吉田に戻った三日後だった。
「戻ってらしたんですね」
ダークスーツをスマートに着こなした志木司は、涼やかな目を弧にしてほほ笑んだ。
青洲は司に座るように勧める。
「今日は、どういったご用件ですか?」
青洲は感情の見えない表情で司を見つめる。
「その前に、あなたは、私や、ひいては志木家に言わなければならないことがあるんじゃあないですか? 華陽のことなど、もう忘れ去りましたか? 吉田から放り出されたあなたの元妻を……」
司は笑みを引っこめて、鋭く青洲を見つめる。
「……その件は、既に片がついた話だと、私は理解しています。何もかも放り出して逃げだしたことについては、非礼を詫びますが、その件を話しにいらっしゃったのであれば、彼女が何をしたのか、彼女を吉田に送りこんだ志木家の思惑について、説明を求めることになりますが、構いませんか?」
青洲も鋭く司を見つめる。
「志木家の思惑は明快です。優良企業である吉田と手を組みたかった。それだけですよ。今の時勢では、企業同士の協力なしに発展はない。そうは思いませんか?」
司は再び笑みを浮かべたが、瞳は決して笑んではいない。
「そうですね。協力する相手さえ間違えなければね」
青洲も冷笑を浮かべる。
「今日伺ったのは、トーワの件についてなんですよ」
司はすらりと伸びた脚を組みかえながら、話題を変えた。
「トーワを買い取ったのは良いのですが、少々、手を焼いていましてね。あそこは、従業員の結束が異常に硬くて、経営者の方針など犬の無駄吠え程度にしか思っていないようでね。できれば手放したいのですよ。もし、吉田で引き取ってもらえるのならば……」
「そのような話ならば、赤秀を呼びましょう。私に話すだけ無駄です。何の権限も持っていませんからね」
青洲は、隣に置いてあった内線電話に手を伸ばす。
「いえ、話はまだほかにもあります。赤秀さんを呼ぶのは、その後にしてください」
司は青洲を制止した。青洲は伸ばした手を止める。
「こちらに、鈴森いずみさん……がお世話になっていますよね」
司は青洲を探るように見つめた。
「……いいえ、そのような方はこちらにおりませんが……」
青洲は一瞬間をおいてから答える。
「あなたが逃亡に連れまわっていた女性の名前は、いずみという名前だと報告を受けていますが?」
司は、探りを入れていたことを隠しもせずに、そう言った。
「ええ、いずみという名前ですが、鈴森ではありません。人違いではないですか?」
青洲は用心深く答える。鈴森の名前はずっと伏せてあるが、いずみと呼んでいるところを押えられている可能性はある。
「おかしいな、もしかして、偽名を名乗っているのかな。写真をお見せしましょうか?」
司はそう言って、スーツの内ポケットから一枚の写真を取り出した。そこには、書斎のデスクの上を拭き掃除しているらしいいずみの姿があった。少し首を傾げてほほ笑んでいる。
「彼女をご存知ですよね?」
「……やはり、人違いのようですよ。いずみはいずみでも、私の妻は、別人です」
青洲は、写真をしげしげと見つめてから、首を傾げて写真を司に返した。
「おや、再婚されたんですか」
司は軽く驚いたように目を見張る。
「籍はまだ入れていませんがね……。ところで、この方はどうされたんですか?」
「彼女はね、ちょっとした手違いで、奉公していた家を追い出されたんです。僕の甥っ子の子を身ごもっていたんですが……」
「……」
「すぐに手を尽くして探させたんですが、見つからなくて……甥もすっかり気落ちしてましてね。母親の理解を得られずに一旦はあきらめようとしたらしいんですが、そこはまぁ、愛し合っていた訳ですからね。失って初めて事の重大さに気づいたと言ったころでしょうか……ちょっと至らない甥っ子でね」
司は苦笑してから、
「……ですから、彼女を返して欲しいんですよ」と言って、青洲を真っ直ぐ、挑戦的な瞳で見つめた。
「それは御心配でしょう。早く見つかると良いですね」
青洲は気の毒そうな口調で、しかし、鋭い視線で、司をにらみ返す。
「……人違いでしたか。残念です」
司は、そう言いながら写真をポケットにしまった。
「では、赤秀を呼びましょうか?」
「お願いします」
青洲は内線で赤秀を呼び出した。
「……立ち入ったことをお聞きするようですが、一つ伺ってもいいですか?」
受話器を置いて、赤秀が来るまでの沈黙を青洲が破る。
「なんでしょう?」
「その女性を探していると言う、あなたの甥子さんは、どうして自らここへ来ないのですか? 探しているのは甥子さんなんでしょう?」
青洲の質問に、司は小さくため息をついた。
「彼は、今、病気療養中です。原因不明の熱を頻発していましてね。すっかり気弱になってしまって、姉が心配しているんですよ。姉も突然の妊娠話で動転しただけで、それほど愛し合っているのならば、連れ戻したいと言い出してまして……それで、僕に捜索の役目が回ってきたという訳です」
「そうでしたか……それは御心配ですね。お大事に……」
やがてやってきた赤秀に、その場を譲ると青洲は外へ出た。自分専用に用意されたオフィスの個室に戻ると、窓の外を険しい顔で睨みつける。眼下に、オモチャのような車が列を作っている。歩道を歩く人が、ぽつりぽつりと傘を広げ始めるのが見えた。外界から隔絶された高層ビルの一室。人々の振る舞いが、外の変化をいち早く知らせていた。
「雨……か」
誰に言うでもなく、青洲は一人ぽつりと呟いた。