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野いちご  作者: 立花招夏
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第八話 出る杭は打たれる(2)

 とても病院とは思えない。いずみは、一人ほうっとため息をついた。穏やかなアイボリー色の壁には、なんだか良く分からない抽象的な図形の絵が掛けられているし、大きめのベッドの横には、洒落たローチェストと小テーブルのセットが置かれている。ベッドの反対側には、面会者用なのかフカフカとして座り心地が良さそうなソファまであった。

 飛行場から直接、リムジンでこの病院まで連れて来られた。この病院は、吉田グループが経営している病院で、青洲の弟、白舟が医師の一人として勤務しているのだと言う。

 簡単な検査を受けて、いずみの入院手続きを済ませると、青洲は赤秀に引きたてられるように病室を出て行った。夕方には戻るから大人しくしててね、と言い残して。

 いずみは、一人、居心地の良い部屋で、居心地悪そうに天井を見つめていたが、長旅の疲れからか、やがて夢も見ないほどの深い眠りの底に落ちていった。


 この病院は、本来、病気がちだった青洲の母、朝香の為に創られたような病院だった。青洲の父、龍生が、療養生活で塞ぎがちだった妻の気を引き立てる為に設計させた病院だったので、病院と言うよりは、療養所と言う方が当たっているかも知れない。病院にしては、なんとなくゆったりとした雰囲気が病院中を包んでいる。大学病院のように難病を扱える訳ではなく(もちろん、病状が重篤な場合には、提携している大学病院などに患者を搬送する準備はある)、どちらかと言うと、リハビリや療養を主目的としている。だからそういう対象の患者には、その緩い雰囲気が好評で、今ではかなりなベッド数を抱える地域に根差した中堅の病院になっていた。

 病院は、一般の人に開放している外来、病棟とは別に、吉田グループの関係者が専用で使う病棟が別棟でくっついている。いずみは、その別棟の一室に入れられたのだった。


 その日一日、夢とうつつを行ったり来たりしていたいずみは、真夜中にふと目覚めて息をのんだ。傍らのソファに赤秀が眠っている。恐る恐るベッドから降りて、ソファの上の人物を覗きこむ。

――ん? 赤秀さんじゃない……

 ブラインドから漏れ入る月光が、少し疲れたように目をつぶる横顔を照らし出す。

――青洲さん……

 きちんと髪を切り、すっきりとした目のラインと彫りの深い鼻筋が現れると、頬骨の高さも厚めな唇も気にならないくらい精悍だ。

 青洲を初めてみた時、四十代くらいかと思っていたが、今は年相応の三十代に見える。いずみは、両膝立ちでソファの前に佇むと、青洲の顔を食い入るように見つめた。

「……」

 突然、パチリと目を開けた青洲といずみの視線がぶつかり合う。青洲は、一瞬ぼんやりといずみを見つめていたが、次の瞬間、驚いたように起きあがった。

「いずみちゃん、目が覚めたの?」

「ごめんね、起こしちゃった?」

「良かった。白舟に訊いたら、あれからずっと眠っていて、血圧を測ろうが熱を計ろうが、食事を持ってこようが、ちっとも目を覚まさないって言うから、このまま君が目を覚まさなかったらどうしようかと思ってしまったよ」

 そう言いながら、青洲はいずみを抱きしめた。抱きしめ返しながら、いずみはクスクス小さく笑う。

「どうかした?」

 青洲は、いずみの顔を覗きこんで首を傾げた。

「さっき目が覚めてね、ソファを見て、びっくりしたの」

 青洲は更に首を傾げる。

「赤秀さんがソファで寝ているのかと思ったから。髪の毛切ったんだね?」

 いずみは、クスクス笑いながら説明する。

「赤秀だったら、どうするつもりだった? やっぱり覗きこむの?」

 青洲は、いずみを引き寄せると、探るような声で耳元に囁く。

「赤秀さんだったら、また怒られないうちに、逃げなきゃって思ってた」

 いずみは、くすぐったそうに首を竦めながら、クスクス笑う。いずみの答えに、青洲は軽く吹きだして、口づけを落とした。

「赤秀は、もう君のことを怒ったりしないよ。ここでは、誰も君を虐めたりしない。俺がそんなことさせないから、だから、一人でここから逃げ出そうなんて考えないでくれ」

「うん」

「約束だよ?」

「うん」

 青洲の腕に抱きしめられたまま、いずみはほうっと小さくため息をつく。

――こんなに幸せで、いいのかな?

 このままでいられればいい、いずみは心底そう思う。

「いずみ、声を聞かせて」

 青洲が懇願するように囁く。

「声?」

 いずみは小さく首を傾げる。

「そう、君の声を聞くと癒される。何でもいいから、声を聞かせてくれないか?」

 いずみは、小さく息をのむ。かつて、同じようなセリフを言われたことがあった。石守家の旦那様だ。

「いずみちゃん? どうかした?」

 考え込むように黙り込んでしまったいずみの顔を、青洲が心配そうに覗きこむ。

「あ、ううん、何でもない。ごめんね、何を話そうか?」

「……君が、今、思いついたこと」

 青洲は、探るようにいずみの瞳を覗きこむ。

「……」

 いずみは、小さく動揺して視線を泳がせる。

「それとも思い出したこと? それを教えて」

「……う……ん」

 いずみは、戸惑いながら話し始めた。


 いずみが石守家に奉公にあがった当初、当主だった石守東生は、まだ健在だった。一見、とても厳格で近寄りがたい雰囲気を醸し出している人で、奥様も使用人たちも、いつも旦那様のご機嫌を伺っていた。その一方で、使用人たちの間で密かに囁かれる噂があった。

 ああ見えて、実は、旦那様は女性にだらしがない。だから住込みの使用人たちからは毛嫌いされているのだと……。


 母親に連れられて、石守家の門をくぐった時、奥様である昌代は、いずみを雇うことなど全く知らされていないと、ひどい剣幕でまくしたてた。いつもならば、何でもすぐに投げ出してしまう母親が、その日は全く引く気配を見せなかったことを、いずみは今でも覚えている。石守の旦那様に直接会って、お話をさせてもらうまでは帰らないと食い下がった。奥様は、旦那様の悪い癖がまた始まったのだと吐き捨てるように呟いてその場を立ち去り、代わって旦那様が呼び出された。

 わざわざ呼び出されて、不機嫌そうにやってきた石守の旦那様は、いずみ達親子を、まるで物乞いでも来たかのように追い払おうとした。

「さっさと帰りなさい。あんな店での冗談を真に受けて、こんな所までのこのこやってくるなんて、非常識だろう?」

 白髪の小柄な老人で、気難しさが、そのまま顔に出ているような人だった。眉間にしわを寄せて睨まれて、いずみは、泣きそうな表情で母親のスーツの裾を引く。一刻も早く逃げたしたかった。こんな所に一人ぼっちで奉公なんて、とてもできそうもない。しかし、母親は一歩も引かなかった。

「そっちは冗談だったかもしれないけど、こっちは本気ですよ。条件はすべて呑んでるわ。こっちはもう引き返せないのよ。こんな立派なお屋敷の旦那様が、使用人を一人増やすくらい、なんでもないことじゃないの!」

 かつてないくらい強気な姿勢を崩さない母親に、いずみの手から力が抜ける。

「条件を呑んだって、まさか……まさか、そんなことを本気で……」

 旦那様が息をのんだ。

「これで、この子はあんたの思い通りでしょう?」

「……」

 二人の会話を、意味も分からぬままに、ハラハラしながらいずみは聞いていた。分かったのは、母親が必死で自分を手放したがっていたことと、この屋敷でも自分は歓迎されていないらしいと言うことだけだった。


 今から思えば、その条件というのが、死亡届だったのだろう。いずみは、ここまで話すと、少し考え込むように間をおいた。

「いずみちゃん、俺、君に辛いことを言わせてる? もし、話したくなければ……」

 青洲は、いずみを抱き寄せる。

「違うの、どうしてあの時、母はあんなに必死だったんだろうって、今、不思議に思ったから……」


 結局、奉公を許されたいずみだったが、母親にも石守の家の人にも、その部屋に置き去りにされた。戸締りの為に部屋を見回っていた住込みの使用人に発見されるまで、いずみは、その部屋でずっと途方に暮れていた。

 石守家でのいずみの扱いは、ほとんど猫か犬並だった。特に仕事を頼まれることもなく、かと言って追い出されるわけでもない。使用人の誰かが気が向けば食べ物をくれる。もしかして、自分の姿はみんなに見えていないんじゃないかと疑りたくなるくらい、石守家の人もその使用人達も、いずみに気を留めなかった。そんな状態が一月も経った頃、突然、奥様に呼び出された。

「この絵を描いたのはあなたなの?」

 奥様は、涼やかな目元に嫌悪感を露わにして問い詰めた。それは、いずみが暇にまかせて、庭の花を広告の裏に描きとったものだった。

「は……い、そうですけど……」

「不吉だわ、こんな絵を描くなんて……なんて不吉な子なの!」

「?」

 奥様は、怯えたように花の絵をビリビリに引き裂いた。元々白い滑らかな肌を更に青白くして、まるで絞殺されようとでもしているかのように、奥様は、いずみを怯えた目で見つめた。

「クビっ、クビよ! 今すぐ旦那様にクビにしてもらうからっ」

 奥様は、使用人を呼ぶ為のベルを握りしめて、ひきつけを起こしたかのように振りまわした。けたたましいベルの音に、すぐに使用人が駆けつけ、奥様の命令で、いずみは旦那様の書斎へ連れて行かれた。

 旦那様は、連れて来られたいずみには気づかない様子で、しばらく忙しく電話をかけたり、書類に目を通したりしていたが、ふと、今気づいたというように、ぼんやりと佇むいずみに視線を合わせた。

「……君は絵が上手なのだそうだな」

 そう呟くように言ったところで、電話がけたたましくなった。再び仕事の話をし始めた旦那様を、いずみはぼんやりと見つめる。

「……」

 ついにここも追い出されるのだと、いずみが途方に暮れて黙っていると、受話器を置いた旦那様が更に続けた。

「私の似顔絵を描けるかね?」

 いずみは、驚いて顔を上げると、こくりと頷いた。

 その日から、いずみは旦那様付きの使用人になった。いずみが居ていいのは、いずみにあてがわれた二階の小さな部屋(物置を兼ねていた)と旦那様の書斎のみで、屋敷から出る時も入る時も裏口を使い、絶対に奥様の目の触れぬ場所にいることが義務付けられた。使用人たちの大方の噂は、いずみが旦那様の若い愛人になったらしいというものだったが、旦那様の書斎で過ごす大半の時間を、いずみは絵を描いて過ごした。描いたのは、使用人たち全員の似顔絵。可能な限り精密に描きなさいという指示だったので、結構時間が掛かったのだ。そして全員分を描き上げた頃に、旦那様が突然脳卒中で倒れたのだった。

 いずみに、たくさんの童謡を教えてくれたのが、石守の旦那様だった。

 半身不随になってしまった旦那様の介護は、いずみに押しつけられた。何も仕事がないよりもずっとましだ。かいがいしく介護するいずみに、旦那様は、たくさんの童謡を教えてくれた。病に倒れてからの旦那様は、すっかり剣がとれて穏やかになっていたが、発声や音程には厳しくて、少しの乱れも聞き逃さなかった。そして、歌が上達すると、しょっちゅうこう言った。

「歌っておくれ、いずみ。おまえの声を聞くと癒される」と……


「……」

 いずみが話を終えても、青洲は、いずみを抱きしめたまま黙りこくっていた。

「青洲さん?」

 不安になって、いずみが問いかける。

「……」

「ごめんね、こんな話聞きたくなかったよね?」

 いずみは、泣きそうな顔で青洲を見つめる。

「違う、違うんだ、いずみちゃん。俺は大事な人が大変な時に、いつも傍にいてやれない。それが辛かったんだよ。薫の時も、君の時も……」

 青洲は、息を震わせながらため息をつくと、いずみの髪を何度も梳きあげた。

「そんなことないよ。青洲さんは、私が大変な時に傍に居てくれたよ? あの雨の日に、もうどこにも居場所が無くなって、途方に暮れていた私に居場所をくれたじゃない」

「いずみちゃん……」

 青洲は、いずみをぎゅっと強く抱きしめてから、そのまま抱きかかえるとベッドへ運んだ。

「もうこんな時間だ。うっかりしていたよ。もう寝かさないと白舟にまた怒られる」

「白舟さんに怒られたの? どうして?」

 いずみは心配そうに青洲を見上げる。

「妊婦を逃亡に着き合わせた挙句、こんなに疲れさせるなんて言語道断だって」

 青洲は苦笑する。

「私は、疲れてなかったよ? 今まで生きてて、こんなに楽しいことはなかったもの」


 次の朝、看護師の怒声でいずみは目を覚ました。

「青洲様っ、いくら青洲様でも、患者様のベッドで一緒に眠るなんて非常識ですっ。いい加減にしてください!」

 青洲は、寝ぼけ眼を擦りながら起きあがった。いずみは、突然の怒声に身を竦める。

「あれ? 佐藤さん? 看護師長なのに、こんな時間から仕事ですか?」

 青洲は、大あくびをしながら、のんびりと話しかけた。

「どうしたら良いかと、わざわざ呼び出されたんです。若い看護師を困らせるのは、やめていただきたいのですがっ」

 佐藤看護師長は、怒マークをつけたこめかみをピクピクさせながら、凄みのある目でほほ笑んだ。いずみは、真っ青になる。隣で眠って欲しいとねだったのは、いずみだ。

「このベッドは狭いなぁと俺も思ったんですよ。佐藤さんが、そう言うのなら話は早い。常識的な大きさのベッドに取り換えてもらえますか?」

 青洲はにこやかに答えたが、その言葉は、佐藤看護師長の怒マークの数を更に増やした様子だった。

「ごめんなさいっ。私が青洲さんに一緒に居て欲しいと言ったんです。もう、そんなこと言って困らせたりしませんから……あの……」

 いずみが声を上ずらせながら、佐藤看護師長を見上げる。

「いずみちゃん、いいんだよ。ねぇ、佐藤さん。こんな部屋じゃなくて、もっと大きなベッドの部屋があるでしょう? そっちに移してもらえませんか? 俺は当分、いずみの病室から出勤することになるんだし、ここじゃ、シャワーも使えない」

「……でも、あちらには……」

 看護師長は口ごもる。

「赤秀の許可が必要……ですか?」

「……」

「佐藤さん、移してあげてください」

 ドアが開いて、赤秀が現れた。

「赤秀様っ……ですが……」

 佐藤看護師長は、当惑して口ごもる。

「ここだとほかの患者さんの目がありますからね、兄弟喧嘩もできない。昨夜も部屋に戻ってないと思って心配していたら、こんなところに泊って……。まぁ、こんなことだろうと思っていましたがね。兄さんは、薫が死んでから、頭のねじが二、三本抜けちゃっているんでしょう。放っておいたら、ここを根城にしかねませんよ。佐藤さんも、毎朝呼び出されるなんて嫌でしょう?」

 佐藤看護師長が、当惑気味に病室を出ていくと、赤秀は青洲に向き直った。

「兄さん、早速だけど、志木家が動き出したよ。何をどう調べてるんだか、兄さんの行動は逐一見張られているようだ。あの家は一体なんなんだ? 化物じみてるな。どうするよ?」

「その話は、後で聞くよ。とにかく一刻も早く、いずみを奥に移したい」

 青洲は、眉間にしわを寄せた。

「そうだな。その方が良さそうだ。ここで事件を起こされちゃ、病院の評判が落ちる」

 赤秀は、ちらりといずみを横目で睨むと、青洲に、では後で、と言い残して出て行った。

「青洲さん?」

 いずみが不安そうに青洲を見上げる。

「大丈夫だよ。いずみちゃんは心配しないで、大人しくしてて」

 青洲は、いずみの髪を一梳きするとベッドから下りた。窓を開けると、庭に面した南向きの窓から春の気配がどっと溢れこんだ。


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