第八話 出る杭は打たれる(1)
三十三年前
青子が暮らしていたアパートに電話のベルが鳴り響いた。電話のベルの音に何かしら違和感を感じて、青子はふと手を止める。
――鈴の音?
固まったまま電話を取ろうとしない母親を、隣の部屋でお人形遊びをしていた幼い秋乃が不思議そうな顔をして見つめる。
「お母さん? 電話、とらないの?」
愛らしい瞳。秋乃は青子にそっくりなのだけど、瞳だけが父親に似ている。黒曜石の瞳。その瞳に励まされるように、青子は受話器をとった。
「青子か?」
秋乃の父親の、仁だ。
「仁? 今どこに居るの? もう戻ってきたの?」
青子は声を弾ませる。仁と青子は正式な夫婦ではない。仁には妻子がいた。でも、家同士で決めた結婚で、妻のことを愛していないと仁は言った。愛があるから愛人だ、そんな詭弁で自分を納得させて、そのような身分に甘んじたのは、その時既に秋乃をお腹に授かっていたからだった。
「今、島から戻ってきたんだ。すごいものを発見したよ」
仁も声を弾ませる。人懐っこい仁の笑顔が目に浮かんで、青子は顔をほころばせた。
「君から聞いた伝承は本物だったよ。すごいよ。これから研究室に寄って、少し後処理をしてから、君ところへ帰るから」
仁の言葉に青子は目を見開いた。
「ここに来られるの?」
「ああ、久しぶりに君の手料理が食べたいな」
青子は喜びで胸がいっぱいになって、満面の笑みを浮かべたまま受話器を置いた。しかし、仁が青子の元へ帰ってくることは、二度となかった。
その日の夜半、仁は研究室で倒れていたのを発見された。発見された時には、既に心肺停止の状態で、死因は心臓麻痺と診断された。
青子が仁の死を知ったのは、それから一週間後のことだ。
仁の妻が青子の元にやってきて、金を置いて行った。秋乃は認知さえされていない子どもだ。本来ならば、放っておかれても文句は言えない立場だ。しかし、それでは寝覚めが悪いから、手切れ金として持ってきたのだと、仁の妻は冷ややかに言った。既に告別式も済んでいて、青子は仁の位牌に手を合わせることも、線香一本上げることも、志木家の門をくぐることさえ許されなかった。
何があったのか、何が原因なのか、さっぱり分からなかったのだと仁の妻は言った。ただ、研究室で倒れていた仁の周りに、砕けた土偶のようなものが散乱していたそうだ。
二年前、都内、志木家
秋子が志木家に入ってすぐに、メイドから訊かれたのは朝食のメニューだった。訊けば、志木家の朝食は、それぞれバラバラなのだという。当主の聖が和食、息子の司が洋食、華陽が半熟のゆで卵と野菜ジュースのみだ。朝食だけは家族が揃うことが決まりになっていた。今は嫁に行って志木家にはいない昌代は、朝起きた時の気分で、朝食にあれこれ注文を付ける人だったので大変だったと言う話を、比較的おしゃべりなメイドが教えてくれた。名和家でも養子に出された先の佐藤家でも、朝食は家族そろって摂っていたけれど、みんな母親が作る同じメニューを食べていた。和食でも、洋食でも、それ以外でも……。
秋子が洋食を選んだのは、単に聖とは同じメニューを食べたくないという子供じみた反抗心からだったが、一週間が経った頃には、洋食だろうが和食だろうが、野菜ジュースだろうが、ここの家の人とは、食事を一緒に摂りたくないという結論に達していた。
秋子はコーヒーとクラッカーという、ごくごくシンプルな朝食を摂りながら、ぼんやりと聞くとはなしに、聖と司と華陽の会話を聞く。
「華陽、今日から石守だな。何度も言うようだが、石守では気を抜くな。東生は元より、冬樹にも十分注意することだ」
聖は重々しい声で言うと、食事に手を付けた。
「もちろん、そうするつもりですわ。でも、東生さんは卒中で、ほとんど寝たきりだそうじゃないですの?」
華陽は、小馬鹿にしたようにほほ笑みながら、野菜ジュースを飲んだ。
石守家の当主、石守東生は一年ほど前に脳卒中を起こして、半身不随になっていた。
「わしは、冬樹にも気を付けろと言ったはずだが……」
聖は眉間にしわを寄せる。
「冬君は、昌代さんの言いなりよ。この前も六越デパートで一緒に食事をしたけれど、かわいいものだわ。二十歳にもなって、昌代さんにべったりなの。あの歳で、ママって呼んでたわよ? それに伯父さまの可愛い孫でもあるのに、そんなに冬君が怖い?」
華陽はクスクス笑う。
「華陽、口を慎め」
それまで黙って聞いていた司が口を挟む。
「あれは孫でもなんでもない。昌代の馬鹿が、石守の子を産むなどと……正直なところ、あれにはがっかりしている。いや、昌代には、もうずっと前から失望していたのだ。あれには素質がないからな。なんの役にもたたん」
聖は、苦虫を噛みつぶしたように顔を歪めた。
「素質がないのは、誰かと同じだな」
揶揄するように司の視線が秋子に注がれる。秋子は、その視線を特に気にすることもなく黙ったまま受け流した。ここの人たちの会話は、さっぱり分からない。分かりたくもない。
「石守に鈴守がいるかもしれんのだ、用心するに越したことはない」
「はい。鈴守なら、見事に仕留めて差し上げますわ。鈴守など恐るるに足らずですわよ?」
華陽は甲高く笑う。
華陽の妖しいまでに美しい顔を、秋子は、特になんの感情も見えない瞳で見つめる。仕留めるということが具体的に何を指しているのかは分からないが、関わらぬことだ。それだけを何度も心の中で繰り返す。
大抵の場合、秋子は、食べたくもない朝食をさっさと終わらせて、自室へ引っこむことにしている。その日は、自室のドアを開けようとしたところで、後ろから声をかけられた。
「お義母さん、いいことを教えておいてあげましょうか?」
司だった。
「……」
秋子は、口を引き結んで司を見上げる。
「あなたが、この家で無事にいられるのは、あなたが、素質のない、単なる役立たずだからですよ。出てない杭ならば、打たれない」
司は切れ長の涼やかな目を細めて、薄い唇でにやりと笑った。
「……」
今の状態が無事だとは、決して思わない。でも今よりも悪い状況があるの?秋子は、少し戸惑ったように視線を泳がせる。
「それを良く覚えておくといい」
司は、嘲笑うように口を歪めると立ち去った。
* * *
島を出て、船が接岸した所に、赤秀が渋面で待ち構えていた。
「赤秀、まさかおまえが直々にやってくるとは思わなかったな」
青洲は、少し驚いてから、すぐに眉間にしわを寄せた。
「また逃げられたらかなわないからな」
赤秀は唸るように言った。
「もう逃げないさ。覚悟を決めたんだ」
青洲の言葉に、赤秀は、どうだか、と言って肩を竦めた。
「兄貴、この女を本当に連れて行くのか?」
赤秀は、まるで害虫でも見つけたかのように顔を顰めると、いずみを顎で指した。
「いずみの為に帰る気になったんだ。そんなに嫌そうな顔をするなよ」
青洲は小さくため息をついて、そっといずみを抱き寄せた。いずみは、玄武の祠から帰ってすぐ、体調を崩していた。食欲がなくなり、頭痛を訴えた。島の医者は、妊娠中毒症の一歩手前かもしれないと言う。血圧が少し高めだったのだ。まだ調べたいことはたくさんあったが、青洲は覚悟を決めて、吉田に帰ることにした。今は何よりも安全が欲しい。それに、佐川が残って四聖獣の伝承のことは調べてくれると言う。
「いずみちゃん、大丈夫? 苦しくないか?」
青洲は、車の中でも飛行機の中でも、何度も繰り返して訊く。
「大丈夫」
その度に、同じ答えを繰り返すのだけれど、どちらかというとその問いは、いずみの方がしたいくらいだ。
玄武を見てからの青洲の落ち込みようは、見ていてハラハラするほどで、薫を失った当時は、もっとひどく落ち込んでいたのだろうと推測すると、いずみは、なんだか胸の奥が、鉛を詰め込まれてしまった様に重くて痛い。
生まれて初めて乗った飛行機は、飛行感よりもスピード感よりも、閉塞感ばかりが際立ってしまった。