第七話 覆水盆に返らず(4)
今回、中ほどに少々残酷な描写があります。苦手な方は、お気を付けください。<m(__)m>
満潮を見計らって、玄武の岸まで船を出してもらった。いくらなんでも身重のいずみを、早春のこの時期に海に入らせる訳にはいかなかったからだ。
玄武の祠の前で、青洲は茫然と立ちすくんだ。砕かれた玄武の祠には、夥しい数の野いちごの枝が、まるで、中の玄武を逃がすまいとでもしているかのように絡みついていた。
薫は、年の離れた妹で、まだ大学生だった。黒髪のショートボブに、クリクリの漆黒の瞳。男の兄弟に囲まれて育ったせいか、薫はボーイッシュな妹だった。
薫を一番甘やかしていたのは青洲だったと、家族の誰に聞いてもそう言うだろう。実際、この年が離れた妹を、青洲はとても可愛がっていた。小学生の頃には親の代わりに授業参観にも行ったし、高校生の頃に進路に迷っていた時にも相談に乗った。青洲と赤秀は父親似で、白舟と薫は母親似だ。薫といると、よく恋人同士と間違われた。それほど仲が良い兄妹だったのだ。
「……薫……薫……」
青洲は、玄武に絡みついた野いちごの枝を力任せに引き千切っていった。涙が零れ落ちる。
瀕死の状態で倒れていた薫の手首から手の甲にかけて、何か黒いものが伸びていた。禍々(まがまが)しい人工的な模様に驚いて、袖をまくりあげると、それは腕だけでなく背中の方へも広がっていた。それは黒をメインに使って描かれた植物の蔓の入れ墨で、背中一面に、まるで薫を縛めるように彫られていた。背中の中央に、真っ赤な野いちごの実が描かれている。衛生状態の悪い場所で彫られたからか、または極度に衰弱していたからか、薫は敗血症を起こしていた。敗血症による多臓器不全。発見がもう少し早ければ、何とかなったかもしれないと医者は言った。
「青兄、ごめん……お義姉さんを巻き込んじゃった……」
それが薫が最期に残した言葉だった。
――巻き込まれたのは薫だったのに……
絵というものは、かなり個性がでるものだ。当然、青洲は全力を挙げて、薫に入れ墨を施した彫り師を探した。そして彫り師は、すぐに見つかった。公園の……ゴミ箱の中で。
死体は、玄武と同じ状態にされて、別々のゴミ箱から、それぞれの部位が発見されたのだった。
棘で手が切れるのも構わずに、青洲は野いちごの枝を引きちぎり続けた。やがて枝の奥から姿を現した玄武は、手も足も頭もなく、首を引っこめて身を守っているただのカメのようだった。
「青洲さん、手がっ」
血だらけになった青洲の手を見て、いずみが悲鳴を上げる。
特許をめぐる吉田の動きを敏感に察知した志木家は、すぐさま次の手を打ってきた。志木家は、強引なやり方でトーワ株の過半数を取得し経営権を奪取すると、トーワの従業員を盾に、吉田へ強引な結婚話を持ち込んだのだった。放っておくこともできた。しかし、そうしなかったのは、トーワを見捨てた青洲の良心の呵責だったのかもしれない。自分一人が多少我慢すれば、千人もの人が路頭に迷わずに済む。当時結婚に対して、何の願望も拘りもなかった青洲は、大して深く考えもせず、その話をのんだ。しかし、その半端な考えは、やがて恐ろしい結果へと結びついていった。
誘拐事件後、さほど間をおかずに、青洲の妻と薫を拉致した人物が警察に出頭してきた。トーワの元経営者だった。経営権をもぎ取られ、トーワを追い出された恨みの矛先を、何故か彼は吉田に向けた。
『吉田青洲がすべて裏で糸を引いていたんだ。トーワにとって欠かすことのできない特許を二束三文で買いたたいておいて、一方で志木を唆して、トーワを乗っ取らせたんだ。特許を盗られて価値のなくなったトーワを、志木に買い取らせておいて、自分は、のうのうと志木から嫁をとる。次は志木を乗っ取るつもりですよ。吉田は乗っ取り屋だ。あいつらは悪魔なんですよ。悪魔の一人を俺は退治した。退治しただけなんだっ。俺は何も間違ったことなどしちゃいないっ』
トーワの元経営者は、警察で、そうがなりたてたそうだ。
後日、中川が独自に調査した結果、薫の事件の直前、トーワの元経営者と青洲の妻が頻繁に会っていたという報告があった。問いただす青洲に、青洲の妻、華陽は妖艶にほほ笑んで言った。
「あの人が、あんなことするなんて思わなかったわぁ。私、嘘は言ってないわよ? そうじゃないかって言っただけ……薫ちゃんは可哀そうだったわね」
「……」
――悪魔は誰だったのか……
青洲は凍りつく。
結局、悪魔は、自分だったのだ。
――俺が薫を殺した。
「青洲さん、手がっ」
いずみの悲鳴に気づいて、血だらけの掌を握りしめて立ちすくむ。
「青洲さん、手を見せてっ」
いずみは、持参した水筒の水を青洲の手の傷口に注ぐと、ハンカチを巻きつけて縛った。
「いずみちゃん、俺……」
青洲の言葉を遮るように、いずみは青洲を抱きしめた。
「青洲さん、ごめんね。玄武には辛い思い出があったんだね? 私、何も知らなくて、無理を言って……ごめんね、ごめんなさい」
いずみは泣きながら青洲にしがみついた。
「違うんだ。君のせいじゃないんだ。俺こそごめん、取り乱して……」
青洲もいずみを抱きしめ返す。
「いずみさん、水筒の水は、まだ残っていますか?」
それまで沈黙を守って静観していた佐川が口を開いた。
「まだ残っています」
「玄武にもかけてあげてください」
いずみは佐川に頷くと、持参した水筒から、青龍の井戸の水を玄武にかけた。
鈴守の離れに戻ってから、青洲は、五年前の事件を、いずみにぽつりぽつりと語った。
結局、どうしても妻の行動を許せなかった青洲は、地位も家督もすべて捨てて、吉田を出た。そうするより仕方がなかったのだ。単なる憶測や性格の不一致などの理由で離婚を言い出せるほど、吉田と志木の関係は簡単ではなかった。
「この前、君が作ってくれたオレンジデザートはね、薫が得意だったデザートにそっくりなんだ。あいつ、オレンジが大好きでね、それでいつも作っていたんだ。いつもたくさん作るもんだから、いつも冷蔵庫がいっぱいになって……赤秀がいい加減にしろって文句を言って……」
青洲は片手で顔を覆って、言葉を途切れさせた。いずみも一緒に涙を流す。青洲に辛い思いをさせてしまった自分が、哀しかった。
青洲は、ただ守りたかったのだ。家族を家を会社を従業員を……。それがどんどん裏目に出て行った。青洲が守ろうとすればするほど、大事なものが指の隙間から零れ落ちていく。結果がすべてではないと言うけれど、その結果を受け入れられなかったらどうすればいい? 逃げること、それが正しいやり方だったとは思っていない。だけど、鏡に映る自分の顔を、父や赤秀そっくりな自分の顔でさえ、まともに見れないほど、ダメージを受けてしまった青洲には、それよりほかに術がなかったのだ。父も、赤秀だって、自分を責めることなどないと、頭では分かっているのに……
青洲の言葉の一つ一つを、いずみは心に刻みつけた。いずみは思う。どんな状況になっても、自分は、自分だけは青洲の味方で居たいと……。
いずみは、昨夜見た夢を思い出していた。
いつものように悪夢は進行し、いつものように青洲に助けを求めると、いつものように青洲はやってきてくれた。いつもと違っていたのは、青洲が悲しげな顔で、いずみを縊り殺そうとしたことだけだった。




