第七話 覆水盆に返らず(3)
悪夢にうなされて、いずみは目を覚ました。いつものように悲鳴をあげなかったのは、いつもの悪夢と少し違っていたからだ。
隣の青洲は良く眠っている。いつも自分の悪夢に付き合わされているのだ。青洲だって疲れているはずだ。だけど、青洲は一度も文句を言ったことがなかった。いずみは、青洲の頬に軽くキスをする。
手早く身支度をして、メモを残し、鈴守の家を出た。
朝とは言え、まだ早い時間なので、薄闇が支配している。いずみは、すがすがしい早春の朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。植物たちが放つ濃密な気が満ち溢れている。一人ゆっくりと村の中心を目指す。
漁村の朝は早い。既に漁に出ているのか、村の中は人の気配がなかった。
青龍の祠の傍にある湧水井戸からあふれ出ている水を手ですくい、口に含む。水は喉を滑るように落ちて、体の中に入って行く。何度も何度も水をすくっては口に含む。いくらでも飲めるそんな気がした。
井戸の中には、水晶のような水がこんこんと湧いていて、水底で白い石英の砂粒がクルクルと踊っているのが見えた。できることなら、この水の中に飛び込んで、そのまま沈んでしまってもいい、そんな気分にさえなる。そう思うほど、その水は、いずみの体にすんなり染み込んで心地よくさせた。体も心も、澄んだ水に浄化されて一点の曇りもなくなっていく、そんな気分。
「いずみちゃん、そろそろやめておいたら? お腹を壊すよ」
突然、背後から声がした。
「青洲さん……」
振り向いたいずみの髪からポタポタと雫が落ちる。
「言ってくれれば、水くらい汲んでくるのに……」
青洲はそう言って、自分でも水をすくって飲んだ。
「ここで飲みたかったの……それで、ここで飲んだら、どれだけでも飲めるって気になって……」
いずみの言葉に、青洲はクスリと笑った。
「井戸の水を全部飲むつもりなのかと思ったよ」
青洲は首にかけていたタオルで、いずみの顔と髪の雫を拭った。青龍の井戸に行って来るとメモを残しておいたので、タオルを用意して来たらしかった。
「……青洲さん、島を出る前に、どうしても玄武を見たいの。連れて行ってくれる?」
「……昨日みたいなことが起こらないとも限らないのに?」
しばらくの沈黙の後、青洲は小さくため息をついてから言った。
「うん」
いずみは即答する。
「俺はね、君を危険な目に遭わせる為に、この島に連れて来たんじゃないんだよ。むしろ逆だ。危ないかもしれないと分かっているのに、そんな所に連れていけないよ」
またいずみに何かが起こったら、恐ろしいと心底思う。それが自分の理解を越えたものであるのなら尚更だ。
何故こんなに恐ろしいと思うのか。おそらく喪失に対する恐怖なのだと青洲は気づく。
妹の薫が行方不明になったのは、五年前の秋のことだ。当時、青洲の妻だった人と外出していて、誘拐された。
表向きは、身代金目当てだった……ということになっている。指定された場所に金を運んだ時、そこには金を受け取る人物は誰もおらず、薫と青洲の妻だけが、監禁されていた。青洲の妻は一階のソファの上で縛られていて、薫は地下で、瀕死の状態で倒れていた。
当時、吉田グループと提携していた、言わば兄弟企業の一つ、トーワに、赤秀は出向していた。表向きは、出向。実情は、内偵だった。トーワの創業者と当時、吉田グループを率いていた青洲の父とは、友人であり、一時は共同経営者でもあった。それぞれに事業を分けて後も、お互いに協力しながら事業を展開していっていたのだが、それが、トーワの創業者の急逝で、経営がその息子に変わり、方針ががらりと変わった。一言で言えば、素人経営。
誰にそそのかされたのか、青洲の父、龍生の制止も聞かず、株式会社として上場したのだった。上場後、株価はじりじりと値を上げ、数カ月が過ぎた頃、突然高騰した。何かがおかしい。そう察知した龍生の依頼を受けて、赤秀は出向したのだった。
「最近、ずいぶん株が上がっているようだね」
赤秀の言葉に、その企業の経営者は顔をほころばせた。
「おかげさまでね。吉田の首領には、上場を止められたけど、やっぱり上場して正解でしたよ」
赤秀が内部で調べた限り、これと言って新規の事業を展開した様子もなく、これから展開する予定もない。何か需要が見込まれるような事態が起こった訳でも、起こりそうな訳でもない。なのに株価だけが上昇する。何故おかしいと思わないのか。調べて行くうちに、ある一つの企業に辿りついた。それが志木家だった。こちらも吉田と同じように手広く事業を展開している企業だったが、その噂はあまり良くないものばかりだった。『乗っ取り屋』、それがこの業界での志木に対する大方の認識だった。赤秀が調べた段階で、志木家は、既に四十パーセントものトーワの株を保有する大株主となっていた。
「買収だな」
赤秀からの報告を受けて、龍生と青洲は眉間にしわを寄せる。
「買収の目的は、あれかもしれない……」
龍生は呻いた。トーワの創業者と共同経営者であった時代に、様々な特許を取得していた。事業を分けて立ち上げた時に、それぞれ特許も分けたが、その中で、一つお互いの事業にとって重要なものがあった。しかし、それは、そもそもトーワの創業者がメインで考案したものだったので、最終的にはトーワが保有することになった。今のままのトーワであるならば、なんの問題もないはずなのだが、別の企業、特に志木家に渡るとなると話は別だ。吉田の事業にも支障がでる。
「トーワの坊ちゃんは、このことは知っているようだったか?」
当時、キレ者として、既に父に代わって吉田グループを引っ張っていた青洲は、難しい顔で赤秀に訊いた。
「いや、恐らく知らないだろう。株価上昇を単純に喜んでいたようだったから」
赤秀は眉間にしわを寄せた。
「そうか。では、話をしよう。設定してくれるか?」
トーワとの会議の場で、青洲は、いきなりこう切り出した。
「実は、今日相談したいことと言うのはほかでもない、トーワが持っているある特許を買い取りたいんだ」
トーワの経営者は瞠目する。青洲が言い出した特許は、かなり古いもので、正直言って自分がよく知らない父の時代のものだ。
「何故、今頃、そんなものを?」
「吉田の父の感傷みたいなものかな。最近年をとったせいか、昔を懐かしむことばかり言い出すようになってね。亡くなった君のお父上と共同経営していた頃が懐かしいらしい。この特許は二人で案を出し合ったものらしいんだ。吉田では今でも時々使うことがあるからね。もし、トーワで売ってくれるなら、言い値で買う用意があるんだが……」
トーワの若き経営者は、一瞬瞠目してから、ちょっと待ってくれと言って席を立った。しばらくして彼はホクホクした顔で戻ってきて、しかし、ワザとらしく顔を顰めて言った。
「その特許なら、かなり値が張りますよ? 言い値なんて言って大丈夫ですか?」
そう言って、狡猾な笑みを浮かべる。
「いくらなら売る?」
「一億……と言ったらどうします?」
「では、今この場で売買契約をするなら、その倍、二億出そう」
契約はあっけなく決まった。
もし、あの時、そんな大事な特許を売る訳にはいかないと、経営者もしくは経営陣の誰かがそう言い出せば、青洲は買収の危険性を指摘するつもりでいた。金に目がくらんだ時点で、青洲はトーワを見捨てたのだ。
辛辣だったのは、赤秀ではない、むしろ青洲の方だった。その時の青洲の行動が、回り回って薫の命を奪うことになったらしいと判明した時、青洲にできたことは逃げること、それだけだった。
もう二度と、あの頃の自分には戻りたくない。そう思う。
「青洲さん?」
難しい顔をしたまま考え込む青洲を、いずみは怪訝そうに見上げる。
「青洲さん、もし、青洲さんが連れて行ってくれないのなら、私、一人でも行くよ。行かなきゃいけない、そんな気がするの」
黙り込む青洲に、いずみはきっぱりと宣言する。
「駄目だ」
「……ごめん、青洲さん。もう行くって決めちゃった」
こんなに頑固で強情で毅然としたいずみを、今までに見ていなかった青洲はたじろぐ。
その時、ふいに後ろから声がした。
「行った方がいいですよ」
青洲といずみが驚いて振り返ると、そこには佐川が立っていた。
「吉田さん、あなたも見ておいた方がいい。僕はそう思います」
「どうして……」
青洲はゴクリと唾を飲み込んだ。
「行けば分かりますよ。心配なら、僕もご一緒しましょうか?」
佐川は、いつになく神妙な様子で言った。




