第七話 覆水盆に返らず(1)
二年前、都内、志木家
一軒の古めかしい洋館を、夕刻の弱い光が包み込む。最後の力を振り絞るように、懸命に光を放っていた太陽が、今、沈む。
光と闇はせめぎ合い、やがて闇が鬨の声をあげる。静かに、ゆっくりと闇に呑み込まれていく洋館に背を向けて、光は名残惜しげに消えて行った。
薄闇に閉ざされていく洋館の一室に、苦しげな女のうめき声が響く。
「うう……う……お願い、やめて……もう嫌!」
秋子は、ベッドに押さえつけられたまま首を激しく横に振る。
「お義母さん、あなた、少しは抵抗するとか、反撃するとか、できないんですか? いつも泣いてばかりで……」
司は、秋子の潤んだ黒目がちな瞳を覗きこんでせせら笑う。
――悪魔! 抵抗すればひどく殴るくせに!
秋子は心の中で叫ぶ。
しかも、この力の差で、反撃などできようはずもなく、秋子にできることはただ、泣きながら、止めて欲しいと懇願することだけだ。
「親父の時も、こうやって泣くんですか?」
司は、秋子の顎を掴むと、懸命に逸らそうとしている視線を捉える。
「……がっかりだな。どんな力を持っているのかと、実は楽しみにしていたんですよ。名和家の最後の生き残りが、こんな腑抜けじゃあ、ご先祖たちも、さぞかし、あの世で歯噛みしていることでしょうねぇ」
司は、形の良い眉を寄せて顔を顰めると、鋭い目を細めて、艶やかに笑った。
「反撃してみせてくださいよ、お義母さん」
司は、耳元で囁くと秋子に覆いかぶさった。
昼間は、通いの家政婦や使用人が出入りをして賑やかだが、夜になると数人の住み込みの使用人だけになって、志木家は静けさを取り戻す。
キッチンに飲み物を物色しに来た司は、居間でお茶を飲んでいる華陽に気がついた。
「華陽、来ていたのか」
「お久しぶりね、司さん。元気にしていた?」
華陽の実家は地方都市にある。地方嫌いな華陽は、高校を卒業するなり、さっさと実家がある街を離れて、都内の大学に入学した。その頃から、司の実家に入り浸っていた。結婚もしたが、一年と保たずに離婚し、再び舞い戻って来ていた。司の父親とやけにうまが合うらしく、嫁に行った実の姉よりも、華陽は父に可愛がられていた。
「石守に行くんだって?」
明日から華陽は、石守家へ家政婦として入る予定になっている。司の父からの依頼だ。父親の石守家への干渉は尋常ではない。最近の父は執念の塊だ。恐らく孫でさえ粛清の対象からまぬがれることはできないだろう。そんな父親に、司でさえ時々背筋が寒くなる。
「ええ、そうよ。お姉さんに何か伝えることがある?」
石守家には、司の姉の昌代が嫁いでいる。
「いや、別に……で? 今回の目的は何?」
司は冷蔵庫から缶ビールをとりだして、プルタブをプシュっとあけた。
「伯父さまが、随分前から探していらした、鈴守の関係者がいるらしいのよ」
華陽は、優雅な手つきで紅茶を啜った。
「へぇ鈴守か! しかし、石守家に鈴守の人間が? 少しできすぎじゃないか?」
司は身を乗り出した。
「それを確認しに行くのよ。もしかしたら違うのかもしれないわ。厳密には『鈴守』ではなくて『鈴森』と名乗っているらしいから。でも、昌代さんがひどく怯えているらしいの」
華陽は眉間にしわを寄せた。
「姉さんは臆病だからな」
司は小馬鹿にしたように笑うと、ビールをぐっとあおった。
「で? 男? 女? 名前は?」
「鈴森いずみ、女の子よ。気になる?」
「鈴守の女か……気になるね」
司はニヤリと笑って、続ける。
「鈴守だったらどうするつもりだ?」
「もちろん、穏便に消えてもらうわ」
華陽は妖艶にほほ笑んだ。
「華陽が言うと、穏便の意味が百八十度違って聞こえるな」
司は、眉を下げる。
「……なぁ、もし、鈴守だったら、一度ここに連れて来ないか? どんなやつか見てみたい」
――どんな声なのか聞いてみたい。
華陽は、くつくつと笑う。
「あら、もう秋子さんに飽きたの? 随分御執心のようだけど……部屋の外まで声が聞こえていたわよ?」
「別に、執心なんてしてないさ。子どもを作る以外は、好きなようにしていいって、親父に言われてるから、好きなようにしてるだけだ。大体、自分より年下の女をお義母さんだなんて呼ばされる身にもなってみろよ。ちょっとくらい虐めたくなるのも、無理ないだろ?」
司はビールを飲み干した。
「ねぇ、窮鼠猫を噛むって言葉を知ってる?」
少し用心したように、華陽が声を潜める。
「俺はそれを期待してるんだよ。追い詰めれば、何かやらかしてくれるんじゃないかって」
司はニヤリと笑う。
「痛い目に遭っても知らないわよ?」
「俺が?」
司は面白そうに笑った。
秋子が志木の家に嫁に来て二週間が経っていた。
秋子が美術大学を卒業目前にしていた頃、養父が先物取引に手を出して、失敗した。代々引き継いできた工場を手放さなければならなくなった時に、融資を申し出てくれたのが志木家だった。融資の条件はただ一つ、秋子が志木家の嫁になることだった。当時、秋子には将来を約束した人がいたのだが、従業員を路頭に迷わせるわけにはいかないと、養父母に涙ながらに土下座までされて、泣く泣く諦めたのだった。
嫁と言っても、相手は七十歳を越えた老人だ。しかも、その息子になる人でさえ、秋子よりも十歳近く年上というありさまだった。息子には、きちんと正妻がいたが、実家に帰っていて、秋子は一度も顔を合わせたことがない。
しかし、この家に来てすぐに、ここから逃げ出す人の方がまともなのだということを、秋子は思い知らされた。
はぎとられて、無残に散らされた衣服を掻き抱きながら、秋子は声を殺して泣く。
――どうして? どうしてこんなことになったんだろう。この家の人たちは、みんな狂ってる……
* * *
臨 兵 闘 者……
さっきから、いずみは佐川から何やら怪しげな呪文を習っている。九字護身法とかいう呪文で、九つの文字(臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前)の呪文を唱えながら手印を結ぶことによって、悪鬼怨霊を遠ざけ災いから身を守ると信じられてきた密教や修験道の術だそうで、それぞれの文字にそれぞれの手印があるのだそうだ。
「臨、と唱えて、金剛鈷印を組みます」
佐川は、忍者が術を使う時みたいに、人差し指だけを立てたまま指を組み合わせる。
「次に、兵、と唱えて、大金剛輪印を組みます」
佐川は、左右の手を組み、人差し指を立てて、中指をからませた。
「ん? んん? こうかな?」
「ええ、それでいいですよ。次に……」
青洲は、胡散臭げにそれを眺める。
佐川は、修験道を極めることが子どもの頃からの夢だったのだそうで、その夢は、両親にメチャメチャ反対されて、一応市役所に就職したものの、機会があれば山にこもって修業したいと考えているのだとか。変わっているやつだとは思っていたが……青洲はため息をつく。
「ああ、それではダメです。この指はこう……」
佐川は、「者」の内獅子印がなかなか組めないいずみの背後に回り、指を一つずつ組ませていく。
青洲は、少し不愉快な気分で二人を見つめた。傍から見ると、佐川が背後からいずみを抱きしめているように見える。
「いずみちゃん、もうそろそろ部屋に戻ろう。今日は疲れているはずだろ?」
佐川は、今夜から鈴守に宿泊することになっている。明日からは神社の古文書の解読を手伝ってくれることになっているのだから、何も今そんなに急いで、そんなもの習う必要はないのだ。しかも、そんな呪文、効くかどうかも分からないのだし……そもそも、そんなもので追い払える霊だか魔だかも存在するかどうかさえ、分からないのだし……青洲は眉間にしわを寄せる。
「え~、でももう少しだから……」
しかし、いずみは、やけに熱中しているようで、子どもが駄々をこねるように上目づかいで青洲を見上げる。青洲は子どもを叱るようにいずみを睨みつけた。
「いえ、いずみさん、吉田さんの言うとおりですよ。あなたは疲れている。今夜はこれくらいにしましょう」
佐川がいずみから体を離す。
「でも……」
「代わりに、退魔の早九字をお教えしておきましょう」
佐川はそう言いながら、人差し指と中指を伸ばし、他の指を丸めて手剣をつくり、同じ呪文を唱えながら、素早く空中を横縦横と切っていく。
「碁盤の目を書いていく要領で切ってください。本来なら修業を積んでようやく会得できる術ですが、こけおどしには使えるかもしれません。何より、相手の気にのまれないという気力が大事なのです。分かりますか?」
佐川の言葉に、いずみは神妙に頷いた。
そんな簡単なやり方があるのなら、最初からそっちを教えればいいのにと青洲は渋面でブツブツ文句を言う。
「青洲さん、青洲さんにもあの女の人が見えた?」
布団の中で身を寄せながら、いずみが小さく問いかける。
「……良く分からなかった。あれは、女の人だったの?」
湯上りの清々しくて甘い匂いが、いずみの髪や肌から立ち上る。青洲は、少し落ち着かない気持ちで、息を吸い込んだ。
「実は、私も良く分からなかったんだけど、あの人は、もしかしたら、どこかで殺された人なんじゃないかと……」
いずみの言葉に、青洲の背筋が冷たくなる。風に溶けるように聞こえたあの言葉、
――私と一緒に……死んでよぉ
「……いずみちゃんは、ああいう気配を良く感じる人なの? 所謂、霊感があるとか、世の中でよく言う……」
鈴守の血筋とは、そういうことなのかもしれないと思いつつ、青洲は躊躇いながら口にする。
「ううん、あんなの見たのは初めて……でも、この島に来てから、少しね……なんだか良く分からない気配を感じることがあるの。ここの島の人たちは、とっても陽気で親切で、大好きなんだけど……私は、この島が怖い……」
いずみは少し震える声で言った。
「明日から、佐川が古文書を解読してくれるから、それが終わったら、すぐに島を出よう」
鈴守の血筋が、島の何かと反応してしまうのかもしれないと青洲は推測する。それは、島を出てみればはっきりするだろうとも思う。
「うん」
小さく肯くいずみの髪をゆっくりと梳く。軽く口づけると、口づけを返してくれる。何度も口づけを繰り返し、だんだん深くなり……
青洲の脳裏に、さっきの佐川といずみの姿が掠める。
――あれじゃ、いずみを抱きしめているみたいだ。
気づくと、青洲はいずみの肌に手を滑らせていた。夜着をめくり上げて、豊かになってきた胸に柔らかく触れ、果実を食むように唇を這わす。
――いずみは、佐川との距離に、気づいていたのか、いないのか……。
首筋に口づけを落とし、体中に紅い印を付けていく。いずみが青洲を呼ぶ切なげな声が聞こえるが、青洲には、それさえも甘い誘いに聞こえてしまう。
――止められない……
心の中で、自制心と欲望がせめぎ合う。ところが凶暴なまでの独占欲が、萎えていく自制心に、更に追い打ちを掛けるように、鎌首をもたげた。
――ほかの誰かに触らせるなんて……嫌だ……
青洲は、いずみの脚を膝で割り、すらりと伸びた脚にもあざを作る。
――欲しい……
まるで欲しいものをねだって駄々をこねる子どものように、自分を押えることができない。
――どうしたんだろう? 俺……
心の中で自問する。でも……
――欲しい……
痛みにも似た、狂おしいほどの、激しい飢餓感。
――安定期に入っていれば、少しくらい大丈夫だって、本に……いや、駄目だ。少しくらいなんて加減ができないかもしれない……でも……
まるで思春期の少年のように欲望が暴走する。
丸みを帯びてきたお腹にもあざを付けようと口づけた時、いきなり、お腹の内側から幽かに蹴られて、青洲はふと我に返った。
「あ……」
――俺、どうしてこんなに……
青洲は、暴走して押えられなかった自分に呆然とする。ふと、視線を下ろすと、潤んだ瞳のいずみと目があった。
「……ごめん、俺、どうかしてた……」
呆然としたまま謝る。
「私こそ、ごめんなさい……私は青洲さんに抱いて欲しいのに、マメ太は嫌みたいで……」
青洲は、いずみの邪気のない言葉に、ポカンとした後、吹きだした。
いずみはお腹の中の胎児に名前を付けているのだ。男の子か女の子か分かりもしないのに、マメ太以外に思いつかないと言って……。