第一話 黄泉路(たび)は道連れ(1)
『いずみ、逝こう。ずっと……ずっと、この日を待ってたんだ』
その声は、小さい男の子の声で、頭の中の左片隅から響いてくるように聞こえた。
『いずみ、一緒に逝きましょうね。怖くなんてないわ……私たちが一緒なんだもの』
その声は、小さい女の子の声で、頭の右片隅から歌うように響いてきた。
「誰?」
いずみは、小さな声のする方を見ようと必死で首を回そうとするが、金縛りに遭っているかのように体は重く動かず、瞼さえ重くて持ち上げられない。
『いずみ、早く僕たちをあちら側に連れて行ってよ。僕たち、みんな、いずみを待っていたんだ……いずみには、その義務があるんだって、お兄ちゃんとお姉ちゃんがそう言うんだ……』
もう一人の男の子の声がしたかと思うと、体中に冷水を浴びたように悪寒が走る。肩に首に足に腕に、無数の白い手が絡みつく。
「あぁぁぁ……」
いずみは恐怖と苦痛に顔をゆがめた。
しかし、次の瞬間、突然体がフワリと軽くなり、楽になり、自由が利くようになっているのに気がついた。辺りを見回す。フワリと浮かんだ体の下に、ベッドに横たえられた自分の姿があった。腕に突き刺さる点滴の針、口と鼻を覆う酸素マスク。その顔は土気色で、閉じた瞼が苦渋に歪んでいる。
「私、死んだ……の?」
呆然と呟く。
『死にかけているんだ、もうすぐ死ぬよ?』
最初に聞いた男の子の声だった。
黒い髪に昏い瞳の小さな男の子。彼の体は白い光に縁どられていて、どこか曖昧な姿をしていた。
『いずみは、大人でしょ? 私たちを連れて逝く義務があるのよ』
やはり曖昧な姿をした小さな女の子が、口角をあげて、昏い瞳で微笑んだ。その瞳は、まるで木の洞のように暗く、瞳を見つめると言うよりも、闇を覗き込んでいるようだ。
『ねぇ、早く逝こうよぅ……僕、もう待ちくたびれちゃったんだ』
もう一人の男の子が、駄々を捏ねるような口調で話しかける。
その小さな二人の男の子と女の子は、どことなくいずみの小さい頃に似ているような気がした。
「あなたたち誰なの?」
本当ならば、怖くて口もきけない状況なのかもしれなかったが、彼らが、どことなく自分に似ていることが、いずみに勇気を与えた。
『僕は君の兄だよ、この子は姉、そしてもう一人の兄』
「え? 私、兄姉なんていないよ?」
いずみの言葉に、三人が表情を硬くしたのが分かった。瞳の暗さも増したようだ。
『なんで……なんで、あんただけ、生まれたの?』
『僕らは生まれることさえできなかったのに……なんでお前だけ……』
『ずるいぞー、お前だけ、母さんに面倒みてもらえてさー』
「もしかして……水子?」
いずみの家は貧しくて、いずみ一人でさえ育てるのに金がかかると、母親がしょっちゅう零していたのをいずみは知っていた。
『そんな呼び方をするな! 僕らはそんなものじゃない!』
いずみは体中に痺れるような痛みを感じた。
「いった……ちょっとー、酷いことしないでよー。それが死にかけてる妹にすること?」
いずみはふくれっ面で抗議する。
『僕らは生きることもできなかったんだ、少し口を慎め』
「悪かったわよ、んじゃ、なんて呼べばいいの? 一番最初に……発生した人は?」
――生まれた人、なんて言ったら、また怒られそうだ。
一番怒っていた男の子が手を上げた。
「二番目は?」
女の子が手を上げる。
「じゃあ、あなたが、お兄ちゃんで、あなたがお姉ちゃんで、あなたはチイ兄ちゃんね?」
いずみがそう言った時の、彼らの表情を、いずみは一生忘れないと思う。昏い瞳が黒い瞳に変わったのだ。彼らを取り巻いていた暗く冷たく凍えていた空気が、少し緩んだのも感じた。
「お兄ちゃんたちも、お姉ちゃんも……そんなにこの世に生まれたかったの? この世に生まれたって、いいことなんて、なーんにもないのに?」
いずみは不思議に思ったことを、ついポロリと口にする。
『……この世に生れたこと自体がいいことなんじゃないのか? そうだな、生まれた後のことは……あまり考えたことがなかった』
お兄ちゃんが、虚を突かれた様子で呟いた。
「母さんなんて、いっつも私が生まれたことを愚痴ってたよ。産むつもりなかったんだって。気づいたら堕ろせない時期になっちゃってたんだって。ふつー、そんなこと本人に言う?」
『父さんは?』
「いずみが小学生の頃に死んだんだよ。病気がちな人だったんだよ……そう言えば、なんで父さんが死んだ時について行かなかったの?」
『……母さんを待ちたかったんだ』
「あぁ、あの人は、長生きしそうだよね。もう待たないの? 待たなくていいの?」
母親は、いずみが中学を卒業すると、いずみに住み込みの家政婦の仕事を探してきた。義務教育が終わったら、とっととトンズラさ、などといつも言ってはいたが、本当にそうするなんて思っていなかった。今頃、どこかの男の家に転がり込んでいるのか、水商売の世界に身を沈めているのか、連絡もとれないまま、ほぼ三年が経ってしまっていた。
ベッドに横たわる自分の姿をちら見する。若いころの母親に似てきたかもしれない。少し癖のある柔らかい栗毛、すっきりと通った鼻筋に、ふっくりした唇。小さい頃から、この子は母親に似て、男好きのする顔になるだろうよと大人達からよく言われた。小さい頃は、それが褒められているんだと思っていた。
――とんでもない誤解……。
「お兄ちゃん達とお姉ちゃんがいたなんて知らなかったな。死んでみるのもいいもんだね?」
いずみは、にっこり笑って三人を見つめた。
『……』
三人は遠い目をしていずみを見つめ返す。
「んじゃ、あの世へレッツゴーだね? でもさ、ずっと待ってたってことは、大人が同伴してないとあっちに行けないとか、そーいうルールでもあるの? いずみ、まだ二十歳になってないんだけど……大丈夫かなぁ。あー、もしかしてお金がいるとか? お財布がバッグの中にあるんだよ。とってきた方がいい?」
いずみが再び振り返って自分の姿を見た時、お腹の辺りが、うっすらと光っているのに気がついた。三人ともそれに気づいたらしい。
『いずみ、あれはなんなの?』
お姉ちゃんが厳しい声で問い詰めた。
「光ってる……よね?」
――なんなんだ? あれ。
『お腹に子供がいるのか?』
お兄ちゃんは、呆然とした顔で言った。
「ああ、そうだ、赤ちゃんがいるんだった。今、いずみが死んじゃうとあの子も死ぬかな?」
『どうかなぁ?』
チイ兄ちゃんがクエスチョンマークをつけた頭を傾げた。
『馬鹿か? お前らは……』
お兄ちゃんは呆れて溜息をつき、お姉ちゃんは首を振りながら溜息をついた。
『父親は誰なの?』
「ああ、奉公先のおぼっちゃま。去年、留学先から帰ってきたんだけど、目をつけられちゃってね。でも、お腹に赤ちゃんがいるって分かったら、奥さまカンカンで、追い出されちゃったのよ。現在失業中」
『親がなんて言おうが、愛があれば関係ないじゃない!』
「もう、お姉ちゃんたら、世間知らずのお嬢様なんだからー。子供ができることって、愛がなくてもできるのよ?」
『世間なんて知る訳ないじゃないっ、生まれてさえないのよっ』
お姉ちゃんがマジギレしたようなので、一応項垂れる。
『い~ず~み~、お兄ちゃんはそんな子に育てた覚えはない~』
「いずみは……お兄ちゃんに育てられた覚えがないよ。いずみが奉公先を追い出された時、おぼっちゃまが、何て言ったか知ってる?」
『赤ん坊だけは産んでくれ……とか?』
「ぶふっ、やっぱり、お兄ちゃんも世間知らずのお坊ちゃまじゃーん」
いずみが笑い転げると、三人は揃って嫌そうな顔をして、背中を丸めて顔を突き合わせると、なにやらヒソヒソ話し始めた。
「あー、行けないんだ~。ヒソヒソ話はしちゃいけませんって、幼稚園で教わるんだよ?」
『生憎、俺たちは幼稚園にさえ言ってないからな』
再びお兄ちゃんの逆鱗に触れたと気付き、いずみは首を竦めた。
『で? 何て言ったのよ』
お姉ちゃんが冷たい瞳で言った。
「僕のママを苛めるな! だってさ、怒る気力も起きなかったよ。あんなマザコン男、こっちから願い下げ~」
三人は口をポカンと開けて絶句した。
『……後学の為に訊いておきたいのだが、そんな男とどうして子供ができるような行為をするんだ?』
お兄ちゃんが顔を顰めて問う。
「だって……ロイ・トントンのミニボストンをくれたから……」
『で?』
「で? って……ロイ・トントンだよ? いくらすると思ってるの?」
『まさか、それをもらう代わりにそんな行為を?』
「いやいや、いくら私でもそんな簡単にそんなことするわけないでしょ? ちゃんと最初はいただけませんって断ったよ? でも、もらってくれないなら捨てるって、私に上げるために買ったんだからって……少しグラッてくるじゃない? それに、捨てるのなんてもったいないじゃん。ロイ・トントンだよ? それで、もらっちゃったんだけど、その日の夜に、話があるからって、部屋に来たのよ~。やっぱ、もらっちゃったからには、入るなとは言えなくてね。そうしたら、そうなっちゃって……」
『たった一度で妊娠しちゃったの?』
「その後、何回か……だってね、ロイ・トントンの財布にパスケースに、あとね、花束をくれたこともあるんだよ?」
『おもいっきし、下心の塊じゃないか』
お兄ちゃんは大きな溜息をついた。
「それにね……その最中だけは、いずみのこと、ギュッて抱きしめてくれて、かわいいとか、愛してるとか言ってくれるんだよ……」
三人は、黙りこんだ。
「そだ、あの子も死ぬまで待ってようか? いくら父親がマザコンぼっちゃまだからって、この子まで嫌いになることないもんね? 一人取り残されて、あっちに逝けないんじゃ、可哀そうだし……」
いずみの言葉に、三人とも難しい顔になって黙り込む。
『ねぇ、いずみ、今の話が本当なら、あそこでザバザバ泣いてるおじさんは誰なのよ?』
お姉ちゃんが指さした方を見ると、四十代半ば程の、古ぼけた作業服を着たむさ苦しいおじさんが泣いていた。
「ああ、あれね、いずみを拾ってくれたおじさん。奉公先を追い出された後、色々事故が重なっちゃってね……もうどうでもいいやって道端に蹲ってたら、おいでって、声をかけてくれたの」
『……いい人じゃない』
「でも、おじさんち、すっごい貧乏なんだよ」
古ぼけた六畳の部屋には万年床、あちこちに本や雑誌が散乱し、隅には更にたくさんの本が積み上げられていた。台所は一応付いていたが、いつ使ったのか、白っぽいステンレスのシンクは乾ききっていた。小さな四角いガスコンロは一つっきりで、使われている気配はないのに油っぽい汚れがこびり付いている。そして、トイレ……今の日本で水洗じゃないトイレがあるなんて、いずみは知らなかった。ぽっかりと口を開けたぼっとん式のトイレの穴は、地獄に続いているようで不気味だ。
『貧乏なんて関係ないじゃない?』
「関係なくないよ、いずみがいるだけで迷惑かかるでしょ? お兄ちゃん達もお姉ちゃんも全然気にならないと思うけど、生きてるとお腹はすくし、現に、こうして病院に行けばお金がかかるんだよ?」
三人は初めて気づいたように、はっとした顔をした。
『この部屋は、どのくらいお金がかかるんだろう』
お兄ちゃんが心配そうに言った。
いずみは、言われて病室を見回す。ベッドは二つきり、でも入口側のベッドは空なので、実質一人部屋状態だ。洗面所も付いている。差額をとられるのは確実なようだ。
「やだ、おじさんの部屋よりもキレイだよ。一体いくらかかるのか、いずみ分かんない」
いずみは急に不安になったようで、自分より遥かに小さくて頼りなげに見える兄の腕につかまった。
その時、突然病室のドアがノックされて、銀色の四角ばったフレームの眼鏡をかけた年配の女の人が入ってきた。
「吉田さん、ですね?」
女の人は、おじさんを見下ろしてそう言った。おじさんは、泣いて真っ赤になった鼻をぐすぐす言わせながら立ち上がり、女の人に向かい合う。
「奥様が大変な時に申し訳ないのですが……」
その女の人は、全然申し訳なさそうには見えない不躾な様子で、おじさんの頭からつま先までを見つめて、少し顔を顰めてから続けた。
「入院費の前金を払っていただきたいのです。明日までで結構ですが……」
そう言って、女の人は請求書らしい紙をおじさんに渡した。そして、心配そうな顔で続けた。
「この部屋は、差額が発生するのですが大丈夫ですか?」
おじさんは前金の請求書の額に目を見張っていた。自分が住んでいる市営のぼろアパートの五カ月分だ。
「あ、何とかします。この部屋しか空いてないって言われてますし、いずみちゃんが助かるなら、これくらいなんでもないですから……」
おじさんは、その時はそう言ったけど、女の人が出て行ってから、深い深い溜息をついた。
「ねぇ、私、さっさと死ななくちゃ。おじさん絶対払えないって。奥様なんかじゃないのに……なんで違うって言わないのかしら?」
いずみはオロオロして言った。
『いずみちゃんが助かるなら、これくらいなんでもない、ですって……』
お姉ちゃんが、うっとりと言った。
「おねーちゃん……おねーちゃんも、絶対悪い男に引っかかるタイプだと思うよ?」
いずみは溜息をつく。
『あんたは物につられただけでしょ? 一緒にして欲しくないわ』
にらみ合うお姉ちゃんといずみを、呆れて見ていた兄二人は、おじさんがいきなりフラフラとドアの外に出て行ったのに気がついた。
『おじさんがどこかに行くぞ?』
『ついて行ってみようぜ』