第六話 能ある鷹の爪を隠せ(3)
いずみが、朱雀を見て来た日の翌日、青洲は鳴春の軽自動車を借りて、海岸通りを西に向かって走っていた。
昨日、みんなで大騒ぎしてカレーを作っていると、何故か島内放送が流れた。
「今から鎮守様の所で、青洲さんがカレーば作るけん、食べたか人は集まってくれんね」
颯の声だった。青洲は、ずるっと沈みそうになる。
――なんで、カレーを作るくらいで、島内放送をする?
放送からしばらくして、どっと島民が集まり始めた。
やれ、カレーには、こいば入れろ、とか、あいは入るるなとか、こいば使えとか、こいも食べろとか、騒々しいことこの上ない。青洲は玉ねぎを大量に刻みながら、涙を誤魔化す。
――どうしてこうなるんだ?
そのうち、青洲では手際が悪すぎると、島のおばちゃんたちに厨房から追い出された。仕方なく、いずみの所へ戻ると、いずみは子どもたちと、四聖獣の話題で盛り上がっていた。
「へぇー、ちゃんと島の東西南北に祠があるんだねー」
子どもたちは、島に伝わる伝承をいずみにも聞かせたらしい。いずみは、白虎も、壊されてしまった玄武も見たいと目を輝かせた。青洲には、あまりピンとこないのだが、いずみに言わせると、実際に見たのは青龍と朱雀だけだけど、とても素晴らしい出来の石像なのだという。まるで、石の中で眠っていた四聖獣そのものを、彫り出したかのようだと言うのだ。四聖獣の鼓動まで伝わってくるようだと。
「全部見てみた―い」
日頃、自分から何かしたがることなど滅多になかったいずみが、珍しく主張するので、青洲は連れて行ってやると約束をしたのだった。いい加減、難解な古文書を読むのにもあきてきていたので、次の日さっそく出かけることにした。
晴れた日の海岸通りは、実に気持ちの良い道だ。堤防越しに見える海は、凪いでいるが、ほどよく海風が吹いていて心地よい。既に春の気配が濃密で、いずみは車の窓を全開にして景色を眺めている。
「いずみちゃん、寒くないか? 体を冷やしちゃ駄目だよ」
さっきいずみの膝の上に掛けた膝かけが、風にヒラヒラしているのを見ながら、何故だか、青洲は落ち着かない気分になっていた。
「全然寒くないよ。きれいな所なのねぇ」
いずみは嬉しそうに青洲を見つめる。時折、松林が途切れて、透き通った青い海が現れる。
――リーン
鈴の音がしたような気がして、いずみは後ろを振り返った。緩やかなカーブの道だ。海側でない方は、小高い山が海際まで張り出している。鈴の音は、山側から聞こえたような気がした。でも、鈴の音を出すようなものは何もない。気のせいかと、いずみは前を向く。
――チリーン
鈴の音は、更に大きく耳に響いた。しかし、振り向いて見ても何もない。確かに何かがいるのに、視線を向けると気配が消える。
「いずみちゃん、どうした? 何か気になるものでもあったかい?」
何度も振り向くいずみに、青洲が問いかける。
「ねぇ、鈴の音がするよね?」
「鈴の音?」
青洲は、怪訝そうに問い返す。
「ほら、また!」
いずみは、怯えたように青洲に身を寄せる。
「鈴の音なんてしないよ。波の音じゃないのか?」
「青洲さんには、聞こえないの? こんなに……こんなに……」
いずみがひどく怯えるので、青洲は車を止めた。ハザードランプをつけて、車から降りて確認しようとすると、いずみが悲鳴をあげた。
「ダメっ、青洲さん。降りちゃダメ。早く車を出してぇっ」
いずみはパニックに陥っているようで、助手席からハンドルに手を伸ばす。いずみの手が触れて、クラクションが鳴り響き、辺りの空気に亀裂が入る。
「いずみちゃん?」
驚いた青洲は、いずみの手をハンドルから引き剥がすと車を発進させた。
「いずみちゃん、何があったんだい?」
青洲が何度訊いても、いずみは真っ青になって震えるばかりで、何も答えられない様子だ。
「いずみちゃん、引き返した方がいいんじゃ……」
青洲の言葉に、いずみは痙攣を起こしたように体を震わせて、首を振った。とにかく、前に進むしかないらしい。
電波の事情で、島ではケータイが使えない。でも、確か白虎の祠の近くに公衆電話があったはずだ。青洲はふと思いつく。鳴春か朱音ばあちゃんに訊けば、何か良いアドバイスをもらえるかもしれない。
青洲には、いつもさっぱり分からなかったのだが、子どもの頃、時々鳴春が、今のいずみのように何かの気配に怯えることがあった。鈴守の家の子どもは、よくそうなるのらしい。しかし、そんなことを迂闊に聞けば、いずみの素性が知られないとも限らない。どうするか、青洲は考え込む。
――鳴春が、そうなった時には、どうしてたっけ?ああ、そうだ……。
そんな時には、決まって同級生だった美南を呼びに行っていたのだ。美南が鳴春の背中に思いっきり手刀を叩きつけると、ピタリと鳴春は元通りになった。――他の誰かがそれを真似ても、全然ダメだったのに……
石守美南……気の強い女ボスで、男子からも一目置かれていた。本土に嫁に行ったと聞いていたが、三年前、事故で亡くなった。
――水面下で、何かが起こっている。
そう思うのだが、それが何なのか、青洲には皆目見当がつかないのだった。
白虎の祠の前で、青洲は途方に暮れていた。
辺り一面に、野いちごが、まるで血の海のように撒き散らされている。しかも、お座りをした形の白虎の両耳が、無残にも粉々に打ち砕かれていた。その砕かれて落とされた両耳の跡にも、真っ赤な野いちごが塗りつけられている。
「なんてことだ……」
少し落ち着いてきたらしいいずみが、背後で車のドアを開ける気配がする。
「いずみちゃん、乗っていなさい。君は見ない方が良いよ」
「何があったの?」
ひどく震える声で問いながら、それでも青洲の制止には従わずに、近づいて来る。
「見ない方がいいって……」
青洲は急に不安になって、近づいて来るいずみを車へ押し戻した。玄武が、こんな目にあわされた時、鳴春の子どもの大河が亡くなっているのだ。
「ひどいっ……」
振り返って白虎を見たいずみが、絶句する。いずみは、青洲を振り切って、白虎に駆け寄った。
「なんて、ひどい……耳が……耳が……」
いずみは、うわごとのように呟きながら、砕かれた耳の欠片をかき集める。
「いずみ、やめなさいっ、触るな!」
青洲が叫んだ瞬間、突然いずみが、ぐらりと崩れ落ちた。
「いずみっ」
慌てて青洲はいずみを抱き起す。撒き散らされていた野いちごが、いずみの髪や顔や服に絡みつき、染みを作る。それが、まるで血に染まったようで、青洲の動揺を更に大きくした。
「いずみ、しっかりしなさい。いずみっ」
いずみは、真っ青な顔で、見開いた瞳は焦点を結んでいない。ガクガク震えながら苦しそうな呼吸を繰り返していて、時折喘鳴さえ混じっている。
――何が起こったんだ? どうしたらいい?
青洲までガクガクと震えてくる。前の日までぴんぴんしていたのに、あっけなく亡くなったという鳴春の子どもの話が脳裏を掠める。
――こんな状況だったんじゃないだろうか?
頭の中が真っ白になる。
「吉田さんじゃないですかぁ? どうしたんです?」
突然、その場には相応しくない、のんびりと間延びした声が聞こえて、青洲は瞠目して振り返る。
「佐川? どうしてこんな所に?」
「あーあ、こりゃひどいな。せっかくの白虎が耳なしだー」
佐川は、白虎の祠を覗きこんでいる。
「佐川っ、そこの公衆電話から鈴守の本家に連絡をとってくれないか? いずみが倒れたんだっ」
青洲の声に、佐川が近づいてきて、いずみを覗きこむ。
「あーあ、こんな所に、何の備えもなく……」
佐川は、困った人たちだと言いたげに肩をすくめると、バックパックから銀色の水筒を取り出した。青洲は、佐川の行動にあっけにとられる。
「いずみさん、これを飲めますか?」
佐川は、中の液体をコップに注いで差し出した。いずみは、声が出ない様子で、無言でガタガタ震えていたが、なんとかコップを受け取った。
「いずみ? 声が出ないのか?」
青洲が心配そうに、いずみの背中をさする。不思議なくらい落ち着きはらっている佐川に、青洲のパニックが少し落ち着いて来た。
「いずみさんは、鈴守の関係者なんでしょ? 真っ先にやられるとしたら、声でしょうね」
青洲はぎょっとして佐川を見つめる。
「佐川、おまえ……」
――何をどこまで知ってるんだ?
「吉田さん、口移しで飲ませてあげたらいかがです? いずみさん、一人では飲めそうにないようですよ?」
動揺する青洲をちらりと横目で見ながら、佐川が助言する。
震えがあまりにもひどいので、コップの中身がほとんど零れてしまっていた。いずみは、コップを口まで持って行くのさえできない様子だ。
佐川の言葉に、動揺してためらう青洲に、佐川が更に続ける。
「吉田さん、早くしてください。できないんなら、僕が飲ませましょうか?」
佐川がいずみからコップを取り上げると、むっとした青洲がそれを取り返し、液体をいずみに飲ませる。いずみの震えが少し収まってきた。
「もう少し、飲ませた方がいいかな?」
佐川は、更にコップに注ぎ足した。液体は、無味無臭で、青洲の舌には、ただの水のように感じられたのだが、効果は絶大で、いずみは、微かだが声を出せるようになった。もう自分で飲めると言う。
「佐川、これは何なんだ?」
青洲は驚いた様子で問う。
「水ですよ」
佐川は、にっこりとほほ笑んだ。
「水?」
青洲はあっけにとられる。ただの水?
「ええ、青龍の井戸から汲んで来たものです。なかなか良い水ですよ」
青龍と玄武の祠の傍には泉が湧いている。玄武の方は湧水として川に流れ込んでいるだけだが、青龍の方は、村から近いので、島民が生活用水として使えるようにしてある。
「……」
「今日の早朝に、僕は青龍の祠を出発して、玄武の祠へ廻り、そして今ここへ辿りついたんですよ。お二人とは逆回りをしたことになります。玄武の水も飲んでみましたが、こちらは、あまり良い水ではなくなっているようだ。昨日、いずみさんが白虎を見たいとおっしゃっていたのを聞いていたので、どこかでお会いできるだろうとは思っていたんですが……」
「ち、ちょっと待てよ。佐川、おまえ、いつからこの島に居たんだ?」
青洲は慌てる。
「昨日の朝、島に着いたんですよ。村のあちこちを見て回っていて、そろそろ鈴守の家に伺おうと思っていたら、島内放送が流れて、吉田さんがカレーを作るらしいと聞いたんで、そのまま島の人たちと一緒に伺ったんですよ。そう言えば、吉田さんは、いずみさんばかりを見ていたから、僕には気づかなかったかもしれないなぁ」
佐川は、ちらりと横目で青洲を見て、薄ら笑いを浮かべる。
「私も佐川さんに気がつきませんでした。ごめんなさい」
いずみが、呟くように言うと、これには、佐川は優しげに微笑んだ。
「……昨夜はどこに泊ったんだ?」
青洲は仏頂面で問いかける。
「昨夜は、一太さんの所へ泊らせていただきました。船でお会いしましてね、宿屋への土産に大吟醸を用意していると言ったら、一太さんが、是非うちに泊れとおっしゃってくれたので……」
青洲は呻いた。
――一太のことだ、何かまたロクでもないことを……
「いやー、色々吉田さんのことを聞かせていただきましたよ」
――やっぱりかー
青洲は項垂れる。
「そうだ、白虎も清めておいた方が良いかもしれませんね。効果のほどは分かりませんが……」
佐川は、白虎の耳を軽く払って野いちごを落とすと、水筒の水をかけた。佐川の行動に、青洲は、はっと我に帰る。
「いずみちゃん、もう大丈夫そうかな? 少しの間、一人で座ってられる?」
いずみは、弱弱しく頷いた。それを見て、青洲は小さく肯くと、祠から少し離れた場所にある公衆電話に向かった。
「中川、俺だ。青洲だ。白舟は今どこに居る? 繋いで欲しいんだが……至急だ! なんだって? おい、ちょっと待てよ……」
青洲からと分かると、中川は慌てた様子で少し待ってくれと言う。テレカのポイントがものすごい勢いで減って行く。青洲は、やきもきしながら中川を待った。
『やぁ、兄さん、観光旅行はまだ終わらないの?』
代わって、赤秀の声が聞こえた。
「赤秀……嫌みなら後でいくらでも聞く。今は白舟の安否を確認したいんだ。島の白虎がやられた。玄武の時と同じような状態なんだ。玄武のことは、もう聞いているんだろう?」
「……白虎が……」
赤秀が小さく呻く声がして、電話の向こうが重苦しい雰囲気に変わる。
「……兄さん、その情報は、少し遅かったようだよ」
赤秀が痛みを堪えているような声で言った。
「なんだって?」
青洲は絶句した。




