第六話 能ある鷹の爪を隠せ(2)
十九年前
雨戸をたて、カーテンを閉め切った一室に、赤子の弱弱しい泣き声が響き渡る。
秋乃は、生まれたばかりの我が子を胸の上に置いてもらった。小さい手をギュッと握りしめ、弱弱しいながらも体の力を振り絞って泣く我が子を、秋乃は満ち足りた気持ちで見つめた。やっと、やっと、手にすることができた。秋乃の目から涙が零れ落ちる。
「生まれたばかりの秋乃にそっくりね」
青子も目を細める。栗色のくせっ毛、ぱっちりとした二重の瞳、長い睫毛、秋乃にそっくりであり、また、青子にもそっくりだった。
青子は手早く産湯を使わせると、温かなお包みに赤子を包む。
「秋乃、この子は何番目の子なの?」
「四番目よ」
秋乃の声が震える。もっと自分がしっかりしていれば、もっと異変に気付くのが早ければ、三人も死なせずに済んだのかもしれない、そう思うと胸が痛くなる。
「そう。では、それにふさわしい名前を付けなければね」
青子は、少し緊張した面持ちで言った。
秋乃は、産み月まで、ずっと母親の青子の所で過ごした。心に会えないのは寂しかったが、心は電話連絡さえ寄こしてはいけないと言い張った。しかも秋乃がいない間、絵を描く為の旅に出ると言う。そんな心の態度を不審に思ったのは、秋乃だけではなかった。
「秋乃、心さんとは、うまくいっていないの?」
そう問う青子に、秋乃は、心が語った心の実家の事情を説明する。
「呪われた血筋?」
青子は、少し驚いたように目を見開いてから、考え込んだ。
「どこの出身かは聞いた?」
「何も、何も教えてくれないのよ」
「……もしかしたら……」
青子は呻いた。
「何? どうしたの? お母さんは何かを知っているの?」
「秋乃、私の知っていることだとしたら、それは……私の業のなせる技かもしれない。良くききなさい。心さんが話さないのならば、無理に訊きだしては駄目。そして、生まれてくる子どもは、天真爛漫に育てなさい。何も知らせずにね。それがこの子の身を守る唯一の手段になる。私は、そういう気がしてならないわ」
そう言って青子は、秋乃の膨らんだお腹をそっと撫でた。
産まれたばかりの赤子を見つめながら、しばらく難しい顔をして考え込んでいた青子が、口を開いた。
「いずみ、いずみは、どうかしら?」
「泉?」
「四番目は玄武。泉なら、水という要素が、意味にも、文字にも、含まれているわ。それに、一つ前の白虎の白も含まれているじゃないの」
青子は、嬉しそうに言った。
「お母さん、一体何の話なの? 玄武とか、白虎とか……」
秋乃は、怪訝そうに母親を見つめる。
「秋乃には、話したことがなかったわね。私の生まれた家はね、代々、四聖獣にちなんだ名前を付けることが習わしになっていたのよ。単なる迷信に過ぎないと、若いころは思っていたんだけどね……気休めだろうと、イワシの頭だろうと、自分の血を分けた子どもには、良いと考えられているものなら、なんでもしてやりたくなるものなのねぇ」
青子は苦笑する。
「そうなの……不思議な話ね。四聖獣なんて初めて聞いたわ。じゃあ、私の名前も?」
「そう、秋乃の秋は、白虎にちなんだ季節なのよ」
「知らなかった……」
「でも、この四聖獣の話はね、この子が大人になるまで聞かせては駄目。それに漢字で『泉』ではなく、ひらがなにしなさい。隠せるものなら、隠した方がいい」
青子は神妙な面持ちで言った。
「どうして?」
秋乃は首を傾げる。
「秋乃は、もう大人だから、何を聞いても必要以上に怖がる必要はないのよ、気をつけて暮らしていれば良いのだから。実はね、早世の家系は、鈴守も同じなの」
「……え? だって……そんな……」
秋乃はたじろぐ。
――心ばかりでなく、自分まで?
「心さんの家系がはっきりしないから、あくまでも推測にしか過ぎないんだけどね、もしかしたら、この子は、二つの家の忌まわしい血をしょっているのかもしれない。だから、何も……何も知らせずに、純粋な心のままに育てる必要があるのよ」
「どうして……」
秋乃は戸惑う。
「魔は、人の心の弱さや闇に住みつくのよ。だから恐れや怯えに敏感なの。居場所が知れれば、取り込まれる」
「魔って……取り込まれるって……」
秋乃は絶句した。
* * *
青洲は、村中を走り回った。数人の村人が、子どもたちと青龍の祠に向かったのを見たというので向かう。青龍の祠は静まり返っていて、人っ子一人いなかった。
石組の堂の中には、石を刻んで造った龍がとぐろを巻いている。前足と頭の角がなければ、蛇に見えると、青洲はいつも思ってしまう。物心ついた時から、自分の守護神だと言われ続けてきた。日頃はそんなものかと眺めるだけだが、さすがに今日は青龍に手を合わせた。
――いずみちゃんが、無事でいますように……
一人の島民が走ってきて青洲に声をかける。
「青洲さん、いずみさんは、子どもたちと朱雀の祠に向かったそうですよっ」
青洲の慌てぶりに、一緒に聞き回ってくれていたらしい。
「ありがとう!」
礼を言うと、海岸沿いの道を駆けだした。
海岸沿いの道の途中に、何か赤い染みのような点が、二つ三つ落ちていた。青洲は、息を飲んで立ち止まる。
「……」
恐る恐る近寄って、しゃがみこむ。震える指先で触れると、赤い染みは、ぐずりと潰れて拡がった。
――これは血じゃない>
触れた指先を嗅ぐと、甘く、少しすえた匂いが鼻腔をくすぐる。
――野いちご? こんな季節に?
青洲の背筋が冷たくなる。砕かれた玄武に塗りつけられていたという、野いちご。青洲は、再び駆けだした。
金糸雀の歌が幽かに聞こえた。一人の声ではない、合唱だ。歩を進めるごとにその声は大きくなり、道の彼方先に、子どもたちが集団で歩いて、こちらに向かっているのが見えた。子どもたちはリヤカーを引きながら、歌を歌っていた。
唄を忘れた 金糸雀は
後の山に 棄てましょか
いえ いえ それはなりませぬ
青洲は、しばし呆然とそれを見つめていたが、リヤカーの上に乗せられているものに気づいて、慌てて駆けだした。
「いずみっー」
いずみが、リヤカーの上に乗せられていた。いずみは、ぐったりと横たわっているように見える。青洲は、頭の中が真っ白になった。
「いずみ、いずみっ」
子どもたちが、青洲に気づいて手を振る。
「いずみ、どうしたんだ?」
真っ青になりながら息を切らして走ってくる青洲に、子どもたちは、たじろいだ様子で立ち止まった。すると、それまで、ぐったりと横たわっている様子だったいずみが、むくりと起き上る。
「あ、青洲さんっ」
「いずみっ」
青洲は、委細構わず、いずみに駆け寄り抱きしめた。
「青洲さん? ごめんなさい、心配かけちゃった?」
肩で息をしながら抱きしめる青洲に、いずみは驚いて、青洲を抱きしめ返す。
ふと、気がつくと、抱き合う二人を子どもたちが、ぼんやりと見つめていた。子どもたちと目があった青洲は、気まずげに、いずみをそっと放すと、いくつか咳払いをする。
いずみと子どもたちは、島の南にある朱雀を見に行ったのだが、帰る途中で、いずみが疲れてしまい、休憩をとっているうちに、颯が、家からリヤカーを調達して来てくれたのだと言う。横になれと颯が、口やかましく怒るので、横になっていたのだといずみは、きまり悪そうに言った。
「げな(*)、いずみちゃん、真っ青な顔色やったとぜ?」
颯が、大人ぶった様子で顔を顰めた。
「ありがとうな、颯」
颯に青洲が礼を言うと、颯は照れて俯いてしまった。
子どもたちと、一緒に青洲もリヤカーを引っ張りながら帰る。安心したせいか、青洲は空腹を覚えた。
「君たち、昼ご飯は食べたとか?」
青洲が、子どもたちに問いかけると、
「食べておらんよ」と、口々に言う。
「よし、ちょっと待とるなら、オイがカレーば作ってやるか」
言いながら、青洲は子どもたちの頭数を数える。鳴春の所の大鍋を一つ借りれば、なんとかなりそうだ。
「よしゃー」とか「やったー」
とか、子どもたちから歓声が上がった。
(*)げな→だって