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野いちご  作者: 立花招夏
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第六話 能ある鷹の爪を隠せ(1)

「秋乃っ、昨夜はどこに泊ったんだっ」

 朝食の味噌汁を温めながら、いずみは一人台所で身を縮めた。

 昨夜帰ってこなかった母親が、今帰って来たのだ。これからきっと一悶着あるに決まっている。小学校には、今日も行けないかもしれない。

「どこに泊ったかなんて聞いてどうするのよ?」

 秋乃は、煙草に火をつけながら眉間にしわを寄せた。

「母親が朝帰りなんて、子どもの教育に良くないくらい、少し考えれば、分かりそうなものを……」

 心も負けずに眉間にしわを寄せる。

「何が子どもの教育よ。誰のせいでこんな仕事をしなきゃならなくなったって思ってるの?」

 秋乃は、点けたばかりの煙草を灰皿にグシャグシャと押しつけた。酒も煙草も、夜の仕事を始めてからおぼえた。

「笑わせるんじゃないわ。子どもの教育なら、現実をしっかり教えてやりなさいよ。金にも能力にも男にも恵まれなきゃ、女は体を使って働くしかないんだってさ!」

 心は、体を壊して寝込みがちになっていた。絵は描いていたが、相変わらず安い値段で買いたたかれており、最近では絵具代にさえ困るようになってきていた。秋乃に夜の仕事を紹介したのは、いつも来る画商の男だった。

『なに、夜の仕事と言ったって、お酒を作ったり、お客の話相手をしたりするだけの簡単な仕事だ』

 男はそう言った。

 それまで勤めていた会社は、いずみを密かに出産する為に辞めてしまっていたからだ。

「……客をとっているのか?」

 心が、かすれた声で問いかける。

「……仕事と言われれば、客だってとるわよ。それが夜の仕事のゲンジツってもんでしょ?」

 秋乃はしゃがれた声で、せせら笑った。

 しばらく、言い争う怒声が飛び交っていたが、やがて、荒々しくドアを閉める音がして、居間が静かになった。いつものように心は、どこかへ出て行ったらしかった。

 貧困が、家庭を蝕んでいた。

 いずみは、小さくため息をついて、母親の為にご飯とみそ汁をよそう。

「母さん、お疲れさま。ご飯、食べるでしょう?」

 卓袱台の上の灰皿を片づけて、母親の前にご飯を並べる。そんないずみを秋乃は忌々しげに睨みつけた。

「ああ、あんたの声を聞くとイライラする。ご飯なんかいらないわ。あたしに話しかけないでちょうだい。あーあ、子どもなんて産むもんじゃない。お金がかかるばかりで、ちっともいいことなんてありゃしない。おまえなんか生まれて来なきゃよかったんだ、おまえは疫病神だよっ」

 秋乃はそう言い捨てると、奥の部屋に行った。

 恐らく布団にもぐりこむんだろう。そして、夕方まで起きて来ない。父はお昼になるまで戻らないだろう。いずみは、一人、卓袱台の前で途方に暮れる。

 いずみは、いつもこうだ。悲しいとか辛いとか感じる前に、途方に暮れてしまう。たぶん頭が悪いからなんだと、いずみは思っているが、それは彼女なりの防御反応の一種だった。悲しさとか辛さを感じる前に、心に麻酔を打ってしまう。

「……ごめんなさい。生まれてきて……」

 誰に言うでもなく、いずみは、小さくぽつりと呟いた。


* * *


 おびただしい数の白い小さな腕、腕、腕……

 手に足に首に絡みついて来る。

――動けない、苦しい、息ができないっ……誰か助けて!

――誰か、誰か、誰か……誰?

 霧の少し前方に、大きな背中が見えた。ぼんやりと青く光っている。

――父さん? 違う! おじ……青洲さん助けてっ

 必死で伸ばしたいずみの手を、大きな手が包み込む。

「いずみちゃん!」

 肩で息をしながら目を開けると、青洲がいずみの手を握りしめていた。

「大丈夫? また夢を見たかい?」

「青洲さんっ」

 いずみは青洲に縋りつく。

「青洲さん、青洲さんっ」

「大丈夫だよ。怖いものなんて何もいないよ」

 島に来て三日が経っていた。

 この島についてから、いずみは、一度として悪夢を見ない眠りがない。眠ることに怯えるようになってしまったいずみを、青洲はいつも抱きしめていてくれるのだけど、眠ってしまえば、当然夢の中でいずみは一人ぼっちになってしまう。いつになったら島を出るのだろう。そう思いつつも、いずみは、それをなかなか聞けないでいた。

――青洲さんは、この島で調べたいことがあると言っていたのだ。それが済むまでは我慢しなきゃ。だって、いずみの為なんだって青洲さんは言ってくれたのだ。足手まといになるようなことは、言いたくない。いずみは、もう大人なんだし……


 青洲は、調べものだと言って一日の大半を神社の書庫で過ごしている。いずみは、中に入れないのだそうで、大抵は社務所か外で待っているのだけど、退屈なので、ほとんど絵を描いて過ごしていた。

 九州の春は早い。梅はとうに盛りを過ぎ、オオイヌノフグリやナズナやホトケノザが、たくましく花をつけている。オオイヌノフグリは雑草なのだけど、愛らしい花を咲かせる。いずみは、それらの雑草を片っ端から精密に描いていった。


 書庫の中で、青洲は一人ため息をつく。ほとんどが口語体ではないので、解読するのにひどく時間がかかるのだ。佐川がいたら、スラスラ解読してくれるんだろうになぁと思いながら、目がしらを強く押す。佐川は、表向きは市の職員などをやっているが、やたらに史学に詳しくて、古い文献などもスラスラ読んでしまう。だから発掘現場では、重宝がられていた存在だった。あの物見高い性格でさえ、今となっては懐かしいくらいだ。

「青洲、おまえ、一体なんば調べたいんだと?」

 後ろから声がして、振り返ると、午前中の神事を終えた鳴春が、呆れ顔で立っていた。

「この神社の成り立ちとか、四聖獣の言い伝えの源とか、そういったことを調べているんだが……」

 青洲の言葉に、鳴春が顔を強張らせた。

「やっぱい、そいがなんか関係しとっと思うとか?」

「……やっぱりって、なんだ?」

 問い返す青洲に、鳴春は落ちつか無げに、視線をさまよわせていたが、声を潜めて話し始めた。

「オイたちは、まぁだこまこうて覚えてん頃の出来事なんばってん……」

 鳴春は、大河の葬儀の時に話題になった、とある学者のことを語った。

 その学者は、そもそも歴史学者だったらしい。主に地方に散らばっている伝説とか民話を集めて、歴史の検証をしていた。どう考えたって作り話だろうと思われるものでも喜んで集めていたらしい。元々ここの村人たちは、お人よしで話し好きな人たちだ。四聖獣の言い伝えもあっと言う間に知られた。それを聞いて、その学者は、当時、宮司だった鳴春の親父の所に、調査許可を申し出てきた。

「おまえも知っての通り、こん神社の裏山は、神が降り立った聖域として、神事以外では立ち入らんし、一般人の立ち入りも禁止しとっと。最初は、親父もそう言って断っとったとばってん、やつはしつこかった……」

 歴史を証明する為の大事な調査だから、せめて、山の周りだけでも歩き回ることを認めてもらえないかと食い下がった。とうとう鳴春の父親は根負けして、周りだけならと言う条件で、許可した。しかし、その学者が立ち入っていたのは、周りだけではなかった。次の神事で入山した時、神が降り立った場所として使う舞台の周りのそこここが、無残に掘り返えされていたのだ。

「青洲、ヒヒイロカネてゆう金属ば知っておるね?」

「まぁ、少しは……しかし、あれは実在しないと言われているだろ?」

 ヒヒイロカネとは、古代日本で使われていたと言う謎の金属だ。太陽のように赤い色で、磁力を無効化し、純粋なものは金よりも柔らかいと言う。しかし、合金にすると鋼より硬く、これで刃をつくれば石ですらも切ることができたと言う。

「やつは、そいば見つけたと、当時、仲の良かった村人にだけ、こっそり打ち明けとったげな」

「まさか……何かと間違えたんじゃないのか?」

「そいがヒヒイロカネやったかどがんかは、どうでんよかと。年寄りたちの言うには、そいつがそいば持って本土に戻って行ってから、三家で不審死が増えたと……そう言うんだと」

「不審死……か」

 三家とは、神社を守っている鈴守家と、名和家、石守家の三家だ。鈴守以外は、日頃はとりたてて何をする訳ではないのだが、年に一度、神社で大祭が行われる時には、三家がそろって神事を執り行う。ところが、ここ三十年で、大祭が行われたのは、僅かに三度だけだ。三家がそろうことができないのだと言う。特に名和家の没落は凄まじく、不審死というよりも、原因が明らかな事故死、病死続きで、生き残っている者はごく僅かとなってしまっていた。


「いずみちゃん?」

 お昼近くになったので、青洲は書庫から出てきた。先に食べていなさい、と言うのに、いずみは青洲がいなければ食事をとろうとしない。眠ることについては、もっと神経質になっていて、青洲が傍にいてもなかなか眠れない。墜落するように睡魔に襲われては、うなされて目覚めるということを繰り返していた。いずみの異変は島に着いてから始まった。因果関係は不明だが、そろそろ島を出た方がいいのだろうとは思う。いずみの体が心配だ。

「鳴春っ、いずみがいないんだ、知らないか?」

 青洲は慌てる。いつもは神社の庭で、絵を描いて青洲を待っているのだ。鳴春が社務所のスタッフに尋ねる。

「青洲、いずみさんは、さっき子どもたちと一緒に神社ば出て行ったってよ」

 鳴春は、微苦笑しながら告げる。

 青洲は、社務所を飛び出した。

「おいっ、こまか子供じゃあるまいし、心配のしすぎじゃなかか?」という鳴春の声を後ろに聞きながら、青洲は村へ向かって駆けだした。


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