第四話 虎穴に入らずんば、虎児を得ず(3)
島に着くと迎えの車が来ていた。
「青洲!」
車から降りてきた恰幅のいい男が、青洲の肩をがっちりと掴んだ。
「鳴春、久しぶりだな。変わりはないか?」
青洲も男の手をがっちりと掴む。
「心配しとったぞ……ずっと心配しとった。なして連絡ばくれんやったとか?」
「心配掛けて悪かったな。すまない」
「こちらは?」
鳴春は、青洲から手を離すと、いずみに目を向けた。
「いずみ、俺の妻だ。いずみ、こちらは鈴守鳴春、ガキの頃からの友人だ」
青洲が二人を紹介する。
「初めまして、吉田いずみと申します」
「……初めまして、鈴守ばい……」
鳴春の戸惑ったような瞳に、いずみもまた、戸惑い気味に小さく笑んだ。
船が上陸する前、いずみは、青洲からきつく言い渡されたことがあった。
島では、決して自分が鈴森姓であることを明かさないこと。聞き覚えのある名字の人に会っても、驚くそぶりを見せないこと、その二つだった。
どうしてなのかと問ういずみに、すぐに分かるからという答えが返ってきた。そして、上陸した直後に、その理由を知ることになる。
車に乗せられて着いた鈴守家は、神社の奥にあった。駐車場で降りて、徒歩で薬医門を抜ける。朱色の本殿を右に見ながら、奥の石畳を進むと、一軒の民家が現れた。門には、『鈴守』という表札が上がっている。字は違っているものの、いずみの姓と同じ音だ。いずみは、思わず、隣を歩いている青洲の手を握りしめた。青洲もいずみを気遣うように手を握り返してくる。
鈴守家は、まるで息を潜めてでもいるかのように静まり返っていた。小さな子供が遊ぶような玩具が、入り口の脇にひっそりと置かれている。もう何年も使っていないのだろう、少し黒ずんで、プラスチックの部分が色褪せている。
青洲は、怪訝そうにそれらを見ながら玄関をくぐった。
「鳴春、子どもたちは? 学校か?」
青洲の問いかけに、鳴春は小さくため息をついた。
「せっかく戻って来てくれたおまえに、いきなりこがん報告ばせなならんとは、辛かばってん……大河は死んだんたい。夏生は、そん時に精神的なショックば受けて……今、本土の病院に入っとる」
「……いつ」
青洲は、呆然と呟くように問う。
「五年前だ」
「五年前……」
鳴春は、五年前の出来事を、まるで昨日のことのように語った。
夏生が回復し次第、某家に養子に出すつもりにしていたが、いっこうに回復の兆しはなく、ほぼ諦めていること。三年前には、心労から、妻、多賀子も体調を崩してしまったので、本土の実家に帰していることなどを、疲れきった表情でぽつりぽつりと話した。
「そんな大変なことになっていたなんて……知らなかったとはいえ、すまなかったな……何の力にもなれなくて……」
青洲は、沈痛な表情で鳴春に深々と頭を下げた。
「大変やったとはお互い様たい。そいに、こん件は、つい最近まで宗家にも知らせとらんやったと。薫様の件で、宗家も大変やったとは知っとったし、こっちは、事件とも事故とも判別できんやったけんな」
鳴春は、小さくため息をついた。
「警察がそう言ったのか?」
青洲は、眉間にしわを寄せる。
「本土の病院の見立てでは、大河の死因は肺炎による呼吸困難やったと言うんたい。風邪ばこじらせたとろうて。肺炎なら事件じゃなか。そうばってんか、そがんの信じらるっか? 前ん日までピンピンしとったとぞ?夏生に関しては、なんがあったかも話せん状況だけん、原因不明ときたもんたい。精神的なもんやろうて……」
鳴春は、吐き捨てるように言葉を投げ出した。
「……玄武のことは?」
「当初は、本土から警察もしてきたばってん、所詮単なる器物損壊たい。そん程度の扱いで終わった」
「赤い液体は? 血じゃなかったのか?」
「あいは、血じゃなかった。木イチゴか野イチゴの類やろうて、警察は言っとった。単なる性質の悪か悪戯やろうて……」
鳴春は、悔しそうに言葉を途切れさせた。
「……」
居心地の悪い沈黙が支配する。
いずみは、突然、頭から血の気がすーっと引いて行くのを感じた。気分が悪くなって口を押えて屈みこむいずみを、青洲が抱き起す。
「いずみちゃん?」
「ごめんなさい、少し気分が悪くて……」
鳴春は、既に客間を準備していてくれたらしく、いずみと青洲は、奥庭に面した更に際立って静かな一室に案内された。
「まっと(*1)前から知っとったら、窓ば開けて空気を入れ替えておいたとが、さっき、一太から無線で連絡が入って慌てて準備したけん、ちょっと空気が悪かな」
そう言いながら、鳴春が部屋の窓を全開にしていく。
「さむうなったら窓ば閉めろ。布団は、押し入れの中にあっけん、すいとっごと(*2)使こうてくれ。勝手知ったる離ればい?」
鳴春は、小さく笑んだ。
「悪いな、気を遣わせてしまって……」
「悪かと思うなら、鎮守様にきちんと手ば合わせて、五年間も放ったらかした今までん行いば詫びておけ。賽銭も忘るんなよ」
鳴春は、悪戯っぽく笑うと戻って行った。
「おじ……青洲さん、ここって……」
手早く延べられた床に横たわらせられながら、いずみは、不安げに青洲を見上げる。
「ここは、俺の……というよりも、吉田の家と縁の深い神社なんだ。代々鈴守の家が守ってきた。俺や俺の兄弟は、みんな東京生まれなんだけど、神事や祭とか、何事かある度に、この島に戻ってくるもんだから、幼馴染の友達がたくさんいるんだ。いつも、この離れを使わせてもらってね。小さい島だから、たぶん、もう君のことも知れ渡っていることだと思う。色々聞きたいことがあるとは思うけど、しばらくは胸の中にとどめておいて、この島ではゆっくりしておいてほしい。俺は、少し調べたいことがあるから、いずみちゃんを置いて出かけることがあるかもしれないけど、心配いらないから……」
「おじさんっ、どこかへ行くの?」
いずみが慌てて起き上る。
「おじさんじゃないだろ? 大丈夫、どこかに行く時には、ちゃんと君に言ってからにするから」
「やだ、いずみを一人にしないで、なんだか怖いの。おじ……青洲さんがどこかに行くなら、いずみも付いていく」
この島に着いてから、なんだか落ち着かないのだ。胸の奥がざわざわする。いつもはお腹の中でぐりんぐりんと元気に動き回っているマメ太が、島に着いてからは、息を潜めているかのように小さくしか動かない。まるで獲物をねらう肉食獣に出くわしてしまったかのように……。
「……分かった。君を置いて行かない。だから心配しないで、少し眠りなさい」
母屋に戻ると、鳴春が待ちかねていた。
「青洲、奥さんは、病気なとか? 医者に連れて行かんでよかとか?」
鳴春が、まくしたてる。
「いや、たぶん疲れているだけだ。心配ないと思う。彼女、妊娠しているから、疲れやすいんだろう」
青洲の言葉に、鳴春は、我が意を得たりと目を輝かせた。
「やっぱいかっ、そりゃ、めでたい! んにゃろ、一太め! ロクでんない噂話ばっかい持ち帰りやがって」
「ロクでもない噂?」
青洲は、首を傾げる。
「ああ、気にせんでくれ。あいつ適当な噂話ば聞きこんじゃ、オイの所にしてくるんたい(*3)。酒ば飲みにくる口実にしとるのさ。おまえが五年前に失踪したとは、薫様のことも、もちろんあったやろうが、本当は、奥方とうまくいかんやったとが原因げな言うんたい。そんうまく行かんやった理由が、おまえが……そん……不能やったとか、そん……実はシスコンやったとか……」
鳴春は、ゴニョゴニョと言葉を濁した。
「……」
青洲は、黙り込む。
「全く、馬鹿な噂話ったい。不能なやつが、なして子どもば作れるかよ、なぁ。今度、一太ばとっちめてやらな。そーだ、今夜呼びつけよう。久しぶりに、一緒に飲もうっ」
鳴春は、嬉しそうに連絡を取りに出て行った。一人残された青洲は、深いため息をついた。
(*1)まっと→もっと
(*2)すいとっごと→好きなように
(*3)してくるんたい→やってくるんだ