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野いちご  作者: 立花招夏
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第四話 虎穴に入らずんば、虎児を得ず(2)

 二十年前、春

 富士山の裾野にある温暖な海辺の町に、一人の女が人目を避けるようにやってきた。朝日に輝く富士にふと目をやり、自分でも気づかないうちに手を合わせていた。

――どうか、どうか、この子をお守りください。

 大通りから少し奥まった路地に入り込み、何件か小さな民家がごちゃごちゃと軒を並べているうちの一つの家の呼鈴を鳴らす。

「秋乃? どうしたの。こんな朝早くに……」

 女と同じ栗色の癖っ毛に、鳶色の瞳が、驚きで見開かれる。

「お母さん、助けて。もうどうしたらいいのか分からないのよ」

 女の縋りつくような声に、家の主は顔を顰めて女を中に入れると、辺りを用心深げに見まわしてから引き戸を閉め、鍵をかけた。

 女の名前は鈴森秋乃。一方、家の主は、鈴森青子と言う。秋乃はいずみの母であり、青子はいずみの祖母にあたる。


 秋乃は、数年前、斉藤心と結婚した。名もない貧しい画家だ。

 当時、OLをしていた秋乃は、仲良しの同僚と行った旅行先で斉藤と出会った。彼は目の前に広がる大自然を、まるで紙の中に閉じ込めようとしているかのように、正確に、精密に、一心不乱に描いていた。

 その絵の迫力に、観光客の誰もが足を止めて絵に見入る。

 大抵の人は、邪魔をしないように静かに眺めて、静かに立ち去って行くのだけれど、秋乃の同僚は少し違っていた。彼の絵よりも、彼自身に興味を持ったらしいのだ。確かに身なりこそ質素だが、均整のとれた体格に、精悍な顔立ちで、描いている彼自身が絵になる人だった。

 五月蝿く絵を褒めちぎり、話しかける秋乃の同僚を、最初は無視することに決め込んでいた様子の彼だったが、描いている画材に手を出し始めた同僚の一人に、さすがに堪忍袋の緒が切れたらしかった。

「絵に触るな、おまえら五月蝿い」

 深い良い声だった、しゃべった内容は別にして……。

 たぶん、一目ぼれだったのだと思う。

 すっかりへそを曲げて、立ち去った同僚たちを横目に見ながら、秋乃は一人その場から動けずにいた。

――あの絵が完成するところを見たい……でも、邪魔なのよね……。

「……あの、五月蝿くしてすみませんでした。でも、彼女たち悪い人たちじゃないんです。旅行中で、ちょっとはしゃぎ過ぎてたみたいで……素敵な絵だったから……あの、その……絵、頑張ってください」

 恐る恐る声をかけた秋乃に、眉間のしわを解いて斉藤が振り返った。その少し驚いたような瞳に、秋乃は弱く笑んで会釈をすると、その場を立ち去った。

 その日の宿泊先で、秋乃は再び斉藤と出会うことになる。

 斉藤は、秋乃たちが泊った旅館で下働きをしていた。二人が、まもなく恋に落ちたのは、ある意味において運命だったのだろう。

 鈴森姓を継ぐという条件で、秋乃の母青子は二人の結婚を承諾した。斉藤には、もう既に両親もなく、継ぐべき家もなく、都内のどこかに叔父がいるはずだが、ずっと連絡をとっていないので、どうなっているのか分からないと言った。天涯孤独な身の上だったのだ。

 すべて承知の上のことだったとはいえ、結婚生活は決して楽ではなかった。第一に安定して入るのは、秋乃の収入だけだったし、第二に斉藤には借金があった。斉藤の両親が残した負の遺産だと言う。斉藤自身は、基本的には、絵を売っているのだが、いつも絵を買いに来る業者のような人たちは、すこぶる感じが悪かった。しかも、斉藤が丹精込めて描いた絵を二束三文で買いたたいて行くのだ。

「ねぇ、心、絵を違う業者さんに見せてみたら? あんなに丹精込めて描いたのに、こんな値段じゃ、絵具代にしかならないじゃないの」

 秋乃の言葉に心は苦笑する。

「ごめん。しかたがないんだ。買ってもらった値段の大半を借金返済にあててるから、これだけしか手元に残らなくて……」

「……そうなの」

 そう言われてしまえば、納得するしかない。確かに心の言うとおり、借金を返している様子はないのに、取り立て屋などが家にやってきたことは一度もなかった。


 異変に気付いたのは二人目からだった。そして三人目で確信する。病院を何件も変えた。だけど、結果は同じだった。

 比較的早くに、秋乃は生命をお腹に授かった。ところが、いつも駄目になってしまうのだ。心音を確認して、これで一安心ですねと言われた次の週に胎児が流れてしまう。あるいは、ほぼ安定期に入ってから胎児が死んでしまう。どれもこれも不自然だった。そして、具合が悪くなるのは、いつも決まって病院に行った次の日なのだ。

 三人目の子がお腹の中で死んでしまって、手術で取り出した日の夜、病院のベッドで泣き腫らす秋乃に心が声を潜めて言った。

「秋乃、俺、おまえに黙っていることがあるんだ。もしかしたら、子どもが無事に生まれられないのは、俺のせいかもしれない……」

「何? 何のせいなの?」

 秋乃は驚いて問い詰める。

「……それは……今は話さない方がいいと思う」

 心は顎の下をしきりに指先でなぞる。彼が考え込んでいる時にする仕草だ。

 そして、四人目を授かった時、心が言った。

「秋乃、その子を無事に産みたいなら、病院で産むことはあきらめろ。リスクを覚悟の上で自力で産むか、あきらめるかどちらかしかないと思う。産むつもりなら、今からすぐに静岡のお母さんの所に行くんだ」

 そして心は、無事に生まれられない理由と考えている事情を秋乃に説明した。その内容は、あまりにも物語めいていて、にわかには信じられないものだった。

 心の家は、もともと早世の家系で、子どもは病死、無事に大人になれても若いうちに事故死することが多いと言うのだ。呪われた血筋だと陰口を叩かれたこともあると言う。五人兄弟の末っ子だった心は、少しでも長生きして欲しいという親の願いから、幼いうちに養子に出されたのだと言う。

「じゃあ、斉藤って養子に出された家の名字なの?」

「そうなんだ」

「元は何て言う名字だったの?」

「……ごめん、それは、できる限り口にしないようにと、養子に出された時に、実の親にきつく言い渡されているんだ」

「私にも言えないことなの?」

「いつか……その時が来たら話すよ」

「その時って?」

「とりあえず、それは今じゃないと思う」

「……」

 心の元を離れられなくてグズグズしていた秋乃に、やはり異変が生じた。つわりがひどくて、受診した産科医院で出された薬に秋乃は見おぼえがあった。二番目の子が死んでしまう前日に飲まされた薬だったからだ。


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