第四話 虎穴に入らずんば、虎児を得ず(1)
三十三年前の夏
島に一人の学者がやってきた。地方の村々に伝わる民話や伝説を集めているのだと言う。最初は胡散臭げに見守っていた村の人々も、学者にしては、気さくに話しかけてくる彼の大らかな性格や、どんな話でも熱心に耳を傾ける態度に、徐々に打ち解けて行った。元々が陽気でおしゃべり好きな人たちなのだ。取り立てて事件などない島での暮らしに倦んでいた村人たちは、自分の知りうる限りの伝説や口承を、喜んで彼に提供した。
だから、彼が四聖獣の言い伝えを知ったのは、かなり早い段階だった。
「へぇぇ、そいはおもしろか伝説ばいねぇ。どこで封印ばしたとか、具体的なことは伝わっておらんね?」
彼はあっという間に、その地方の方言を操るようになった。
「さぁ……村長なら知っとるんじゃなかかな」
「神社の宮司さんだね? 確か……鈴守さんやったかな?」
学者の顔に小さく快心の笑みが浮かんだが、それに気づいた村人はいなかった。
「いずみちゃん、もう中に入ったら? 甲板は風が強いよ」
いずみは、船が出港する前から甲板に出たきり、船室に入ろうとしなかった。電車を乗り継いで、各地を転々としながら九州までやってきた。九州北西部に位置する小島に、吉田家の先祖伝来の地があった。
赤秀のことだから、一旦しっぽを捕まえたが最後、どこまででも追いかけてくるという確信が、青洲にはあった。それならば、掴まる前にどうしても確認しておきたいことがある。
「青洲……青洲じゃなかか?」
突然後ろから声がした。
「……一太、船長が持ち場を離れて大丈夫なのか?」
青洲は振り返って、ニヤリと笑う。
「なんばいよっ、こんやろー、ふざけやがって。今までどうしよったと? 赤秀から何度も連絡があったとぞっ。弟ば心配させるなんて、どがん兄貴なんばいよっ」
一太はどら声を張り上げた。上背こそ青洲ほどはないが、赤銅色に焼けた筋骨隆々な体格のいい男だ。一太が繰り出した拳をすばやくかわしたものの、青洲は弾みでよろけてしまった。
「おい、歳なとか、なぁにば、よろけとるんだと」
一太は、拳を解く様子もなく、再び青洲の隙を窺う。
「ガラが悪いのは相変わらずだなぁ」
青洲は苦笑する。
一部始終を横で見ていたいずみが、小さな悲鳴を上げて、青洲に縋りついて来た。
「ああ、大丈夫だよいずみちゃん。こいつは、怒ってる訳じゃなくて、いつもこうなんだ」
青洲は、いずみの背中をポンポンと軽く叩きながら説明する。
「オイは、はらかいとるとぞっ。ところで、こんおなごの子はだいだ?」
いずみの怯えた瞳を見て、一太は一旦怒りの鉾を収めたらしかった。
「この子は、いずみちゃん。俺の……その……」
「妻ですっ」
言い淀む青洲の言葉を引き取るように、いずみが一太を睨みつけて言い放った。
「はぁ? 妻げな?」
一太は一瞬呆然とした後、青洲の袖を引っ張って、いずみから遠ざけると、ごしょごしょと耳元で囁いた。
「おまえ、志木の……ほら、あいとは別れたとか?」
「……別れた」
「そいで吉田は? 大丈夫なとか?」
「たぶん、大変だったと思う。赤秀には悪いことをしたと思ってる」
すべてを放棄して吉田を逃げ出したのだ。後始末は赤秀がやったはずだ。
「あん子いくつなんばい?」
一太の視線が、後ろで不安げにこっちを見ているいずみに注がれる。
「……十九だ」
青洲の答えを聞いて、一太は小さく呻いた。
「……オイ、赤秀が気の毒になってきた。おまえ次第では黙っていてやろうて思おとったばってん……」
「赤秀は、もう俺がどこにいるのか分かってるさ。もうしっぽを掴まれてるんだ。それに島に来てしまえば、おまえが黙っていたってすぐにばれるだろ」
小さな島なのだ。全員が通報機だと思って間違いない。
「そろそろ年貢の納め時なのは分かっているんだよ。ただ、最後に島を見ておきたくてね。いずみちゃんも連れてきてやりたかったし……」
「……そうか」
一太は眉間にしわを寄せて黙り込むと、青洲の肩をポンポンと軽く叩いて、船室へと戻って行った。
「おじさん……」
いずみが心配そうに青洲を見上げる。
「大丈夫、大丈夫だから。もうすぐ島に着くよ。中に入ろうか?」
青洲が、いずみの背中にそっと手を回す。
「おじさん、いずみのせいでおじさんに迷惑がかかっているなら、いずみ、おじさんとは別れてもいいよ。遠い親戚が都内にいるって、前に聞いたことがあるし……そこに行けば……」
「いずみちゃん、俺はいずみちゃんに傍にいて欲しいんだよ。いずみちゃんが居れば、今までずっと逃げ回ってた人生にピリオドを打てる、そんな気がするんだ」
「……」
それでも、いずみは不安を払拭できない様子で、青洲を見上げた。
「ああ、そうだ、いずみちゃんにお願いがあるよ。島にいる間は、俺のことをおじさんじゃなくて、名前で呼んでくれるかな? 前に言ったことと逆で、申し訳ないんだけど……」
島でも、鈴森姓を隠し通すつもりで夫婦を装っている。おじさんと呼ばれるのはまずいだろう。
「……うん、分かった。青洲さんだね?」
気まじめな顔で確認するいずみに、青洲は照れ臭そうに小さく笑った。
(*)はらかいとるとぞっ→怒っているんだぞ