第三章 山奥の妖怪 その1
翌朝、誠一は教室に入るなり、一発、鏡花にグーでどつかれた。
「昨日は散々な目に遭ったじゃない! あんたがテストの話なんてするから、理科とか英語までバレちゃったじゃないのよ!」
今日の彼女はかなりご立腹のようだ。顔を真っ赤にして怒鳴り散らすが、その鋭い眼の下には薄紫のクマも見える。
「知らなかったんだよ。まさかお前がテストを隠していたなんて。つーかお前、親にも見せられないような点数取っていたのか?」
殴られたばかりの脳天をこする。たんこぶができていないか心配だ。
「あんた、私が勉強大の苦手だってこと、知ってるでしょ! 私の前でテストの話なんかしちゃいけないことくらい察しなさい!」
「無茶苦茶だな」
その日もテストは返ってきた。誠一の最も得意とする社会科だ。昨日のものと合わせて、これで主要五教科は全て返却された。
数学以外は軒並み目標点を超えていたので、受け取って席に着くまでに小さくガッツポーズを作った。
ちらりと鏡花を見てみると、机に前のめりにうなだれて意気消沈していた。
放課後、教室の掃除をさっさと済ませた誠一は音楽室に直行した。音楽室では既に数名があれこれと談笑しながら、室内の椅子を並べ直していた。その中には誠一憧れの綾乃の姿もある。
今日は合奏の予定だ。
誠一も部員達に声をかけ、合奏のできる形に椅子を並べ始めた。
ほどなく部員全員が集合し、遅れて音楽の先生もやって来た。先生はふさふさの白髪をなびかせながら指揮台に立ち、既に楽器を準備して各々の席に着いている生徒達を見回した。
「準備は良さそうだね」
年季の入った指揮棒を掲げ、最前列のクラリネットを構えた女子を指す。
「それじゃあ、Aの音頼む」
言われた女子は楽器を構え、ブレの無い透き通った音を鳴らした。チューニングの始まりだ。
夕方、帰宅した誠一は黙って家の扉を開けた。
練習でへとへとに疲れていることもあるのだが、やはりここ数日の家族との関係もあってか、素直に声が出なかったのだ。
「おかえり」
扉の鳴る音を聞き付けた母が台所から声をかけた。誠一は小さく「ただいま」と言った。実に二日ぶりに復活した誠一と家族との会話だった。
それからしばらくは再び以前のような生活が戻った。朝早くから学校に行き、朝練習と授業、そして放課後に再び練習に明け暮れた。
鏡花も祖父も山について云々言ってくることは無く、家族との関係も以前と同じものに戻った。
いや、もしかしたら家族全員が意図的に話題を絞っていただけかもしれない。
それなりに満足のいく結果だった通知表も渡され、いよいよ夏休みに入る。吹奏楽の練習も丸一日使った本格的なものに変わった。朝から晩まで吹奏楽漬け、十二時間練習もザラだ。
そして二泊三日の練習合宿を経て、コンクール本番を迎えた。
朝早くから電車で移動したが、ホールのある盛岡に着いたのは午後になってからであった。
「さあ、全力投球で行くぞ!」
チューニング室で熱血漢の部長が部員達を鼓舞する。部員全員が「おーっ」と掛け声を上げ、ステージへと向かった。
本番がどのような状況だったかを誠一は覚えていない。あまりにも演奏に集中していたためか、記憶の機能がストップしていたようだ。ミスしたことは無いであろうが、自分の演奏がうまくいったのか、それとも変にならなかったかは全く思い出せない。
しかし、演奏の直後、舞台裏へと撤収する際に多くの部員たちが安堵の笑顔を漏らしていたため、恐らくうまくいったのだろうと、自身も頬が緩んだ。
ふと綾乃の顔を覗き込んで見ると、綾乃はトランペットを強く抱きしめ、左手で顔を覆い俯いていた。「うう……」と嗚咽も聞こえる。
ああそうか。先輩は今年で卒業だもんな。
来年、再びこの舞台に立っているであろう自分の姿を想像しながら、誠一は舞台袖へと引っ込んだ。
全ての学校の演奏が終了し、いよいよ結果発表の時を迎えた。ホールに全出場者が集結し、ある者はステージの司会を睨みつけながら、ある者は両手を合わせ念じながら、発表を待った。
先に演奏した学校の結果が読み上げられていく。そのたびに歓声と拍手、すすり泣きやどよめきなどホールの人々の感情が爆発する。
「遠野市立小烏瀬川中学校、優秀賞」
「……や、やったあ!」
最初に声を上げたのは三年生の男子の先輩だった。ティンパニーで鍛えた逞しい腕を振り回し、椅子から跳び上がった。
「よっしゃああああ!」
「うう……ひぐ……」
場内の拍手喝采ももはや部員の耳には届いていなかった。
抱き合う生徒に目頭を押さえる生徒、20人の部員それぞれがそれぞれの方法で喜びを表現する。
「やったぞ、やったぞおー!」
誠一も先ほどの男子の先輩と手を鳴らし合う。男子はこういう時にド派手なアクションで喜んでも違和感が無いので得な生き物だ。
ふと綾乃に目をやってしまう。綾乃は席に着いたまま両手で顔を覆い、俯いていた。結果が良かったというのに、まるで駄目だった時のような泣き方である。
隣で跳び上がった女子が綾乃の腕を引っ張り立たせ、抱き付いた。喜び過ぎてハイテンションになっているために、綾乃の様子はろくに見ていない。綾乃は泣きながら抱き返した。
「綾乃先輩、なんか悲しそうだな」
誠一がぼそっと漏らす。
「ああ、嬉しいけれど、もう終わりって考えると悲しいからじゃないか?」
男子の先輩も綾乃に眼を配る。
「でも、10月の文化祭も残っているから引退はまだまだ先なんだけどな」
先輩が首を傾げて席に着いたので、誠一も椅子に座った。
再びホールは拍手喝采に包まれた。知らぬ間に司会者が次の学校の結果を読み上げていたようだ。
「ちょっとちょっと、出動よ!」
久しぶりの何の予定も無い休日は、鏡花が押し掛けて来たためにぶち壊された。
「何よその目は。私は疫病神じゃないわよ」
実際似たようなもんだろ。玄関まで出迎えた誠一は溜息をついた。
鏡花は青いジーパンに薄い桃色のキャミソールと、リボンの飾りの付いた白いシャツを着ていた。制服か巫女装束ばかり見ている誠一にとっては新鮮な光景だ。
「何か用か?」
一方の誠一は短パンとTシャツというぐうたらスタイルで出迎えていることに気まずさを感じ、つい目を鏡花の服と自分の服の間で往復させていた。
「そうそう。最近、河童の畑によく猪が侵入するようになったのよ。それで河童のみんなが困っているから、あんたの力で何とかできないかしら」
「そんなん猪が餌食うためにやってることだろ? うちの畑だってやられたことあるし。何で人間が出なくちゃならないんだよ」
「それが難しいとこなのよ。実は、動物は河童の畑には侵入しない代わりに、できた作物を分けてもらうっていう約束事があるの。いつもなら猪に作物を渡さないだけで、十分処罰になるけれど、今年はこの冷害のせいで山全体で食糧不足が起こってるの。木の実も幼虫も、全然育たないらしいわ」
「へえ、結構大変なんだな」
今までは部活に全精力をぶつけていたので、てんで他のことに無関心になっていたが、確かに今年は稲の生育があまりにも悪い。
8月になっても未だに気温が30度を超した日は無い。せいぜい25度が関の山だ。
「だから、もし作物を渡さないなんてことになったら、猪全体で食糧不足が起こっちゃう。小さい子どもなんかは命に関わるわ。だからせめて犯人の割り出しをして、処罰は後から考えようっていう話になったわけよ」
「んで、俺にはその犯人捜しを手伝ってくれ、てところか?」
「そゆこと!」
誠一は大きく溜息をついた。
「分かった。とりあえず着替えるから」