第二章 河童と携帯ラジオ その3
水しぶきを上げ、水面の至る所からぽつぽつと姿を現したそれはまさしく河童たちだった。
数十人はいるであろう、老若男女問わず、河童だよ全員集合とでも言いたげだ。
筋骨隆々の逞しい体付きをした男の河童、豊かな胸を蓄えて、両手で子どもを抱いた母親河童、皺くちゃで今にもへし折れてしまいそうな老河童などなど、河童というコミュニティの多様性が一目で理解できる。
皆、頭か上半身だけを外に出し、三人を眺める。やはり全員が赤っぽい肌をしていた。
「おお、鏡花ちゃん達か……て、あいつは誰だ?」
「さあ、見たこと無いわねえ。家族かしら?」
「ああ、あいつが昨日話した稗貫家の長男だ」
河童たちの間からシンベエの野太い声が聞こえた。川岸からは分からないが、この中に彼も混じっているようだ。
「へえ、あの子がねえ。確かにちょっと細いな」
「でも凛々しい顔つきしてるわよ」
ぎょろりと光る数十の目玉がこちらを眺めているのはなかなかに恐ろしい光景だ。誠一は鳥肌が立つのを感じた。
「みんな、ラジオはちゃんと元通りよ!」
鏡花が手元に持っていたラジオを頭上に掲げ、河童たちに見せつける。河童たちからは歓声が上がった。
「んで、直したのはこいつ。もうお気付きかもしれないけれど、今の稗貫家の長男よ。今は着ていないけど、天狗の狩衣もなかなか似合うのよ」
鏡花が誠一にラジオを押しつけたので、誠一は思わず受け取ってしまった。
河童たちから先ほど以上の大歓声が上がる。
「なんと、稗貫家の坊ちゃんは機械にも強いのか?」
「これは頼りになるわねえ。ありがとう」
「誠一、お前やっぱりできる男だよなあ」
口々に賛辞の言葉を贈られ、誠一は照れ臭くなりすぐにでもここを離れたかったが、鏡花が例のスネークアイズで「何か言っとけ」と無言のメッセージを送るので「あー」と校長先生よろしく、喉の調子を整えていた。
「皆さん、初めまして。稗貫誠一です。よろしくお願いします」
わあっと河童から割れんばかりの拍手が起こる。
「礼儀正しいわねえ」
「これからあんたが山を守るのかい。よろしく頼むぞい」
いや、俺が山を守ることは無い。
その一言が出なかった。河童たちからこうも歓迎されてしまっては、多大な失望を買ってしまうのは目に見えていたからだ。
昨日祖父には使命を放棄することを許されたが、まだ鏡花たちはその話を聞いていないのだろうか。
鏡花の方をちらりと見てみると、鏡花は河童同様、誠一に拍手を送っていた。その顔は珍しくにっこり笑顔であった。その後ろでは鏡花の父も同じく拍手を送っている。
「とりあえずこれ、返しますね」
歓迎されるのは不快ではないが、長居は気まずい。誠一はさっさとラジオを返してこの場から離れたかった。ラジオを片手に、淵に近付く。
「ああ、ありがとう」
すぐ近くにいた河童が立ち上がった。
誠一より小柄で、細身でありながら均整の取れた筋肉を備えた、若い男の河童だった。だが最も目を惹いたのは服装が白色で無地のTシャツと、黒い体操ズボンという人間に近しいもので、さらに太い黒縁の分厚い眼鏡をかけていたことだった。
真夏に住宅街をうろつく学生にいそうな外見だ。
想像とあまりにも乖離した河童族の近代化に驚きながらも、誠一は水から上がって来たその河童にラジオを手渡した。受け取る時に、その若い男の河童は、分厚い眼鏡の下からでも十分に伝わるほどの満面の笑みを誠一に向けた。
「本当にありがとう。僕らはこれ以外で情報を得られないから、みんな大助かりだよ」
若い河童は誠一に頭を下げて感謝する。
「はあ、どういたしまして。河童の皆さんは社会とかに興味があるのですね」
「そりゃあ勿論、河童社会でも刺激は必要だからねえ。政治経済からスポーツまで、みんな興味津々なんだよ。特に、今日のイーグルスの中継は先発が則本だからね」
誠一がはにかんだ。根っからの東北男子として、誠一のイーグルスへの愛は深い。この河童には妙な親近感を覚えた。
「ん? もしかして君も同志かい?」
河童は誠一の変化を読み取ったようで、ニタッと笑った。それに答えて「もちろん」と返す。
「だよねえ、今日は則本だけど相手は柳田だ。ここを抑えるかどうかが試合を決める。得意の変化球でわざと振らせて取るような、確実なピッチングが必要だね」
「いやいや、ここは速球で三振を狙うべきだよ。敵の勢いを削ぐにはそれが一番だ」
「あの、もしもし?」
このままでは男同士の野球談議に発展してしまう。そう踏んだのか、鏡花が会話に割り込んだ。
「仲良くしているところ悪いけど、野球はもう始まってるんじゃない?」
「おおそうだ」
若い河童はラジオの電源を付け、周波数を合わせる。
「おっと、3回もイーグルス無失点で押さえました! 2対0でイーグルスリードのまま、4回を迎えます」
アナウンサーの声が聞こえ、「おお」と他の河童達も寄って来る。ラジオの周りにたちまち河童だかりができ、誠一は弾き出された。
先ほどの若い河童はラジオのすぐ近く、群衆の中心で身動きが取れなくなっていた。
「誠一、すまんな。河童を代表して礼を言うぜ」
川から上がって来たシンベエが誠一に声をかける。
「これは心ばかりのお礼だ。受け取ってくれ」
シンベエは手作りなのだろう、ツタで編んだ手提げの籠を差し出した。不揃いながらもなんだかおしゃれな、可愛らしい籠だ。
「え、でもなんか悪いですね」
「いいんだ。つべこべ言わずに貰っておけ」
誠一は籠を押しつけられた。ずっしりとした重みがあった。
「それじゃあもう遅いし、私たちは帰るわね」
「そうだな。明日も学校とやらがあるんだろ? おーいみんな、誠一たちが帰るぞ!」
シンベエの呼びかけに、野球中継に聞き入っていた河童たちも我に返り、誠一たちを拍手で送り返した。
河原を下りながらいつまでも届く歓声は誠一にとって居心地の悪いものではなかった。
「うわあ、これアンズだ」
車に乗り込んでようやく、誠一は照明を頼りに籠の中身を見ることができた。
誠一は程良く黄色に熟した果実をひとつ手に取り、しげしげと眺める。
「きっと畑でできたのよ。河童のみんなは自給自足で畑を作って生活しているからね」
助手席から鏡花が手を伸ばし、誠一の持っていたアンズを奪う。
「うわあ美味しそう。マコト、ひとつ貰ってもいい?」
「おいおい、それは誠一君が貰った物だろ」
運転席の鏡花の父が咎める。
「ああいいよ。まだ4つあるし」
誠一は上機嫌だった。今まで自分が趣味でやってきた電子工作、しかも簡単なものでここまで喜ばれるとは思ってもいなかった。
「ありがとう。ところで、どうだった誠一? 河童はいい人ばかりでしょ」
鏡花が毎度おなじみ、蛇のような眼をこちらに向ける。
「ああそうだな。案外人間と大差無いかもな」
「そうでしょ。山の妖怪もだいたいあんな感じよ。これから付き合っていくのも変に意識する必要なんて全く無いんだから」
誠一は言葉に詰まった。もしかしたら昨日のことを、自分が稗貫の使命を継ぐ気が無いことを鏡花は知っているのか?
「田尻、昨日の晩か今日の内に、じいちゃんと会ったりしてないか?」
思わず声色が変わった。
鏡花はきょとんと眼を丸めた。普段はあまり見せることの無い表情だ。
「え? 会ってないけど」
「そうか。ならいい、気にすんな」
鏡花の言っていることに間違いは無いと判断した誠一は、それ以上言及するのをやめた。
車は山道を抜け、農道を突き進む。
車窓はほとんど真っ暗なので、外の景色を楽しむこともできず、誠一は暇を持て余していた。
「そう言えば、今日返ってきた数学のテスト、あんまり良くなかったなあ。田尻はどうだ? 良い点取れた科目は……」
ふと助手席に目を遣ると、青ざめた顔で人差し指を立て「シーッ!」の合図を送る鏡花がいた。
「数学のテスト? お前、返ってきたのは国語だけじゃなかったのか?」
鏡花の父が鏡花を睨みつける。その声からはいつもの温厚な人柄は全く感じられなかった。
しまった、ここでテストの話はご法度だったか。
「鏡花、まさかまた酷い点取ったのか?」
「その、それは……」
うまい言い訳が全く思い浮かばないのか、妙な汗を垂らしながら、鏡花は一瞬、誠一を睨みつけた。
その眼は蛇でも鷹でもない、鬼の形相そのものだった。
家の前で降ろされた誠一を、家族は夕飯を作って待っていた。
しかしこの日も稗貫家で会話が交わされることは無かった。いつもならご飯二杯はおかわりをする誠一も、一膳だけで席を離れる。
風呂を上がった後、自分の部屋に戻った誠一はおもむろにメモ帳から一枚、紙をちぎり、そこに黒のボールペンで大きく何かを書き込んだ。
祖父と母が居間でニュースを見ている隙を見計らって、祖父の寝室に潜入する。立派な桐箪笥や本棚以外は特に飾り気の無い和室である。
誠一は既に敷かれていた祖父の掛け布団の下に、先ほどのメモを挟んだ。
『じいちゃんへ 俺の使命の話は保留ということにしておいてちょうだい』
自分の部屋に戻り、誠一は今日貰ったばかりのアンズをそのままかじる。
うん、甘い。
ちなみにその後ニュースで知ったのだが、イーグルスは4対0で完封勝利をしたそうだ。