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第二章 河童と携帯ラジオ その1

 翌朝、空には低くて分厚い雲がなだれ込み、強くもなく弱くもない重苦しい雨を降らせていた。


 誠一は昨日修理したばかりの目覚まし時計が鳴る三分前に目を覚まし、さっさと制服に着替えた後、ご飯と味噌汁を胃に流し込んで家を出た。


 既に母も祖父も起きていたが、会話はまったく交わされなかった。


 実のところ、誠一は昨夜の一件から一言も家族と口を聞いていない。いつもは賑やかな朝の時間も、この日だけはさっさと抜け出したい気まずさが漂っていた。


 中学校には毎朝、田んぼの脇のアスファルトで舗装された道路を自転車で突っ切って登校する。


 この道の片側は山の斜面が迫っており、時々鹿が下りてくる。だがこの日、レインコートを羽織り慎重に自転車をこいでいた誠一がすれ違ったのは、年季の入った軽トラック一台だけだった。


 山に沿って作られた緩やかな起伏の続く道をしばらく走ると、谷間の土地に鎮座するように誠一の通う小烏瀬川こがらせがわ中学校が見えてくる。


 この学校は全校生徒100人にも満たない小規模校で、部活動も野球部、女子バレーボール部、男子バスケットボール部、剣道部、そして吹奏楽部の五つだけだ。誠一は男子では少数派の吹奏楽部に所属しており、トロンボーンを担当している。


 山肌の木々の隙間から校舎が見えてくる頃には、まだ7時を過ぎたばかりだというのにトランペットの爽やかな音色が聞こえてきた。自然と自転車を漕ぐ足にも力が入る。


 誠一は屋根付きの駐輪場に自転車を停め、レインコートを自転車に掛けるとすぐさま校舎へと駆け込んだ。目指すは二階の音楽室。


 コンクリートの階段を二段飛ばしで駆け上がり、音楽室の前で急ブレーキをかける。そして乱れた前髪を掻き分けて音楽室の扉を勢いよく開ける。


「おはようございます先輩、今日も早いですね!」


 扉のガララという音も気にならないほどの、良く言えば元気いっぱい、悪く言えば騒音認定確実な挨拶を誠一は発した。


「おはよう誠一君」


 音楽室の開け放たれた窓辺で、トランペットを吹いていた少女が振り返った。バイオリンの弦のように真っすぐで、碁石のように艶のある黒髪がたなびいた。


 直後に誠一に向けられたのは琥珀と見紛う透き通った瞳、そして色気の漂う美しい紅の唇。


 彼女こそ全男子生徒が認めたこの学校ナンバーワン、いや、誠一個人としては岩手一、東北一の美少女と認定している橋場綾乃はしばあやのである。


「いつも早いですね」


「ふふ、近いと得よね。あれ、誠一くん、目が荒れてるよ? 何かあったの?」


 綾乃が誠一の顔をじっと見たので、誠一の心臓は大きく飛び跳ねた。


「そうですか? ああ、今朝目薬注すの忘れてましたわ」


 見え透いた真っ赤な嘘。


 スミレの花を彷彿させるおしとやかな頬笑みを投げかけた後、綾乃は再び外に向かってトランペットを鳴らし始めた。その表情はついさっきの微笑みとは違い、真剣そのものだ。


 綾乃は誠一よりも一つ年上の三年生であり、この部の中心メンバーでもある。彼女の演奏の腕前は人並み以上にこなしている誠一でさえ足元にも及ばないレベルに達しており、演奏会では毎回ソロを担当してきた。


 さらに温和で他人を労わる心優しい性格の持ち主でもあり、生真面目で融通の利かないこともある部長のサポートもこなしている。最も、綾乃本人にその自覚があるのかどうかは定かではないが。


 誠一にとって最も安心できる家族以外の人とはまさしく綾乃だった(ちなみに安心できない人ナンバーワンはぶっちぎりで鏡花だ)。少しの時間でも一緒にいたいと思うのは至極当然。


 先輩に少しでも近付きたいがために、誠一は毎朝早くから朝練習に参加していた。かつては下心見え見えな作戦だとも思っていたが、現在ではもはや日課となっている。


 誠一が今まで一度も学校を遅刻したことが無いのも、一重に朝練習と綾乃のおかげである。


 7時30分にもなると吹奏楽部員20名全員が揃い、各々で楽譜を広げ練習に励んでいた。


 今、部員たちは夏休み中に開催される全日本吹奏楽コンクール岩手県大会に向けて最後の追い込みにかかっている。


 誠一も雑念を全て拭い去り、職人さながらの真剣な表情でトロンボーンを鳴らす。今回演奏する曲はどうにも自分の苦手な高音域が頻繁に登場するので、本番までにそこを克服しなくては。


 ある三年生の先輩が言うには、今年はメンバーの当たり年のようで、数年来遠のいていた『優秀賞』の獲得も夢ではないとのことだ。滅多に無いチャンスをモノにしないわけにはいかない。


 学校の誠一と今朝の家での誠一が同一人物とはとても思えないだろう。


 練習をしている間に、雨は徐々に弱くなっていった。




「ちょっとあんた、機械工作とか得意だったわよね」


 朝練習を終えて二年生の教室に入るや否や、鏡花が詰め寄って来た。


 ある程度距離を取っているはずなのに、なお恐ろしく感じる鋭い目つきが誠一を硬直させる。一緒に入って来た吹奏楽部の友人たちは後ずさりして、そそくさと各自の席に着いた。


「ああ、できないことは無いけど」


 現に昨夜、ドアに投げて壊してしまった目覚まし時計は自分で修理した。ドライバーとピンセットを器用に使い、ずれた部品を正しく並び変えれば元通り、正常に作動した。


「それなら良かった。今日、学校が終わったら神社に来てね」


「おいおい、俺、部活だから練習終わるの6時過ぎだぜ。それでもいいのか?」


「いいわ。私もバレー部で遅くなるし」


 誠一は頷き、そのまま自分の席に着いた。


「どうした田尻。神社の照明でも壊れたのか?」


 後ろの席に座っていた短髪の男子が尋ねる。


「そうそう。昨日見に行ったらコードから腐ってたんだから」


 あまりにも自然に返す鏡花だが、誠一は嘘だと確信していた。山のことだろうと予感はしていたが、鏡花の頼みを断ると後が面倒なのはよく知っていた。


 今回だけは付き合ってやろう。


 その日、ほぼ全ての授業で先日の期末テストの結果が返却された。その出来に一喜一憂する授業時間は退屈するほど長いというのに、もっと時間をかけたいと思う部活動はあっという間に終了してしまう。


 学校を出た頃には雨はすっかり止んでいた。六時を過ぎていたが、まだ野球もできそうなほどに明るかった。

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