第一章 天狗の狩衣 その3(写真あり)
誠一は神社の裏手に連れて行かれた。
ここは草を刈られたキャッチボールができるくらいの広場に、その脇をせせらぎが流れているという場所だった。
普段なら明るい陽光が差し込む静かで趣深い場所なのだが、今年は空を覆う分厚い雲のせいで逆におどろおどろしい雰囲気が漂っている。
だがここの水音は誠一の耳にとっては不快な雑音でしかなかった。白見川の分流であるこのせせらぎは、どうしても父の死を思い起こさせる場所だった。
この川のせいで父さんは。
そんな誠一のことなど意に介さず、鏡花は小石を拾って水面に投げつけた。ぱしゃっ、ぱしゃっと二回水を切った小石は三度目の着水で大きな波紋を残し水に消えた。
「あーもー、うまくいかないわね」
「下手だな、手本見せてやるよ」
むしゃくしゃを振り払うため、誠一はわざと威張りがちに言った。
ちょうど扁平な小石が足元に転がっていたのを拾い上げて、サイドスローの要領で水面スレスレに石ころを投げつける。
ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ……石は勢いよく何度も跳ね上がり、ついに大きく跳ね上がったかと思うと木の陰の後ろ側へと回り込んでしまった。
「いて!」
木の陰から声がする。
「誰だ、川に石を投げるなんて、危ないだろうが!」
声の主がにゅっと顔を出す。だがその場所はせせらぎの真ん中だ。
「あ、か、か……」
ごめんなさい、そう謝ろうとしても誠一にはできなかった。それどころか震える指を差したまま固まっている。
こっちに歩いてくる人物。その服装は白色の褌一丁、亀のような甲羅を背中に背負い、海藻のようにつやつやした頭髪の上には白磁のような円形のお皿――。
「河童! 本物の河童!?」
「おっと、本物の河童は初めてか。てことはお前が誠一だな」
ぶっきらぼうだが気さくに、河童の男はにかっと笑った。
男の姿は誰しもがイメージする河童そのものだった。だが体表は一般的なイメージの緑色ではなく、東北地方の民話に伝わるように赤味のかかった色、いやそれよりも桃色に近い。
「シンベエさん、お久しぶりね」
鏡花が手を振ると、河童も手を振り返した。
「うっす鏡花ちゃん。また一段と美人になって」
「やーねえ、今更わかりきったことを。紹介しておくわ。河童の長のシンベエさんよ」
小川の水を撥ね退けながら、河童のシンベエは三人に歩み寄る。と、歩きながら誠一の顔をじっと覗き込んだ。
口は鳥の嘴のようにやや尖っており、テニスボールほどもある巨大な目玉も黄金色に輝いている。
誠一はと言うと目は合わせてはいたが、身体の方は固まってしまい微動だにしなかった。冷や汗が頬を伝う。
「よろしくな坊主」
すぐ前まで来たシンベエは誠一にすっと手を出した。身長は誠一よりもやや高い程度だが、体格は細身といえど程良く引き締まった優れたものだ。
「よ、よろしくお願いします。稗貫誠一です」
おどおどと差し出した手がシンベエの指に触れた。体表は蛙のように冷たく湿っており、指の間に水かきと思しき薄い膜があった。
「驚ける内に驚いとけ。世にも珍しい妖怪様だぜ。何せ俺たちが交流している人間はほんの数人だけだからな。稗貫家の中でも本家の大人としか会わないようにしているからな」
「妖怪は普段人間から隠れて生活しているから、普通に人生を送っていたら会うことなんてまず無いからね。まあ、一か月もしたら家の壁が喋り出しても驚かないようになると思うけどね」
鏡花が横からちゃちゃを入れるが、シンベエは吹き出した。
「よく言うぜ。5年前に初めて河童に会った時には、怖がって泣き出したのは今でもよーく覚えてるぞ」
「む、昔のことでしょ。それにマコトは男よ!」
鏡花は顔を真っ赤に膨らませた。
「ふん、稗貫家の長男がどんな者かと来てみれば、ただの腰ぬけではないか」
誠一の真上から突如、皺がれてはいるものの野太い低い男の声が聞こえた。慌てて見上げてみると、木の枝に一頭の大猿が胡坐をかくように腰かけていた。
座高だけでも誠一の身長よりはるかに大きい。綿のように白い、しかし毬栗のような鋭い毛並みから、かなりの老猿であることが直感的に分かる。顔も皺くちゃで、眼も皺と皺の間から金色の瞳をのぞかせている程度しか見えない。
「あら、猿の族長じゃないの。もう来てたの」
鏡花は自分の話題から早く抜け出したいのか、あからさまに大きめな声で慌ただしく樹上の大猿に手を振った。
「ワシにとって人間ごときに気付かれずに近付くことなど河童が止水で泳ぐ程度に簡単なことだ」
族長と呼ばれた大猿は胡坐の姿勢を崩さず樹上から見下ろしている。その話し方に若々しさは無いものの、静かな覇気と貫録が込められていた。
「この偉そうなお猿は誰?」
祖父の方をちらりと見て、呟くような小声で尋ねた。
さっきからこの大猿が気に食わないのも当然だ。しかし見た目だけでも自分より、いや、祖父やその前の祖父以上の年齢を重ねているであろうことが感じられた。
「猿の経立で、猿たちの長じゃ」
「経立? あの動物が長く生きて、妖怪化したとかいうあれ?」
「ふうむ、腰ぬけな上にワシの悪口まで漏らすとは、しつけがなっていないのう」
蚊の羽音くらいで呟いたと思ったのに、相手は聴いていたようである。誠一は「うへ」と情けない声を上げた。
「おいおい族長、この子はずっと人間の中で暮らしていたんだ。妖怪に会うのも今日が初めてなんだし、腰ぬけはないでしょう」
河童のシンベエは明るくも、それでも真剣な目で族長に話した。
「河童はまだ人間にとっては親しみやすい種族じゃ。しかしこの山にはもっと恐ろしい妖怪もごまんとおる。それなのにこの程度で驚いているようでは先が思いやられる。だいたい何じゃ、その牛蒡のような細い身体は。そんな体ではこの山を守れんぞ」
何も言えなかった。誠一の身長は中学二年生としては高めの165センチだが、体重は50キロしかない。腕も脚も細く貧弱な印象を与える。
誠一自身、もっと筋肉質な体躯に憧れてはいるのだが、一向にそうなる気配は感じられない。毎日ご飯を八膳食べても効果はなかなか現れないのだ。
そんな誠一の思いを代弁したのはシンベエだった。
「じいさん、いい加減にしろよな。誠一も稗貫家の男子だ、天狗の狩衣があれば俺達が何人がかりでも抑え切れない力を出せるんだ。将大さんがいなくなってこれからみんなで山を守っていかなくちゃいけないって時に、わざわざひっくり返すようなこと言わなくてもいいだろ」
「ふん、人間からの信仰がただでさえ減り続けているというのに、河童はまだその衣に頼っておるのか」
「な、何だと……」
「はいはい、二人ともタンマタンマ」
嘲笑する老猿と声を震わせるシンベエの間に、鏡花が割り込んだ。
「まだみんな来ていないんだから、こんな所で喧嘩はやめましょ。確かにこいつは足は遅いし、ソフトボール投げは失敗して記録なしだし、逆上がりもロクにできないけれど、一応は稗貫家の男子なのよ。まだ信仰もそれなりにあるから、この狩衣さえあればオリンピック選手顔負け、ボルトもタクシーで帰るスーパーアスリートにもなれるはずよ」
全然弁護になってないよ……。そもそもボルトって、この妖怪たちも納得しているんじゃないよ。
老猿はううむと唸った。が、しばらくするとにたっと口角を上げ、嘲るような眼を誠一に向けた。
「まあ、しばらくは様子を見るとしよう。だが、お前が稗貫家の長男に相応しくないと少しでも思ったら、ワシら猿一族は人間に協力なぞ一切せぬからな」
こっちから願い下げだよ、とは言いたくても言えなかった。
「よかったわねマコト。族長も一応は認めてくれたわよ。……お、みんな来たみたい。おーい、こっちこっち」
鏡花が手を振る方向から、木々をかき分けて多くの影が近付いてきた。
猪、狐、牡鹿、狸、兎……その他大勢近隣の山々に棲む動物たちの代表である。誠一の眼に真っ先に映ったのは太い四肢でずんずんと闊歩する大熊の姿だったので、その場で絶叫してしまった。
「ほう、こいつが新しい山の守人か。なかなかいい面構えしてやがる」
「あら、いい男。私が人間だったら熱烈アタックしちゃうのに」
「力は弱そうだが頭は良さそうだな。目で分かるんだよ、目で」
「これからよろしくな、兄弟」
動物たちが誠一に駆け寄り、一斉に話しかける。今日まで人語を解することは無いと考えていた動物たちが自分と日本語で会話を交わしていることに、誠一は大きなギャップを感じていた。
「ええと、よろしくおねがいします」
動物とは言え大勢に注目されるのはやはり照れ臭い。自分自身が視線を感じるのを避けるために、誠一はぺこりと頭を下げた。
しかし、どうやらこれは逆効果だったようだ。
「あら、礼儀いい子ね」
「ホントだよ、今人間の若い子は挨拶もロクにしなくなったって聞いてるのに。テレビで見たから知ってるよ」
「将大さんは子育て上手だな。うちの息子にも見習わせたいぜ」
初めて会う動物たちに散々に褒められて、誠一は耳の先まで真っ赤になってしまった。冷夏で暑くもないのに額から汗が垂れる。
「そう、これからは将大さんに代わってこいつが山を守ることになるからね。困ったことがあったらじゃんじゃん相談してね」
鏡花がバシバシと誠一の背中を叩きながら皆に号語する。動物たちは賛同の声を上げた。
「よし、これであんたも正式に山の守人として認められたのよ。これからは私と一緒にここら一帯の平和を守っていくことになるんだから、誇りに思いなさいよ」
けらけらと笑う鏡花を尻目に、誠一は頬を膨らませていた。