第一章 天狗の狩衣 その2(写真あり)
「誰だよ、会わせたい人って?」
「まあ、ついてこい」
裏庭で幻想のような現実を体験してひとしきり騒いだ後、誠一は祖父に言われるがまま装束を携えて近所の『白鹿神社』に連れて行かれた。
この神社は山の麓にひっそりと建っている。
延々と広がる田んぼを前に、今にもポキリと折れてしまいそうなほど朽ち果ててしまった鳥居をくぐって雑草の繁茂する石畳の参道をしばらく進むと、物置ほどの大きさの木造の社がある。それが白鹿神社唯一の社殿だ。
鬱蒼とした木々のトンネルに覆われた参道には木もれ陽も届かず、何年も放置されているようにしか見えないこの神社は昼間でも薄気味悪い。誠一も小さい頃は怖くて滅多に近寄らなかった。
そして誠一にはもう一つ、この神社に近寄りたがらない理由があった。この神社の裏には、近辺を流れる比較的大きな河川である白見川の分流が通っている。この白見川の上流こそ、父の遺体が見つかった場所だった。
ひょこひょこと石畳を踏み渡る祖父の後ろを誠一は雑草を踏みながら、先ほどの装束の入った木箱を抱えて追った。
普段温和な祖父が何があってもこれは落とすなと厳しく言ってきたので、誠一は面食らっていた。連日の雨のせいで雑草が湿り、お気に入りのニューバランスのスニーカーは既に葉クズまみれになっている。
気味悪い山道を抜け、ようやく社が見えてくる。建造されてからちゃんと補修されてきたのか疑う程、痛みの激しい小さな社が。
「お待たせしたのう」
一足先を行く祖父が立ち止った。誰かいるようだ。誠一も足を早めて祖父の隣に並んだ。
誠一が見たのは、古ぼけた社の階段にちょこんと座り込む黒髪の女の子だった。
「あ!」
思わず声を上げてしまった。そこで待っていた人物は、誠一の幼稚園時代からの幼馴染で、今の同級生でもある田尻鏡花だった。
肩にかからない程度の長さのストレートヘアと、薄雪草のような白い肌はなかなかに可愛らしいが、その目つきは非常に鋭く、眼の合う者全てを拒絶しているかのよう。
そしてさらに、鏡花は緋と白の装束、いわゆる巫女の装束を纏っていた。それを見るなり誠一はすっかり忘れていた事実を思い出した。
確か鏡花はこの神社を代々守ってきた家系の子で、祭りの時にはよく巫女の格好をしていた。
「何よ、私が出てきて不服?」
鏡花は祖父への挨拶もほどほどに、早速誠一をその威圧的な目で睨みつけた。
「いやいや、そんなんじゃなくてさ」
誠一は首を横に振った。幼稚園に上がる前から活発で物怖じせず、思いついた遊びをすぐに実行する行動力に溢れた鏡花は子どもたちにとって頼りになる存在だったが、同時に頭に血が上りやすくすぐ喧嘩を起こしたり、どうでもいいところで頑固だったりするので、トラブルの種でもあった。
そしていつも決まって鏡花のとばっちりを食らうのが誠一だった。これは絶対に面倒事に巻き込まれる。経験則から瞬時に結論が導き出される。
「ふうん、まあいいわ。とりあえずマコト、あんたこっち来てくれる?」
マコトとは誠一のあだ名だ。名前の訓読みが由来で、クラスメイトの大半がこのあだ名を使っている。一年生の頃、クラスメイトの男子が誠一の名を見て、一の字を読み忘れマコトと呼んだことが起源である。
「こんな所でこれから何するんだよ」
「あんたの襲名の儀式よ」
「は?」
何を言いたいのか分からなかった。ただの農家の俺が、何を襲名するんだ?
「襲名て何をだよ。俺が継ぐものなんて家と田んぼくらいだぜ」
「まだわしは死んどらん」
祖父が横から鋭く言葉を挟んだ。
鏡花がはははと笑うが、眼は相変わらず鋭いままだ。
「家とかじゃなくて、あんたのお父さんが今まで引き受けてきた役を稗貫家の長男であるあんたがやらなくちゃだめ、てことなのよ」
父さんの役目? 何のことやらさっぱりだ。
死亡した誠一の父、稗貫将大は生前、警察官だった。
高校卒業後、地元の警察署で20年以上勤めていたが、去年の7月、日曜日に家を出た切り行方不明になり、翌日の朝、東部の山中の渓流で溺死体で発見された。その川こそ件の白見川の本流だった。乗用車は下流の山道で見つかったという。
どうして父が家族に何も言わず山に入ったのか、なぜ川で溺れ死んでしまったのか、その理由は誰にも分からない。結局詳しい経緯は不明のまま、父の葬儀は行われた。その後、事件・事故の両面で警察の調査が進められたものの、手掛かりは一向に掴められず、調査は打ち切られたのだった。
「あんたは何も知らないでしょうけれど、実は稗貫家とこの神社には深いつながりがあるわけよ」
鏡花は続けた。祖父も無言で頷く。
「あんた、自分の家に天狗からもらった狩衣があるってのはもう聞いたわよね」
「ああ、ついさっき知ったよ。これのことだろ」
誠一は手に持っている木箱を鏡花に突き出した。そうそうこれ、と鏡花が指差す。
「何でお前がそんなこと知っているんだよ?」
「実はね、あんたのお父さんはいつもそれを着て、山と人間の関係を守ってきたのよ」
「へ?」
素っ頓狂な声が出てしまった。父は確かに警察官として町の平和を守ってきたが、山と人間の関係とは何のことだろうか。しかもあの狩衣を着て。
「昔から神事の時には、稗貫家の男子があの服を着て、町の人に人間離れした力を見せつけていたの。あれを着たら腕力も脚力も天狗並みになれるからね」
「ああ、それはもう体験済みだよ」
誠一がちらりと祖父の方を向くと、祖父はにやりと口角を上げた。
「なら丁度良いわ。そんな超人見たら誰だってびっくりして、天狗の力を畏れるわよね」
「まあ、そうだろな」
「そうやって畏れ敬う心がどこかにある限りね、あの狩衣は並外れた力を引き出せるようになるの。信仰心が超常現象を引き起こしてしまうとでも言っておけばいいかしら」
うまいこと言ったでしょ、とでも言うように得意げな目で誠一を見つめる鏡花。その眼差しが自分の心の奥底まで見透かしているように思えてしまい、誠一はつい視線を反らせてしまった。
「確かにね、ありゃ誰でも畏れるだろうよ。でも、父さんはどんなことをしていたのさ? 夏祭りにあんな服着ていた覚えは無いぜ」
「元々その神事は一部の人しか知らないものなの。天狗とかの妖怪は多くの人間に存在を知られることを嫌うから、ごく少数の人間と接して、お酒や衣服とかを手に入れていたそうよ。今の時代では町全体で秘密を守り続けるのも難しくなったから、神事のことを知るのは稗貫家と、神社と、あと関係の深い数軒だけ」
誠一が頭を掻いていると、ふと父の姿を思い出した。
そういえば父は自分の幼い頃から度々、夜に神社の会合に参加するとか言って出て行っていた。休日でも散歩してくると言って、一日中帰ってこない時もあった。まさかあの時に……。
「そしてあんたのお父さんにはね、もう一つ重大な役目があったのよ」
回想にふける誠一を鏡花が呼び戻した。
「それは山と人里の争いを内密に片付けること」
「へえ……つまり、どういうこと?」
今一つ抽象的過ぎて理解できなかった。鏡花がちっちと指を振る。
「昔から言われているように、ここら辺の山には多くの妖怪たちが住んでいるのよね」
「21世紀で聞くようなセリフじゃないと思うけど、天狗の狩衣が現実に存在するのなら他の妖怪がいても不思議じゃないよな」
「そうね。そこで、もし山の妖怪が人間に干渉しようとした時には、稗貫家の男は狩衣を着て妖怪のトコに行って、色々と問題を解決するわけよ。話し合いで終わることもあれば、相手を退治しなければならないこともあるわ」
「まあ、よくは分からんけど、とりあえず何か問題が起こったら、父さんが解決していたってことでいいのか?」
「そうよ。お父さんだけじゃなくて、あんたのお爺さんも、曾お爺さんも、そのまたお爺さんも、ずっとその役目を果たしてきたのよ」
「じいちゃんも?」
誠一は驚いて祖父に向き直る。祖父は何も言わずに頷いた。衝動的に憤りを覚えたが、口を曲げる程度で堪えた。
「……ああ、みんな知っていて俺だけのけものなのね。そんな秘密、さっさと教えてくれても良かったのに」
「誰でも最初はそんなこと言うわ。私だってその狩衣のことを知ったのは10歳になってからよ。それまでは私のお母さんがあんたのお父さんのサポートをしていたんだから。それよりあんた、せっかく狩衣持って来たのなら、ちょっと着てみせてよ」
鏡花が誠一の持っていた木箱をぱっと奪い取り、すぐさま中から狩衣を取り出した。外の光の下で、布の白は一層輝いて見えた。
「嫌だよ、恥ずかしい」
「いいでしょ、減るもんじゃないし」
祖父が後ろから誠一を押さえ、鏡花がテキパキと狩衣を着付けさせる。いくら足掻いても無駄だった。あっという間に白一色の装束を誠一は纏うこととなった。
鏡花が誠一の姿を360度あらゆる方向からじろじろと見つめる。凝視する鏡花の目付きはまさに蛙を睨む蛇そのものだ。
「ふんふん、なんか頼りないけど、似合ってるんじゃない?」
「頼りないは余計だ」
「それじゃあこれから山のみんなにあんたの晴れ姿を見せに行くわよ!」
「山のみんな? 誰のことだよ」
「そりゃああんた、河童とか、動物たちとか、山に暮らす種族の頭たちに決まっているでしょ」