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第五章 淵神の祀り その7

 暗い暗い山の中、遠野盆地を横切るとある川の上流。夜には漆黒の闇が支配するこの空間に、この時だけは明かりの行列が作られていた。


 川に沿って敷かれた土のむき出しになった山道を、20ほどの灯が揺らめきながら同じ方向へ進んでいる。


 その灯の正体は提灯だった。湿った土を踏みしめながら、一人につき一つ、提灯を前に突き出しながら人々が歩いている。参列者は老若男女問わず、着物や袴で着飾っていたが皆の足取りは重苦しく、顔つきも険しかった。


 その人々の中で、ただ一人提灯も持たずにすたすたと歩く者がいた。綾乃だった。


 純白の衣を着込んだ綾乃は口をつぐみ、どこか遠い所だけを見つめているような表情で、ペースを崩さずに歩き続けていた。木の葉が頭の上に降ってきても払おうともしないので、隣を歩いていた母親がそっと払った。


 参列者の先頭にはいつもの巫女服を着た鏡花がいた。普段は活発な鏡花もこの時ばかりは背中を丸め、地面を見ながら歩いていた。


「……ああ、先輩はロボットみたいになってしまった。これで苦しまなくて済むとは言ったものの……」


 ぶつぶつと誰にも聞こえない声量で呟きながら、どうにか先輩を助ける方法は無いかと考えを巡らすが、何も浮かばない。川の神がどんな大災害を起こすか分からない以上、先輩を差し出すのが最良の決断なのだが、そんなことは絶対にしたくない。


 鏡花のすぐ後ろに、晴れの日の袴を着こんだ誠一の祖父と、鏡花の両親も続いていた。皆、他の参列者と同様に俯きながら足を引きずっていた。


 そんなこんなしている内に、一行は開けた場所に出た。山中に形成された淵だ。他の場所よりも深く、多くの水をたたえるこの場所は流れが緩やかで、川幅も広い。


 過去には人身御供も行われた、いわくつきの場所でもある。


 誰に言われるまでもなく、河原に整然と並んだ一行は、ぼうっと川面を見つめていた。


 鏡花が袖から懐中時計を取り出し、覗き込む。


「もう11時50分。もうすぐ日付も変わるし、始めましょうか」


 そう言い放ったと同時に、綾乃の母親がわっと泣き出した。それにつられて父親が涙ぐみ、弟がぎゃんぎゃんと泣き喚く。


 鏡花の父親が3人を岩に座らせなだめるが、綾乃は終始真っすぐ前を見つめるだけで、何も喋ろうとしなかった。


 誠一の祖父と鏡花の母親をはじめとした地元の住人が一辺2メートルほどの正方形の頂点の位置に、持ってきた松明を突き刺す。そして、地面に突き刺さった松明にライターで手早く火を灯す。油の染み込んだ松明はすぐに巨大な火柱を上げ、ぱちぱちと火花を散らせた。


「先輩、綺麗ですね」


 氷のような綾乃の顔と燃え盛る炎を見比べながら、鏡花は話しかけた。


「よくマコトが先輩のことを話してくれていました。演奏がうまくて、頭が良くて、気立ての良い、凄い先輩だって。最期にマコトに会えないのは先輩にはどういうことかはよく分からないけれど、あいつにとって先輩にサヨナラを言えないことは絶対に後悔の種になるでしょうね。きっと私達、あいつに恨まれるわね。でも、これでいいのよ。あいつのためにも……」


 鏡花はくるりと振り返り、鼻をかんだ。


「先輩、私達の力足らずでごめんなさい」


 鏡花は綾乃の側を離れた。同時に、見開かれたままの綾乃の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。誰に気付かれることも無く、一滴の涙が河原の石に跳ね返る。


「さあ、始めましょう」


 袖で目をこすり、鏡花は周りに合図を送った。


 鏡花の母が綾乃の手を引き、四本の松明の中心に立たせた。


「川の神様、川の神様。お約束通り嫁を連れて参りました。どうかその姿をお見せください」


 鏡花が両手を合わせ、とくとくと流れる川に向かってぶつぶつと呪文を唱え始めた。途端に、淵の中央部の水面が陥没し、その周囲の水流が激しさを増す。一行からざわめきが起こった。


 やがて陥没部は渦巻き始め、流れる落ち葉や木の枝を水底に引きずり込み始めた。落ちれば一貫の終わりだ。


「さあ、先輩」


 鏡花はすっと身を引く。河原に出て以降、ずっと立ち尽くしたままだった綾乃の足がゆっくりと、前に出る。


「綾乃、綾乃!」


「くそ、何でうちの娘が!」


「うわあああああん、お姉ちゃん!」


 家族の声が無情にも響き渡る。それを気に留めることも無く、綾乃は歩く。もうすぐで片足が水に浸かってしまうという、まさにその時だった。


「その生贄、待ったあああああああああああああああ!」


 足を突き出したまま動きを止めた綾乃を除き、一同が同じ方向を向いたまま、ぽかんと口を開け固まってしまった。


 彼らの視線の先、対岸の崖の上に、夜だと言うのに人影がうごめいている。


 全身を純白の狩衣を纏い、頭に烏帽子を被った、赤い顔の長い鼻……天狗だった。左手に刀を握った天狗が崖の上で両手を広げていた。


「私は早池峰山の天狗である。悪い神が可憐な少女を生贄にさせようとしていると聞いて、やって来た」


 妙に声の高い、わかりやすい語彙を使う天狗だなあ、と誰もが思っただろう。しかしそれ以上に、あまりにも突然の登場に、一同の頭はついていけていなかった。


 天狗は携えていた刀の鞘を外す。松明の炎を反射した刀身がまばゆく輝き、参列者の一人が「わお」と声を上げた。


「川の神め、成敗いたす!」


 鞘を腰に差し、両手で刀を構えた天狗は崖から飛び降りた。見ていた人々がわああと沸き立つ。天狗は空中で刃先を下に突き出し、落下による重力で加速する。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 天狗は水面を突き刺す体勢で落下を続け、そのまま渦の中心に着水した。水飛沫はほとんど立たず、天狗はまさに水に呑みこまれた。


 しばらくして渦が消え失せ、淵は元の穏やかな水流に戻ってしまった。


 その場にいた人々が口々に話し始め、またもざわめき始める。


「何だったんだ、今の。渦も消えちまったぞ」


「もしかして、今の天狗が神様を倒したんじゃ?」


「まさか、な」


 参列者が思い思いに騒ぎ始めていると、穏やかな水面に一つの泡がぷくりと浮かび、弾ける。


 それに気付いた一人が「おい、見ろ」と水面を指差す。一同は水面に目を凝らした。


 一つ目の泡が現れたのと同じ場所に二つ目、三つ目の泡が現れる。さらに泡は発生し続け、ついには途切れ無くぶくぶくと泡が生まれ続けるようになった。


「何だ何だ?」


 一同の注意が完全に泡の発生源に向いていたその時、一瞬水面が盛り上がり、次の瞬間には大量の水を撒き散らしながら、巨大な大蛇が飛び出した。


 半身だけで大人の男六人ほどの長さの巨体が起こした水飛沫は凄まじく、高潮のようになって参列者らを濡たした。


「わあ、なんだこいつは?」


「これが川の神様?」


 全身濡れ鼠になったにも関わらず、人々の関心は突如登場した大蛇に向けられていた。


 大蛇は激しく身体をうねらせ、頭部を岩や木にぶつけている。深緑の鱗が赤い血で染められていく度に、大蛇は「ゲギャー」という悲痛な叫び声を上げていた。


「見て、頭に天狗が!」


 若い女が大蛇の頭を指差した。


 見てみると、大蛇の目と目の間に、乱暴にうねり続ける身体に必死にしがみつきながら、何度も何度も刀を突き刺す天狗の姿があった。既に大蛇の両目はえぐられ、おびただしい量の真っ赤な鮮血が噴き出している。


 天狗も返り血を浴びて刀身や烏帽子を赤く染め上げていた。だが不思議なことに、狩衣だけは一切汚れること無く純白を保ち続けていた。


「ええい、さっさとくたばれっつーの!」


 天狗は鱗の隙間に左手を突っ込み、右手で剣を抜き刺しする。大蛇が頭を振り回し、天狗を払おうとするが天狗はうまい具合に身体の位置を変えて落とされないようバランスを取っていた。


「いいぞーやっちまえー!」


 一人の男性が声を上げた。腕を突き上げ、天狗に激励を送る。


「川の神様をやっつけろー!」


 別の男も続いた。


「あ、あんた頑張りなさいよー。早池峰の天狗でしょ。そんな神様、やっつけておしまいよ!」


 茫然としていた鏡花が我に返り、両手をメガホン状に丸めて声を張り上げる。


 それに続き、別の人間、また別の人間が天狗の応援をする。


「いけ、そこだ!」


「頑張れ、頑張れ」


「天狗さん、頑張ってー」


 いつの間にか一行の誰もが跳び上がり、手を振り声援を送っていた。水がかかってもなおずっと静止したままだった綾乃も腰が抜けたように倒れ込んだ。家族が駆け寄り、別の場所に移す。


 大蛇の動きは刀が突き刺さるごとに鈍くなり、叫び声も弱々しくなっていく。


「どりゃあ!」


 隙をついて天狗が刀を両手に持ち、全体重をかけて眉間に刀を突き刺す。刀は鱗の間隙を縫って皮膚を、上顎の骨を貫き、鋭い牙の生え揃った口の中まで刃先を貫通させた。


 大蛇はこれまでに無い奇声を発した。周囲の木々が揺れ、木の葉が舞い落ち、河原の人々が両耳を押さえる。


 雄叫びをやめると同時に、大蛇の巨体は切り倒された大木のようにゆっくりと傾き、人々のいる河岸と反対の方向へと倒れていった。倒れ込んだ大蛇は凄まじい破壊音を伴って、大岩を砕き、木々をなぎ倒し、最後には爆発音に似た轟音を響かせ地面に打ち付けられた。


 煙のように砂埃が舞い、岩の破片や折られた木の枝が人々の側にも降りかかる。


「や……やったの?」


 鏡花が咳込みながら、対岸に倒れ込んだ大蛇の身体に目を凝らす。


 血まみれの大蛇はドライアイスのように、しゅうしゅうと白い煙を上げながら徐々に徐々に色彩を失いつつあった。緑の鱗も赤の鮮血も白っぽくなり、身体が透け始めていたのだ。


「消えていく……川の神様が消えていくわ!」


 鏡花の声に合わせ、一同から歓声が上がった。ある者は両手を振り上げ跳び回り、ある者は感極まってその場に座り込んで泣き叫んだり、ある者同士は互いにがっしりと抱擁し合った。


「奇跡だ、奇跡が起こったんだ!」


「やったぜ、ありがとう天狗様!」


「うわああああああああん、綾乃ちゃんよがっだねえええええ!」


 各人が思い思いに喜びを表現しているので、騒がし過ぎて誰が何を言っているのか全く分からない。幼稚園の休み時間の方がよっぽど静かにすら思えてくる。


「やったあ、先輩が助かった!」


 鏡花も両親の腕を握って跳び上がる。鏡花の父母は二人とも微笑んでいた。


「おい、もう完全に消えるぞ」


 一同が対岸を見てみると、すっかり霞のように薄くなってしまった大蛇の身体がさらに空気中に白の煙を上げながら、姿をどんどん消してゆく。ついに闇と完全に同化してしまい、煙も上がらなくなってしまった。


「あれ、天狗はどこだ?」


 そう言えば……。誰もが頭をきょろきょろ振り、先ほどの天狗の姿を探す。ダイナミックに倒れる巨体に気を取られ、すっかり目を離していたのであった。




 天狗は川の上流へと、岩の上を跳びながら向かっていた。


 川幅が広く流れが緩やかになったある場所で、大岩の上に降り立つ。


「ああ、しんど」


 天狗は岩の上に座り込み、両足を水に付くか付かないかの高さでブラブラさせていた。


「やったね、誠一君!」


 突如、川の中からハジメが現れた。頭の皿のすぐ横に、痛々しいたんこぶがぷっくりと膨らんでいる。


「ああ、まさか本当に上手くいくとはなあ」


 天狗は顔に手を当て、外した。出てきたのは誠一の顔だった。


 読者の方はお気付きかと思うが、天狗の正体は誠一の変装だった。祭用の能面と下駄、袴に烏帽子を着ていた上に夜だったのでばれることは無かったようだが。


「誠一、大丈夫か?」


 ハジメのすぐ後ろからシンベエが顔を出した。


「シンベエさん、大丈夫です。無傷ですし」


「そうか、なら良かったんだが……。うちの愚息があんたに田村麻呂の剣を探させるなんて、とんでもなく危険なことをさせたって聞いたもんだから、あんたの身に何かあったらどうしようかと冷や冷やしていたんだ……こら、ハジメ。お前はもう一遍謝ってろ」


 シンベエがこつんとハジメの頭を小突いた。よりによってたんこぶにクリーンヒットしたようでハジメは「ぎゃっ」と声を漏らした。


「誠一君、ごめんなさい」


「いや、いいよ。元から危険だってことは聞いていたからね」


 誠一は苦笑した。


「それじゃあ今日はもう遅いから帰るね。母さんも心配しているだろうし、この剣と衣装も返さなくちゃいけないしね」


 誠一は立ち上がった。


「おお、帰り道は森を通った方がいい。人間に会わなくて済むからな」


 シンベエが言い終わるや否や、誠一はこくんと頷いて森の中に消えていった。

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