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第五章 淵神の祀り その5

 最初に耳に飛び込んできたのは、激しい水流の音。


 瞼を上げると、きらきらと輝く砂粒のような星々、天蓋を横切る天の川がまず網膜に映り込んだ。


 首を上げると、昼間と変わらぬ水飛沫を上げる渓流が両足の届きそうな所にまで迫っていた。


 自分の身体は河原の大石の上で寝かされており、御丁寧に狩衣も外され、近くの木に引っかけられている。なんと靴まで岩のすぐ下に揃えて並べられていた。


 そして上流に目を向けると、星明かりを反射して、大滝がうっすらとその姿を現していた。


 直径10メートル程度の球状の巨石の上を水が覆い尽くし、滝壺にドドドドと絶え間無く轟音を立てて流れ落ちている。


(お前ならできる。さあ、あの滝を上るのだ)


 結局男なのか女なのか、よく分からない大蛇の声が届いた後、誠一は頭を掻きながら上半身を起こした。


「ふう、本当にワープしたみたいだな」


 誠一はふと空を見上げ、ある星を探し始める。


「お、あったあった」


 東の山際からちょっと上の辺りに少しばかり赤く輝く星を見つけた。夏の星空の中で最も赤く輝く恒星、さそり座の一等星アンタレスだ。


「北極星があそこだから……大体八時くらいかな」


 普段なら晩ご飯も食べ終わって、テレビの前でごろごろしているところであろうか。


 母親と祖父には何も言わずに飛び出してきたので、きっと心配しているだろうと想像したが、今やるべきことは別にあると、自分自身に言い聞かせる。


「よし、行くか!」


 靴紐を縛り直した誠一は大滝を目指し、河原を歩み始めた。


 同じ滝を見ているはずなのに、まだ陽の昇っている時に見た姿とは随分と違った印象を夜の滝からは受ける。


 暗闇ゆえに全体像はほとんど見えない。水煙の中に至っては雲の中のよう。ほとんど前が見えない一方で、水音だけは全く衰えないので、滝が昼間よりもずっと巨大なもののように思えた。


「……ひとつ質問してもいいか?」


 傾れ落ちる大量の水を見つめながら、誠一が夜闇に語りかける。


「父さんがこの滝に挑んだのは事実なんだろう。でも、父さんが見つかったのはこの川じゃなくて、別の川だ。車もその川で見つかっている。あれもあんたが動かしたのかい?」


 元々返事など期待していなかった。既に試練は始まっているのだ。しかし、意外なことに大蛇はすぐに答えを返してくれた。


(その通りだ。聖域の側に人間の死体があるのはケガレになるからな。別の川に移しておいた。勝手なことだと思うかもしれんが、許せ)


 誠一は無言だった。父の遺体を移動させたのには大蛇にとってもそれなりの理由があったのであろうが、そもそも父に無理難題を押し付けて殺してしまったことにやるせない憤りを感じていた。


 滝のすぐ脇まで近寄り、靴のまま右足を川に突っ込む。耐水性に優れる登山靴にも止めどなく冷水が入り込むが、全く気にしない。左足も水につけ、じゃぶじゃぶと水を蹴り分け滝に近付く。


 水飛沫が服にかかりそうな所まで滝に近付くと、急激に水深が増し、今までせいぜい膝辺りだったのに一気に腰まで冷水に浸かる。誠一は深みにはまらないよう、足の裏で水底を確認しながら慎重に進んだ。


 ようやく滝の下の突き出した岩石に手をかけ、上り始めた。誠一の下半身から滝のごとく雫が垂れる。


 ここは滝の裏側のすぐ横で、うまい具合に水が通らないようになっている。しかし、跳ね返った水飛沫のせいで岩の表面は常時湿っており、苔も生い茂っている。いずれにせよ、簡単に上ることはできない。


 でも、やらなくちゃ。


 誠一は丁度目の高さにあった岩の割れ目に手を突っ込み、岩の比較的勾配の緩やかな部分に足をかけて自分の身体を持ち上げた。朝から僅かなお菓子ぐらいしか食べていないのに、この力はどこから湧いてくるのだろう。


 この滝はほぼ全体が一つの大岩なので、手掛かり足がかりを見つけるのが非常に難しい。


 いつだったか、河童の畑に通じている崖を上ったことがあったが、あの時はごつごつとした岩が何個も積み重なっていたために容易に足場を見つけることができた。しかし、今回は表面がほぼ同じ平坦な様相で、しかも水滴で濡れているために上りにくさは半端無い。僅かな割れ目や隙間を見つけては手足をかけ、水で滑らないように踏ん張るのは余計に力が要る。


 夜闇のせいで下の景色が見えないため、逆に高さに委縮しなくてもよいのが唯一の救いであろうか。


 ごうごうと唸る水流の大音量は誠一には聞こえていなかった。ここまで心を研ぎ澄ませたのは期末テストの時ですら無い。


 二本の腕と二本の足のそれぞれに過不足無く体重をかけて、バランスを取り、岩肌にしがみ付く。動かすのはその中の一本だけ。他の三ヶ所は常に引っかけながら、残る一本を手探り足探りで新たなポイントを探す。


 水流に当たらないだけ幸運であるが、湿った岩は滑りやすく、ゆっくりと、細心の注意を払いながら上らないとすぐさま地面に、運が良くて滝壺に真っ逆さまである。途中からは1分で1メートルという超スローペースで、誠一は岸壁を移動していた。


 もう何メートル上ったかは分からないが、まだ上り切ったとは思えない。僅かに見える前方には、つるつるの岩肌が手の届く程度まで広がっているだけだった。水煙のせいで視界は最悪だ。


 誠一の四肢は限界だった。指先は疲労と冷水で感覚を失い、ちょっと開いた状態のまま固まってしまった。


 太股や二の腕の筋肉は悲鳴を上げ、大男に握られているかのように痛む。狩衣があればこんなことでもラクラクにできるのに。


 でも、負けられない。俺はこれを越えるんだ。


 自分が動かしているのか、それとも勝手に動いているのか、分からなくなってしまった右手を伸ばし、手ごろな窪みに引っかける。次に左足をゆっくりと上げる。これを岩肌から僅かに突き出した部分に乗せ、身体全体を持ち上げた。


 そのままの勢いで左手も闇の中に突き出す。岩肌に手の平をスライドさせ、掴めそうな場所を手探りで探す。10秒ほど、つるつるの岩の表面を撫で回し、誠一は舌打ちをした。


「……手掛かりが無い」


 仕方無く左手を先ほどまで掛けていた窪みに戻し、次に右手を真横の方向に伸ばした。すぐにごつごつした岩肌に手が触れる。


 ここならいける。

 誠一は岩肌の出っ張りをがっしと掴み、右足も手ごろな足場に運んだ。身体で大の字を描くような体勢をとり、右側にゆっくりとずれ込む。左手足を今まで右手足の置かれていた場所に移し、身体全体を水平に右に移動させた。


 そこから右手を伸ばすと、すぐに新たな窪みが見つかった。誠一はふう、と息を吐いた。


「よし、もうちょっとの辛抱だ」


 誠一は右手の指をフック状に固め、窪みに引っかけた。


「うわ!」


 しかし、引っかけたと同時に違和感を覚え、すかさず手を戻してしまった。危うくバランスを失いかけたが、両足で踏ん張ったので何とか落下は防いだ。


「ここ、水が入っているぞ」


 今しがた右手を掛けた窪みには水が溜まっていた。止水とは言え渓流の水はかなり冷たい。だが問題はそれだけでは無かった。


「くそ、ぬめってる」


 水溜まりの底は油でも塗っているかのように、ぬるぬるとぬめっていた。


 清流の石などを触って、ぬるぬるとした感触を経験した方々も多いと思う。あのぬめりの正体は、石にびっしりと張り付いた珪藻などの植物プランクトンだ。誠一が手を掛けた岩の隙間にも、外敵から隔離された環境で珪藻が大量発生していた。


 誠一は右手を別方向に伸ばし、新たな手掛かりを探す。しかし丁度手の掛けられそうな出っ張りは無く、窪みにはことごとく水が溜まり、同様にぬめっていた。


 絶望ってのはこういうものなのか? 


 誠一は元の位置に右手を戻し、岩肌にへばりついたまま呼吸を休めた。今更になって、全身から汗が噴き出す。いや、噴き出したところですでに全身は水に濡れていて、どこからが汗なのかすら分からなくなっているのだが。


 決まったリズムで呼吸を繰り返しながら、誠一は物思いにふける。

あの大蛇の言うことが正しいとしたら、父も今自分の上っているのと同じ岩壁に挑戦し、そして失敗した。


「なあ、また、質問、しても、いいか?」


 誠一は岩肌に顔を向けたまま、話し始めた。水音に負けないよう、かなりの大声を出すが、声は息に負けて乱れてしまう。


「父さんは、この滝を、どこまで、上ったんだ? 俺よりも、上ったのか?」

 返事は遅れてやってきた。誠一が尋ねて、五度ほど呼吸を繰り返してからだ。


(……お前の父もお前と同じ場所を上っていた)


「父さんも?」


 はあはあと声を荒げながらも、誠一は不意に声を上げた。


(そうだ。この滝で上れそうな場所はそこしか無いからな。そして、お前の父は今まさにお前が手を掛けているところで滑り落ちてしまったのだ)


 誠一は硬直した。思考がストップしたと言えばより正確かもしれない。


(私とて好んで人間を殺すような趣味を持っているわけではない。やめるなら今の内だ。お前も父の後を追いたくはなかろう)


 誠一は手の力が緩み、身体が傾きかけるのを感じた。心臓が一度だけ激しく高鳴ったが、手に力を戻し身体と意識を元に戻す。


 まさか自分の今つかまっているこの窪みが、親父の死地なのか? 親父の最後に触れていた場所なのか?


 誠一の手足に鳥肌が立つ。


 ここは親父の運命を決した場所。そして俺も今、同じ場所にいる。


 誠一には何の変哲も無いはずの岩の窪みが、自分の運命の終着点のように思えてならなかった。手を離した瞬間に、岩壁から落下する自分の姿が勝手に思い描かれた。


 逃げたい……誠一の脳内にそのような感情が湧き上がる。


 今までは先輩を助けるという思いをもって、ある種の勢いだけで猪突猛進してきた節がある。


 しかし一人の人間を助けるために、なぜ別の人間が命を張らなくてはならないのか。まして山と人里を守るという重要な役割を担う稗貫家の者が。もしも失敗してしまったら、次は誰が狩衣を着て山を守ると言うのか?


 誠一は海辺のヒザラガイのように岩にじっと張り付いていた。


(確かに、お前の父は私の試練に失敗してしまった。だが、これだけは言っておこう。お前の父は勇敢であったと)


 誠一は首を上げた。


 父さんもきっと同じようなことを思ったはずだ。でも、父さんは決してやめなかった。そうだ、これは俺にしか、稗貫家の男子にしか、山を守る者にしかできないことなんだ。


「ここまで来たんだ。もうやるしか無い」


 誠一はわざと大きい声を出し、自身を鼓舞する。一度は引っ込めた右手を再び伸ばし、水の溜まった窪みに引っかけた。水底はぬるぬるするが、水の溜まっていない縁の辺りはぬめりが無い。


 誠一は深く指をさし込み、次に左足を持ち上げた。更に左手、右足、再び右手と繰り返し移動させ、少しずつ、確実に岩肌を上る。


 水の溜まった足場が多くなるにつれて、岩肌全体も滑りやすくなる。しかし同時に、壁のようだった岩壁も徐々に緩やかになってくるので、誠一にとっては意外と上りやすくなった。


「あと一息だ!」


 冷え切った身体に鞭打って、一気に傾斜を上り切る。足場も多いので、今までとは段違いのペースですいすいと上ることができた。


 気が付くと、岩肌は手を離しても立っていられるほどの緩やかな傾斜となり、誠一は二本の足だけで立ち上がり、歩き始めた。


 三歩ほど進むと、足に冷たい水飛沫がかかり始めた。暗くてよく分からないが、水の跳ね返る音がすぐ近くからも聞こえることから、すぐ足元にはかなり激しい流水が横たわっていることが容易に想像できる。


 誠一は滝を上り切っていた。恐らくは父も挑み、失敗した試練を、誠一は乗り越えたのだった。

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