第五章 淵神の祀り その1
えらいことになった。
天狗の衣を羽織った誠一はひとり、ひたすら河童の淵を目指して河原を上っていた。
大岩を足場にして次々に跳び移るその姿は白鷺のようだが、先日の戦いで付いた傷の絆創膏がはがせていないのが痛々しい。
盆も終わりに近づいた曇天、その日はいつも以上に冷え込みが厳しい冷夏の極みだった。東の白見山には太平洋から湿った風が吹き付けたために濃い雲が塗りたくられ、山容は巨大なバニラアイスのよう。
空一面が分厚い黒雲に覆われ、時々小雨が降り注ぐ。いっそのこと土砂降りのにわか雨でも一気に降ってくれた方が気分も良いのに、とは誰もが口にする定型句だった。
この前日、誠一は市内の書店に来ていた。
誠一はこの個人経営の書店で電子工作雑誌を毎月購読している。ロボットのおもちゃやスピーカーなどのキットが毎号付録として手に入る日々の楽しみのひとつだ。
顔なじみの書店員さんとおしゃべりを交わし、目当ての雑誌を買って家に向かっていた時だ。雨で湿ったアスファルトの上で自転車を転がしていると、通りがかった一軒の農家の玄関口で巫女姿の鏡花が何やら話し込んでいる。集金かと思い横目で見てみると、玄関には『橋場』と筆で書かれた古い表札がかけられていた。
そうか、ここは先輩の家だったのか。
憧れの先輩である橋場綾乃もまた、この土地に古くから住む農家の子だ。誠一の住む集落とは離れているので詳しい場所は分からなかった。頻繁に通る道ではあるが、他人の家の表札までじろじろと覗いたことは無い。
ちょっとからかってやろうと近くに自転車を停め、サドルにまたがったまま両足を弄んでいた。
一分ほどして鏡花が戻ってきて、道に出たところで誠一に気付く。
「よう、こんなところで何してんだ?」
「ちょっと神社の会合についてお知らせしていたのよ」
鏡花は誠一と目を合わせたくないかのようにつかつかと歩き去るので、自転車を横に着けて並んでやる。
「嘘つくなよ、ここら辺はお世話になるなら土淵神社だろ。お前んちの白鹿神社はもっと東側だろ」
鏡花は深く溜息をついた。
「あんた、頭の回転は早いわね」
鏡花は歩くペースを速めた。誠一も変速のレベルを一段上げて追い付く。
「おいおい、俺は稗貫家の長男だぞ。俺の出動するような問題とは関係ないだろうなあ? 本当のこと言わないと、もし後で助けてくれって頼みに来ても、聞いてやんねーぞ」
「うるさいわね!」
鏡花が誠一を睨みつけた。誠一は硬直し、自転車がバランスを崩したので片足をついてしまった。
鏡花の目は赤かった。何度も何度もこすったように、瞼は赤く腫れ目は血走っていた。
「ああ、すまん」
誠一はそれ以上の詮索を諦め、鏡花を振り返らずに自転車を発進させた。
家に帰った誠一は鏡花のことを尋ねようと祖父を呼んだが、返ってきたのは母の「お義父さんは神社の会合に行っているわよ」という返事だった。
これは妙だな。神社の話し合いなら鏡花が必ず出席するはずなのに、鏡花はついさっき綾乃の家にいたではないか。
鏡花のお母さんあたりが代理を務めているのか、それとも会合というのは実は嘘で、あのじいさんは家族にも言えない秘密の趣味にでも没頭しているのか?
悶々と想像を張り巡らしながら、買ってきたばかりの雑誌を読みつつ祖父の帰りを待つことにした。尤も、『特集・和時計の構造』の最初の一ページを読み終えた時点でそのような疑問は既に頭の片隅にまで追いやられてしまったのだが。
祖父が帰ってきたのは夕方だった。外の景色が紺色に染まり始めた頃、肩を落とした祖父が居間に入ってきたのだった。
「どうしたんだい、じいちゃん」
誠一は遊んでいた格闘ゲームの手を止めた。
祖父の頬はいつも以上に痩せこけたように見え、表情も暗く、同時にピリピリしていた。せわしなく指先も動かしている。
「ん、ただの神社の会合だ」
「神社には田尻もいた?」
「うん」
祖父は答えた。しかし誠一はすかさず「嘘つくなよ」と返した。
「俺、今日本屋からの帰り、田尻と会ったんだ。しかも田尻、巫女服で橋場先輩の家にいたんだぜ」
祖父は誠一に背を向け、机の上に置いてあった新聞を広げて読み始めた。
「それに田尻も何しているのか、教えてくれなかったしなあ。じいちゃん、みんな一体どうしたんだよ。俺にだって教えてくれてもいいだろ? 何隠してんのさ」
祖父は答えようとせず、ただ新聞の文字を見つめていた。
「じいちゃん、じいちゃんてば。答えてよ」
年甲斐も無く祖父の袖を引く。それでも祖父は答えなかった。黙ったまま新聞から目を離さない。
ついに誠一は根負けし、格闘ゲームを再開した。
翌朝、日課である神棚と父の遺影への合掌を済ませた後、誠一は母と一緒に畑へと出かけた。
祖父は朝から神社で重要な会合があると言って出かけている。誠一は祖父の動きをますます不審に思いながらも、大事な畑の世話を優先した。
家の隣の畑で、未だに熟さないナスやトマトが少しでも大きくなるよう余分な茎や葉を切り落とし、雑草を引っこ抜く。土がいつも湿っているので雑草の処理は驚くほど楽だ。
抜いた草を雨のかからない軒下に積んだ後、誠一は一人で出かけた。本当に話し合いが神社で行われているのか、もしそうなら何について話し合っているのか、気になって仕方が無かった。
普段、町内の話し合いは神社の麓にある社務所で行われる。砂利を敷き詰めた簡易の駐車場と季節の花の植え込みだけが特徴の、一階建ての古い木造家屋だ。
誠一は腰を低くして社務所に駆け寄った。運の良いことに窓が開いている。壁際に貼り付き、窓の下に身を屈め、手を耳に当てた。
社務所の中からは話し声が聞こえた。祖父らしき声も混じっている。
「もう打つ手は無い。今年の作物の出来も悪いし、こうするしか……」
「でも、まだ子どもだ。あまりにも可哀想だ」
「仕方無い。俺達も生活がかかっているんだ。しかもこれは俺達だけの問題ではない。日本全体の問題でもあるんだ」
何の話だ? 農業関係の話し合いだとは思うが、『子ども』てのは誰のことだ?
誠一は頭を持ち上げ、ぎりぎりまで耳を近付ける。
「わしも色々と手を尽くしてみたが、無理だ。川の神が相手では、天狗の衣があってもとても敵わん」
「はあ、将大さんがいれば何とかなるかもしれないのに」
これはかなり込み入った話のようだな。天狗の衣が話題に出ているなら、この会合はかなり限られた人物しか出席していないようだ。
「どちらにせよもう決まったことだ。今日の夜12時、儀式を決行しよう」
「気の毒だな、橋場さんの娘さんも。まさか21世紀にもなって人身御供とはな」
危うく心臓が止まりかけた。
橋場さんの娘さんに人身御供だと? 橋場さんの娘さんて先輩のことじゃないのか?
一瞬の内に喉がからからに干上がり、汗が噴き出る。今聞いた『人身御供』の単語が頭の中で反響し続けているので、誠一は頭を掻き毟った。
「それではもう解散、これ以上考えても仕方無いから帰ろう」
途端に社務所が賑やかになった。しかしその声にはいずれも陰りがあった。
誠一は社務所の裏に回り身をひそめる。社務所の玄関が開き、近所の人がそれぞれの家へと帰って行く。
社務所はしんと静まり返ったが、祖父は出てこなかった。
誠一は玄関に回り、社務所に上がり込んだ。
「じいちゃん!」
靴を脱ぐなり怒号を放つ。二部屋続きの和室と、台所しかない小さな社務所が揺れた。
台所から石鹸の付いたスポンジを持った祖父が顔を覗かせる。
「誠一、お前……」
「じいちゃん、何だよ人身御供って。先輩をどうするつもりなんだよ?」
祖父の両腕を掴み、壁まで押し倒す。まだ祖父の方が身体は大きいが、誠一の力は祖父を上回っていた。落としたスポンジから石鹸水が畳にしみ込む。
「……聞いた通りだ。今夜、橋場さんの娘さんは川の神に嫁入りする」
「どうしてだよ? こんな時代に何やってんだよ?」
「橋場家には代々、決して開けてはならないとされる箱があった。開ければ災いが降りかかると伝えられていたからだ。しかし何百年も経つ内に、その箱の重要さが徐々に忘れられていったようだ」
「前置きはいいよ、何で先輩が」
「うるさい、人の話を聞け!」
誠一は両腕を離した。祖父は俯いて話し始めた。
「去年の夏のことだ。橋場さんの娘さんは倉庫の掃除中その箱を見つけ、つい開けてしまった」
誠一は言葉が出なかった。
「箱のことを一度も聞かされたことが無かったそうだから、仕方無いと言えば仕方無い。途端、娘さんは気を失った。その後すぐに目を覚ましたが、それからというもの、家族に私は川の神様の眠りを目覚めさせてしまいました。故に15になれば川の神様に嫁ぎに行かねばなりません、と言いだす。皆ただふざけているだけかと思ったが、それから天候や川の水量を変えたり、川の魚を呼び寄せたりすることができるようになって、誰もが神様の存在を信じざるを得なくなった。今年の冷害も、もし約束を破ればどうなるかという川の神が力の見せつけているからなのだ」
「そんなの、間違ってる!」
誠一は部屋の中をぐるぐる回り始めた。頭を掻き過ぎて髪の毛が全て逆立っている。
「わしらも色々と考えてみたが、ついぞ良い案は浮かばなかった。娘さん本人も何日か前からすっかり神に心を奪われているようで、自分から行くと言って聞かないし、清めの儀式と称して白い着物を着て、水だけを飲んで家から出ない日が続いている。そして明日は娘さんの誕生日、日付が変わると同時に儀式は始まる……」
「くそ!」
誠一は壁を蹴りつけた。天井から吊るされた電灯が振動する。
「お前にはこの話は重すぎると思って言わなかったが、知ってしまったのなら仕方が無い。先輩のことは……」
祖父が首を上げると既に誠一の姿は無かった。ただ吊り下げられた電灯がゆらりゆらりと一定のリズムを刻みながら往復していた。




