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第四章 狐の情 その10

 意識を取り戻したイヅナの目にまず飛び込んできたものは板張りの天井だった。


 手足や胴、身体中あらゆる箇所を包帯でぐるぐるに巻かれ、首にはギブスが装着されている。さらに左半身には心地良い感覚、ふかふかの布団に寝かされていた。


「あ、気が付いた」


 天井の手前に、誠一の顔が割り込んだ。頬やおでこにはバッテン型にテープが貼られ、ガーゼを押さえ付けている。


 イヅナは誠一の家の居間に運び込まれていた。枕元には口を開いたままの救急箱が置かれ、その周りにガーゼの切れ端や包帯、消毒液が散乱していた。


 誠一の隣に座っていた鏡花も一緒にイヅナを覗き込んだ。二人とも山中と変わらず、天狗の狩衣と巫女の装束を着たままだ。


「これ、何本に見える?」


 鏡花は人差し指だけを立て、寝ているイヅナの眼前に突き出した。イヅナは弱々しく「一本」と答え、鏡花はふうと溜息をついた。


「大丈夫そうね。看護師だったマコトのお母さんもそう言っているのだから、もう安心していいと思うけど。さて、何から話せばいいのやら……」


「とりあえず、あなたが気を失った後、何が起こったかお話します」


 誠一は胡坐から正座に座りなおした。イヅナはじっと誠一の顔に目を向けた。


 誠一の話によると、樟慶は即死だったらしい。タイヤに挟まれ、原型も分からないほどに引き裂かれてしまったそうだ。


 樟慶の弟達は族長に名乗り出て、河童や猿の幹部らと話し合って厳正なる処分を受けることになった。狐族は今回の事件で失った信用を取り戻すべく、すぐに組織を再編し、再発の予防に努めると公言した。


「……というのが今、山の妖怪たちとの協議に出ている祖父から電話で聞いた話で、まだ話し合う問題は山積みのようです。僕とイヅナさんは怪我の治療のために家に戻り、今に至るというわけです」


「私もさっきまで山の協議に出ていたんだけど、もう暗くなってきたから一足先に帰ってきたの。樟慶の弟達がひどく反省して、もう何から何まで全部話しているみたいよ。これ以上の調査はもういらないと思うから、これからは怪我の治療に専念してね」


 二人の話を聞き終わって、イヅナは胸が締め付けられる気分だった。


「今回の事件は山の妖怪全体に響いたみたいでね、全妖怪共通の取り決めをもっと重くしようっていう案も挙がっているの」


 鏡花はイヅナの顔と誠一の顔を見比べた。誠一は鏡花の視線に気付いていないようで、心配そうにイズナを見続けている。


「マコト、ちょっとイヅナさんの包帯を付け替えるからこの部屋から出て行ってくれない? イヅナさんも女の子なんだし、ね」


「あ、うん……」


 誠一は立ち上がり、早足で部屋を出た。


 鏡花はハサミを手に取り、イヅナの腹に巻かれた包帯をゆっくり切った。乾燥し、酸化した血液で茶色く汚れたガーゼが外され、新しい真白なガーゼが当てられる。そのガーゼを紙テープで貼り付ける。


「あなたのやったことは間違いじゃないわ。樟慶については残念な結果になってしまったけれど、まあ因果応報てやつかしらね」


 イヅナの顔が引きつった。鏡花は「う……」と声を漏らし、目を反らした。


「そ、それにしてもあなたって凄いわね。人間の中にも会社が悪いことしてるのを暴露する社員とかもいるみたいだけれど、そういう人って正義感溢れてて凄いと思うわ。あなたも……」


「すみません、その話はもう……」


 イヅナは力無く呟いた。鏡花は「ええ」と言い、黙り込んでしまった。イヅナの腹に新しい包帯が巻かれる。


 木製の振り子時計が刻む針の音のみが響く部屋の中で、イヅナは先ほどの夢を思い返す。自分が妖怪狐としての自覚を持ってから、頻繁に見るあの夢の続きを。




 狐の姉弟は逞しい人間の腕により引き揚げられた。後ろから首をがっしと掴まれ、そのまま一気に冷たい水から引っこ抜かれる。


「これは危ないな。家に帰るぞ、急いで温めないと」


 明朗な大人の男の声。姉は既に目を開けることができなかった。僅かに残った触覚と聴覚だけを頼りに、自分が布のようなものに包まれ、人間に抱きかかえられていることだけがなんとか把握できた。


「狐さん、大丈夫かな?」


 甲高い子どもの声もする。


「まだ生きているけれど、かなり危険だ。ほら、急ぐぞ」


 大人の男が走り出したのだろう、姉は左右に揺られ続けた。気分が悪くなったが、そのおかげでなんとか意識を保ち続けることができたのが不幸中の幸いと言おうか。


 しばらくして、ガララと重い物をひくような音がして、男の「母さん、湯を沸かしてくれ、今すぐにだ」という声が響く。


 運び込まれた姉弟には温かい湯に浸けられたタオルがかけられた。


 この時、姉はようやく目を開けた。板張りの天井には蛍光灯が吊るされ、背中に敷かれたタオルの下にはまだ青臭い畳、そして枕元には木を彫り出し、布を巻いて作られたオシラサマの飾られた床の間。


 人間の家の居間だ。頭を刈り込んだ体格の良い人間の男と、真ん丸な顔と目をした人間の子どもが姉弟を覗き込んでいた。


「おお、ちゃんと動けるぞー」


 幼い子供が飛び跳ねた。大人の男も安堵のため息をついている。


「良かったなー、これでもう安心だな、誠一」




「……誠一様」


 無意識の内に、イヅナはぼそりと呟いた。


「ん、何か言った?」


 足の包帯を付け替えていた鏡花が尋ねる。


「いえ……」


 イヅナは黙り込んでしまった。


「はい終わり、と。もう入ってもいいわよ」


 襖が開けられ、小鉢を携えた誠一が部屋に入ってきた。


「イヅナさんの口に合うかはわからないけれど、よかったらこれどうぞ」


 誠一はイヅナに小鉢を差し出す。鉢の中にはなみなみと白い液体、牛乳が満たされていた。


「ありがとうございます」


 イヅナは起き上がり、深々と頭を下げた。そのまま誠一の手から鉢を抹茶の要領で両手でつかみ取り、口に付けた。


 山の中では決して味わうことの無い、濃厚な味が身体の末端まで浸透する。しかし、この味は今初めて知るものでは無かった。まだ自分の幼かった頃、おそらくは10年近く前、何度か口にした味。


 そう言えばあの時も、この部屋で同じものを飲んだっけな。


 イズナの脳裏に幼い誠一の顔が浮かんだ。今改めて目の前の誠一を見てみると、確かに幼い日の名残りを残してはいるが、その顔はどちらかと言えば父親に似ていなくもない。


 イヅナは目頭が熱くなってくるのを感じ、思わず小鉢を更に傾け顔を隠した。




 翌朝、誠一と祖父と母親は家の前の道路で不安げにイヅナを見送っていた。この時イヅナは怪しまれないようにと人間の女の子に化けていた。


「大丈夫かしら、あんなひどい怪我だったのに」


 母親はそわそわしながら誰に尋ねるともなく言い放った。


「まあ、妖怪は怪我の回復が早いものだし、本人も大丈夫と言っておるから、まあ大丈夫じゃろう」


「でも、本当に大丈夫かなあ。山に戻ってもイヅナさんの味方になる狐がいない、なんてこともあり得るし……」


 誠一も手を振りながら、呟いていた。その視線の先には、車一台走っていない農業道路をポツポツと進むイヅナがいた。


 そして薄緑の薄野生い茂る山肌にすっと分け入ると、そのまま稗貫家一同の前に姿を現すことは無かった。


「さあ誠一、お前もこれから協議に向かうぞ。妖怪狐がひとり死んでいるんじゃからな」


「ふう、気が重いや」




 遠野盆地の山中のどこかにある森の中、そこには二つに割れた巨大な岩石が鎮座している。白っぽい色をした花崗岩だ。


 そのひび割れは子ども一人がやっと通れるほどの大きさで、小動物にとっては獣から身を守るためのシェルターになっていた。


 この割れ岩の奥には天然の大空洞が広がっており、土や砂利がむき出しのはずの地面には干し草や落ち葉が敷き詰められている。ここが二尾の妖怪狐イヅナの住処である。


 怪我も全快し、イヅナはさっさと岩の割れ目をくぐろうとしていた、その時だった。


「姉さん、姉さん!」


 割れ岩から小柄な二尾の狐がとび出し、イヅナに駆け寄った。


 不意をつかれたので、イヅナは後ろに一回転して倒れ込んだ。


「姉さん、心配したんだよ! なんでもひどい怪我したそうじゃないか? どうして、たったひとりであんな危険なことするんだよ?」


 跳び出したイヅナの弟は姉に詰め寄った。姉は無言で立ち上がった。


「あなたには奥さんも子どももいるでしょ。迷惑をかけることはできないわ」


「そんな勝手な……それに姉さんの悪い噂がそこら中で立っているんだよ。これからどうするつもりなんだよ、だれも助けてくれないよ?」


「いいのよ、気にしないで。これは私の望んだ結果なのだから」


 イヅナは割れ岩の間をくぐり抜けながら言い放った。


 弟は深い溜息をつき、姉に続いた。


 一陣の冷たい風が吹き抜ける。真夏だというのに、遠野にはまだ梅雨明け宣言が出されていなかった。

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