第一章 天狗の狩衣 その1(写真あり)
稗貫誠一が祖父に呼び出されたのは父の一周忌の翌日、夏休みを目前に控えた曇りの日だった。
その日誠一は中学校から帰ってきてからすぐに、居間に来るよう呼ばれたのだ。
親子三代で同居している稗貫家では、普段から互いに畏まった態度などとることも無い。しかしその日はいつもと様子が違った。
普段なら陽気に話しかけてくるはずの祖父がいつに無く深刻な顔をしている。
時期的に息子の死を思い出してしまったからかもしれないが、孫にはそれが原因だとは思えなかった。祖父は家族の誰よりも早く我が子の死を受け入れ、葬式も納骨もてきぱきとこなしていたからだ。
机を挟んで向かい合うように座る二人。梅干しを舐めているかのような顔をした祖父とのにらめっこは無言のまま続いていた。
「じいちゃん、一体何なのさ?」
痺れを切らして誠一はついに口を開いた。
「ああ、実はお前に教えておくべきことがあってな」
そう言うと祖父は立ち上がり、仏壇の上の天袋をがらりと開け、天袋からは古びた木箱を取り出した。平べったい四角形の、衣類を入れておくのにぴったりなサイズだ。
「何だいそれ?」
「まあ、稗貫家の家宝と言ったところかな」
「家宝?」
驚嘆と疑問が湧き起こる。確かにこの家系は古くからこの土地で農業を営んでいる。古くて高価な物がひょっこり出てきたとしても何ら不思議ではないが、まさか本当にそんなものが存在するとは微塵も思っていなかった。
しかも祖父はその存在を知っていて、自分には知らされなかったときている。あまりにも大切な物なので、孫にすら教えるのは気が引けるとでも言うのだろうか。
俺ってそんなに信用できないのかなあ。誠一は少し悲しかった。
そんな孫の内心を知ってか知らずか、祖父は木箱を丁寧に畳の上に置き、ゆっくりと蓋を開けた。誠一も覗き込む。
木箱の中は、一色の白。
木箱の中一面に、ただ美しい純白だけが広がっている。
誠一は眼をこすり、もう一度目を凝らす。
そしてようやく初めてその白色の正体が木箱の中に詰められた布であることがわかった。箱の中に入っていたのは真白な布で織られた衣服だ。
一点の汚れもムラも無い、雪のような白色の布。金属のような光沢もあるので、素材は絹だろう。
「何だいこれ?」
白い布を撫でてみる。指先が布の上をさらさらと摩擦も無く滑った。
祖父はしわくちゃで豆だらけの手を伸ばし、白い布を畳の上に広げた。
あまりにも白過ぎるので折り目さえも分からなかったが、広げられたその布は装束だった。どこを見ても真っ白なその装束は、日焼けした畳の上に広がっているだけでもある種の神々しさを醸し出している。
「これが三百年間、先祖代々伝わってきた天狗様の狩衣じゃ」
祖父が胡坐をかいたので誠一もその場に座った。
「狩衣って?」
「昔の貴族たちの普段着のようなものかな」
誠一は祖父の話を聞いてはいたが、眼は畳の上の狩衣に向けられたままだった。
もしも祖父の話が真実だとしたら、この装束は三百年も昔の物なのに、シミ一つ付けずに純白を保ち続けてきたことになる。
そんなことがあるものか。にわかには信じ難かったが、その美しさにはただ魅入ってしまうばかりだ。
「まあ、なんだ」
しばし我を忘れて狩衣に見とれていた誠一は、祖父の声にぴくっと反応し、ようやく目を狩衣から離した。
「この狩衣はな、昔、御先祖様が早池峰山の天狗様と親しくなられて、その後授かった物なのだそうだ。それ以降、稗貫家の当主たちは代々これを伝えてきたそうだ」
祖父が真剣な口調で話すが、誠一は不満気だった。
そんなに凄い物なら何故自分には教えてくれなかったのだろう。そして科学技術の進歩した現代で、そんなおとぎ話じみた迷信をどうして祖父は真剣に話すのだろう、と。
「へえ、そんな伝説があるんだ」
「伝説ではない、真実だ」
祖父はそう声を張り上げるので、誠一は小さな溜め息をついた。
やれやれ、人間歳を取ると信心深くなるもんだな。
「ところでじいちゃん、どうして今更その服を俺に見せようと思ったわけ? もう俺も中二になったから、他人に教えるなって言っておけば大丈夫、とでも思ったの?」
祖父はううんと低く呻り、両手を組んだ。
「まあ、それも無いことは無いんだが……実はこの装束にはちょっとした秘密があってな。これを着た稗貫家の者は、天狗の力を得られる」
「天狗の力? 風でも起こせるの?」
呆れ顔で、冗談ぽく尋ねた。見え透いた嘘を吐く爺さんだ。
「ううん、違う。身体が天狗のように身軽になる」
祖父は即答した。
「本当? それなら俺がこれ着たらさ、凄く身軽になれるわけだよね」
誠一は装束の両袖を掴み、持ち上げた。真白な装束がばさっと音を立てて波打つ。
祖父の話などこれっぽっちも信じていなかった。幼い頃から魔法も超能力も、ネッシーも信じることも無く育ってきたのだ。天狗などもっての外だ。
「なれる」
祖父の真っすぐな返答に少々たじろいだが、誠一はまだ祖父を信じていなかった。
「じゃあさ、ちょっと外に出てよ」
誠一は装束を持ったまま玄関へと歩き出し、祖父もそれに続いた。
外に出た誠一はそのまま裏庭に回った。
この家はこの地方の伝統的な住居である『曲り家』を基に改装した造りをしている。祖父の幼い頃は馬屋もあって、屋根も茅葺きだったらしいが、今ではすっかり瓦屋根に様変わりしており、馬屋も囲炉裏も無くなっている。だが、上空から見ればこの家は今なお特徴的なL字型を残している。
北側の裏庭に回った誠一は二階の屋根を指差した。
「もしも天狗の力があったらさ、ここからあそこに跳ぶくらい簡単だよね。俺、試してみるわ」
後からやって来た祖父に妙な笑いを浮かべながら話しかける。
祖父が何も答えない内に、誠一は白い装束を纏った。帯の正しい締め方はよく分からないので結び目は無茶苦茶であったが、祖父は何も言わなかった。
「ほーらよっと」
軽く屈伸をして、誠一は思い切りしゃがんだ。そして身体のスプリングを利かして跳び上がる。
地面から両足が離れ、誠一の身体が勢い良く空中に投げ出される。その高さはすぐに1メートルを超えたが、まだ身体は上昇を続けた。
自分の身長の165cmを超えてもその勢いは衰えない。そのまま2メートル、3メートル……あっと言う間に2階の屋根の高さも超えてしまった。
庭にある大きな楠の先端ほどの高さまで到達して、やっと身体の上昇は止まり、あとは重力の働くまま、跳び上がった元の位置に落下、着地した。
最初から屋根に跳び移るつもりなどさらさら無かったので、一連の動きは垂直跳びになってしまった。
あんなに高く跳んだのに、不思議と足腰に痛みは走らない。発泡スチロールを受け止めたかような、軽い衝撃を感じただけ。
跳躍から着地まではほんの三秒ほどだった。誠一が我に返ったのは、それからしばらく茫然とした後だった。