第四章 狐の情 その2
菊池さんの家族ともお別れの挨拶をして、誠一達は家に帰った。
居間でテレビゲーム機のケーブルを接続していると、祖父が誠一を呼んだ。
「誠一、これからタケシが事故に遭った場所に行くぞ。お前も来い」
「どうしたの急に」
怪訝な口ぶりではあるが、すぐにケーブルを片付ける。
「今朝の事故、どうにも嫌な予感がする。山の妖怪の仕業かもしれん」
祖父は農作業用の長靴を履き、大きなこうもり傘を開いて雨の中を歩きだした。
誠一も汚れても構わない古いニューバランスのスニーカーと、小学生の頃から使っている青い雨傘で外に出る。雨水の跳ね返る砂利の上を走り、誠一は祖父に追いついた。
「そうなの? どこらへんで?」
「昔から狐が食べ物目当てに人を騙すことはよくあった。タケシも豆を持っていたというから、もしかしたらそれを奪いに妖怪が襲ってきたのかもと思ってな」
「そう言えば、キツネの関所とかいう場所があるよな」
誠一は幼稚園児の頃に亡くなった祖母のことを思い出す。寝る前に、よく聞いたあの話を。
「この家から駅に出る道に小さな山があるでしょう。あの山には狐が住んでいて、人が通る時に魚なんかを持っていると、盗まれてしまうのよ。私の曾お爺さんは、街で鮭を買った帰りに、そこできれいな女の人がお茶を売っていたから、ついつい休んでいると、いつの間にか眠ってしまって、気が付いたら道の脇で眠っていたことがあったそうよ。持っていた鮭も全部無くなっていたんだってね」
アスファルトの道路も山裾に沿って拓かれている人家もまばらな田園地帯の一角に、事故現場はあった。
何ら変哲の無い、田畑を突き抜ける農道だ。雨のせいで脇の水路の水かさがやや増してはいるが、元々足首程度の深さにも満たない。
「ここら辺で落ちたんだよね」
誠一は道路の先までよく見てみたが、何ら普段と変わった様子は無く、ただ湿ったアスファルトが黒光りしているだけだ。落としたという段ボールも既に無くなっている。
「雨に流されたんじゃないかな?」
屈みこんで路面をじっと見つめる祖父に誠一が言ったが、祖父は返事もせず一歩だけ前に進み、再び路面を注視していた。
「タイヤの跡はブレーキをかけない限り残らないし、難しいのう。狐の毛か、かじった豆でもあれば分かるのに……」
「本当にあるのかな、そんな物」
誠一も腰を屈め、道路を調べ始めた。
しかしかれこれ一時間、道路の端から端まで隈なく見てみたというのに、特にめぼしい物は見つからなかった。
ただ段ボールは道端にも水路にも落ちておらず、本当に無くなっていた。だがそれでは人間か狐か、犯人は分からない。へとへとになった二人は気だるそうに帰宅した。
その頃、遠野盆地北東部の山中で、三匹の牡狐が豆を食べていた。
伐採されたまま放置され、朽ち果てていく杉の幹が何本も横たわる針葉樹林は昼間でも暗く、土の上には茶色い杉の落ち葉と枯れ枝以外何も落ちていない。高木が日光だけでなく雨水をも遮るので、植物もろくに育たない。
これらはかつて全国的に行われた単一樹種による無計画な植林の末に生まれてしまった山の砂漠だ。
しかし、人間をはじめ他の生き物の入らないそのような領域は、悪事を働く者たちにとっては絶好の隠れ場になっていた。
「久しぶりだぜ、豆なんか食ったのは」
段ボールに顔を突っ込みながら垂れ目の牡狐が言った。
「そりゃそうだ。いつもなら爪かじって見つめるしかねえからな」
太った狐が口の中一杯に豆を頬張り、よく咀嚼した。弾けてつぶれる感触が実に心地良い。
「お前達、大事に食うんだぞ」
器用に爪を使い、一粒ずつ豆を剝いている身体の大きな狐が他の二匹を睨みつける。白髪の混じったその毛並みと、二又に分かれた胴ほどもある巨大な尻尾から、かなり長く生きた狐の妖怪であると誰もが想像できよう。
「分かってるって。でも、兄貴もよくやるよな。そこらの狐じゃあまるでできない変化の術をやすやすとこなして、豆を奪って来たんだからなあ」
垂れ目の狐が二又の狐を羨望の眼差しで見つめる。二又の狐は口の端を緩めた。
「お前たちの念力の術が無いとあのオンボロスクーターは動かせなかった。これは我々全員で勝ち取った豆だ」
しかし、この会話に耳を立てる者がいることに、彼らは気付いていなかった。
ああ、なんということでしょう。
一匹の牝狐が倒木の影から音を立てぬよう、静かに去って行った。小柄ながら、こちらも胴ほどの大きさの二本の尻尾を持った妖怪狐だった。
「イヅナ、それは本当か?」
イヅナと呼ばれた牝狐は頷いた。
ここは山奥深くにあるほら穴で、狐族の長のねぐらにもなっている。九本の巨大な尻尾と銀白色の毛並みを蓄えた長の他に、複数の尻尾を持つ者、全身が白い毛に覆われている者など、いずれも並みの狐とは異なる妖怪狐達が十ほど集まっていた。
「はい、あれは間違いなく二尾の樟慶と、その弟達でした」
イヅナは族長を真っすぐに向きながら強い口調で言った。
「あいつはまだ若輩なのに妖力はずば抜けているからな。樟慶ならやりかねん」
洋犬のような長い体毛に覆われた狐が舌打ちをした。
イヅナは細長い頭を垂れ、長に懇願を続けた。
「あの者達を放っておくわけにはいけません。人間に妖怪の存在が知れ渡ってしまえば、我々はたちまち見世物となるでしょう。そうなる前に手を打たないと大変なことに」
「やめておけ」
「……はい?」
イヅナは首を上げた。
「やめておいた方が良い。今の我々にはあいつらに敵う妖力を持つ者がおらぬ。勝てたとしても、無事でどうにかなる保証は無い。それに神社の人間が動いていない限り、まだ狐がやったことはばれていない。人間としても、確信も無いのに疑いをかけることはできないからな」
「そんな……黙秘すると仰るのですか?」
イヅナが前足を一歩前に出す。が、族長の脇に控えていた四尾の狐が姿勢を低くした。その威圧感に、二歩後ずさりしてしまった。
「狐族はただでさえ衰退の一途を辿っておる。樟慶は少々手荒だが、頭の切れる優秀な逸材じゃ。ここで失うには惜しい。黙っておれば大丈夫じゃ。それにもしも狐の一員が山の決まりを破ったとすれば、それは狐全体の信頼問題にもつながる。イヅナは今日見たことは全て忘れよ」
「しかし……」
「イヅナ、お前はまだ生まれて10年しか経っていないからよく分からんかもしれないが、不正を正す以上に大切なこともある。人間一人どうなろうと我々の気にするところではない」
イヅナの後ろで座り込んでいた妖怪狐が諭した。
イヅナはしぶしぶほら穴を出て行くしかなかった。腐葉土を踏みしめる度に冷たい水がしみ出し、足跡に茶色の水たまりができる。
大きな岩と岩の間に僅かにできた隙間。子どもでもくぐれそうにない空間の向こうには、六畳ほどはあろう広い洞窟が隠されている。そこがイヅナの住処である。
山で集めてきた木の葉や、干し草で作った寝床に身体を投げる。
短いながらも、今まで自分は族長達に仕えてきた。全ては狐族と人間の共存共栄のため、狐も人間の領域を脅かすこと無く安心して暮らすことができるように。
事なかれ主義を貫く幹部達には以前から嫌気がさしていたのだが、まさか身内の不正にも目を瞑るとは……イヅナはもう限界だった。
イヅナは思い立ったように跳び起きると、保存食として残しておいたネズミの死骸を胃にかき込んだ。そして狭い岩の間を抜け、足早に木々の間を通り過ぎて行った。
雨もようやく止んだ野山を、一匹の狐は南、人里へと駆けて行く。




