第三章 山奥の妖怪 その3
山の夜闇は恐ろしい外無い。空が曇って星も見えないとなるとなおさらだ。
月も見えない漆黒の中、誠一はあの狩衣を纏い、太い木の枝に腰かけて泥棒猪の出現を待っていた。
あの狩衣には視力も強める効果もあるようで、明かりなど無くとも十分に周囲を見渡すことができた。
すでに日付は変わってしまっただろう。日没からずっと木の上で座りっぱなしの誠一は瞼をこすりながら、あの眼鏡河童の言ったことを思い出す。
「僕の作戦はこうだ」
夕暮れ時、河原の石を敷き詰めて作った焚き火を囲んだ誠一と河童たちの中で、その若い眼鏡の河童は饒舌ぶりを発揮していた。
あのイーグルスファンの若い河童だ。名前はハジメと言い、なんとシンベエの一人息子だという。あの筋骨隆々で、男の中の男という言葉が相応しい河童の息子が書斎派であるのは意外だった。
「まず、柵の一部をあらかじめ壊しておくんだ。わざとって分からない程度に、板が外れかけているくらいでね」
湿った皮膚に燈色の炎がゆらゆらうごめくように映るので、ひょうきんな河童たちの顔も恐ろしいものになっていた。
「多分、奴はそこをすり抜けて入って来るだろう。柵の中に入ったのを確認したところで、木の上の誠一君が飛び降りて穴の前で陣取る。そこで、畑の中で待機していた河童部隊が網で追い込むんだ」
ハジメは木の枝を使って砂の上に地図を描く。集まった河童たちはじっと地図を見つめる。
「ずっと起きていなきゃいけないけれど、これが確実だと思うよ。みんなはどう思う?」
「いいと思うぜ」
「まあ、そんなんだろうな」
河童達から賛成の声が上がる。
「うん、それで行こう」
ハジメのすぐ前で座り込んだ誠一も頷く。もう狩衣は着込んでおり、身体は軽い。
ハジメは「うん」と答えると、地図にさらに書き込んだ。トウモロコシ畑の脇に丸印を付け、バンバンと叩いた。
「丁度良いブナの木がここにある。誠一君はここで奴が来るのを見ていて欲しい。この下の柵を壊しておくから、入ったところで閉じ込めるんだ。そしてみんなであいつを捕まえよう」
河童達が一斉に威勢良く「おう」と声を上げた。前のめりになっていた誠一は太い声に驚いて、手をついてしまった。
その後、河童の女達が作ったイワナの丸焼きや、清流の冷水で冷やしたきゅうり、今年はごくわずかしか採れなかったという蕎麦の団子を食べた。
河童の子ども達が誠一の団子を指をくわえて見つめるので、気まずくなって上げようとしたが、シンベエに止められた。
「これは女達があんたのために作ったんだ。あんたが食わなきゃ意味がねえんだ」
あの蕎麦団子、美味かったけど食い辛かったなあ。
思い返して誠一はあくびをした。
鏡花と祖父は誠一だけを残して帰ってしまった。母には祖父が伝えているはずだ。今頃みんな布団の中だろう。
さらに一時間ほど経っただろうか。秋の定期演奏会の曲目について考え込んでいたところ、突如木の下の茂みでガサゴソと葉のこすれ合う音がした。
いよいよ来たか。
茂みから鋭い牙を振りながら、体長1.5メートルはあろう大きな猪が出てきた。侵入を禁じられた河童のエリアだというのに、我が物顔でずしずしと闊歩している。
大猪は畑の柵をぐるっと見て回る。入口を探しているようだ。
誠一はじっと猪の行動を窺う。入れ入れと念じていると、暑くもないのに汗粒が頬を伝う。
ついに猪は入口を発見した。あらかじめ壊しておいた『罠』の入口を。外れかけた板の間をするりと抜け、そのままトウモロコシの苗へと直進する。
今だ!
誠一は植物の蔓で編んだ捕獲用の網を握りしめ、木の上から柵の内側へと跳び下りた。
着地と同時に落ち葉がわっと舞い上がる。その音が猪を跳び上がらせた。
「みんな、今だ!」
誠一は網を広げ、外れた板の前で腰を低く構える。突然の登場に、猪はそのまま反対方向へと逃げる。その時だ。
「うおおおおおおおお!」
猪は再び跳び上がった。トウモロコシ畑の影から10名ほどの男の河童達が飛び出してきたのだ。幅5メートルはあろう大型の網を数人がかりで大きく広げて猪を取り囲む。
陸上ではのろのろと足取りの重い河童たちだが、この数が一気に迫ると迫力も凄まじい。
猪もこれはまずいと思ったか、方向転換をして誠一の守る出口へとダッシュする。
「うわ、こっち来た!」
まさか自分に突っ込んでくるとは思ってもいなかったが、誠一は網を広げ出口を身体で隠す。
しかし猪はその勢いを殺すことは無い。あっという間に自動車ほどのスピードにまで加速すると、誠一に向かってまっすぐ突進してくる。
「誠一君、危ない!」
外側で待機していたハジメが柵を飛び越え入ってきた。誠一の網の一端を持ち、二人で左右に網を張る。さながらクモの巣である。
そしてそのまま、全速力の猪が二人の間に貼られた網にぶつかって来た。相撲取りに貼り倒されたかのような衝撃に、誠一とハジメは前方に倒れ、二人揃ってでんぐり返りしてしまった。
だが二人とも網は手放さなかった。猪は網に絡まり、仰向けに転倒し、のたうちまわる。
だがその状態でもずりずりと二人を引きずるので、他の河童達は急いで猪に追加の網をかけた。
隙を見てシンベエが胴体に太い縄を巻き縛り上げ、すぐ近くのカシの木につなぐ。これでもう逃げられない。
「ふう、やったな」
引きずられて擦り傷だらけになった誠一は汗をぬぐった。天狗の力が込められているためか、狩衣は一切汚れていない。
「いやあ、危なかったなあれは」
息遣いを荒くしたハジメが地面に寝転がる。転んだ時にぶつけたのであろう、額を手で押さえている。
つながれた猪は綱を引きちぎろうとするが、ピンと張られた綱は如何なる力を加えようとも切れることは無さそうだ。
「よくやったぞみんな。捕獲成功だ!」
シンベエに呼応して、河童達から歓声が上がる。淵の方向からも女や子ども達の歓声が上がった。皆眠らずに起きていたようだ。
「ありがとう誠一君。キミのおかげで、僕達河童も安心してこの夏を乗り切ることができるよ」
ハジメは誠一に腕を差しのべた。
誠一も握り返し、「どういたしまして」と笑いながら返す。
「よくやったぞお前ら。誠一の初仕事も大成功ってところじゃねえか。華々しいデビューだぜ」
シンベエが誠一とハジメの頭の上に手の平を置き、ぐりぐりと回す。床屋のシャンプーのようで気持ち良かった。
「ハジメもよくやった。俺はお前が本ばっかり読んでいるから、いつかひょろひょろのもやしみたいになっちまうんじゃないかと心配していたんだが、その心配も無用のようだな」
「うるさいなあ親父。親父だって、ちったあ本くらい読まないと、脳みそどころか骨まで筋肉になっちまうぞ」
「なぁにぃ~? 親を筋肉達磨みたいに言うな」
ハジメへのぐりぐり攻撃が激しさを増した。ぎゃああとハジメが悲痛な叫び声を上げる。
「シンベエさん、こいつはどうしますか?」
誠一は猪を指差し尋ねた。二人のやりとりを見ていると無性に父のことを思い出してきたので、さっさと話題を変えたかったのだ。
「ああ、猪の頭に訴えるつもりだ。とりあえずこいつを処罰するだけで、今回は猪全体への食糧供給は続けるからな」
ようやくハジメが解放された。ハジメの海藻のような髪の毛はこねくり回され、絡み合い、ひじきの煮物のようになっていた。
「皿がジンジンする……」
ハジメは頭頂からずれた皿をなでながら、元の位置に直す。
「とにかく誠一、有難うな。俺達だけじゃあできなかっただろうよ」
シンベエは誠一に深々とお辞儀する。
「実は俺は最初、お前がまだ15にもなっていないのに後を継ぐことになって、内心不安だったんだが、お前が頼りがいのある男だと分かって安心したぜ。お前なら父さんの後を継げるだろう」
「そうかな……」
ここまで褒め殺しにされたことも無いので、誠一は返答に困っていた。しかし内心不安なのは誠一だった。
ここまで期待されているのに、もし俺が遠野を出ることになったら、みんなどう思うのだろう。
でも、今は考えないことにしよう。不意に浮かんだもやもやを押し殺して、祝杯を交わす河童達の輪の中に入っていった。
「マコト、あんたどうしたのその格好」
翌朝、迎えに来た祖父と鏡花が見たものは、真っ青な顔で、全身泥だらけになった誠一の姿だった。
「いやあ、話したら長くなるんだけれどね……」
河原で焚き火に当たりながら身を震わせている誠一は、二人と眼を合わさないようにぼそぼそと話した。
昨晩、宴会で河童特製のどぶろくを勧められた際、どうしても嫌と言えず、おちょこ一杯分だけ賞味してみたのだ。するとあら不思議、何とも言えない濃厚な味に病みつきになってしまい、三杯ほど飲んだところで記憶が途切れてしまった。
気が付くと朝日が昇っていて、自分は泥のぬかるみの上で仰向けになって眠っており、周りには酔っぱらった河童達が大きないびきを立てながら爆睡している。何があったのか。
「みんなしこたま飲んだみたいで、誰も昨日のことを覚えていないんだ。俺もちょっと頭痛いし……」
「未成年の飲酒は犯罪よ」
「将大も酒には弱かったからのう。遺伝かな?」
祖父が誠一の背中をさする。稗貫家の男は総じて酒に強くないので、祖父自身も酔いの苦しみをよく知っている。
「おえっぷ、ダメだ吐きそう」
口を押さえながら誠一は茂みまで小走りで駆け込む。そして木の根元でげーげーと戻した。
祖父が川の水を竹筒に汲んで駆けつけた。誠一は祖父の手からそれを奪い取り、ガラガラとうがいをして、ペッと吐き出した。
「なんとかすっきりしたぜ」
未だ甘いのと酸っぱいのが混じり合った不快な味覚を喉の奥で感じながらも、一応の活動ができる程度に回復した誠一は鏡花の元に戻って来た。
「とにかくその格好もどうにかした方がいいわね。まず川にドボリと浸かってきたら? ドロドロよりはビシャビシャの方がまだましだと思うわよ」
「それもそうだな」
誠一はのそのそと川に向かって歩く。冷たい川の水に足を浸けたところで足を止めてしまったが、ゆっくりと深い所へ移動して、くるぶし、脛、膝とどんどんと身体を慣らし、腰まで浸かると後は一気に肩まで沈めてしまった。
「うーん、気持ちいいー」
清流に浸かるとすっきりする。心地良い冷たさと水流の刺激が、疲れた頭をリフレッシュさせる。
シャツを脱いで、水中でごしごしとこすり泥を洗い落とす。鏡花もいるのでズボンは脱がなかったが、あっという間にほとんどの泥が落ちてしまった。
シャツを洗った後、眼を開けたまま頭まで潜った。外にいる時よりも温かいという不思議な感覚と、緑のかかった澄みきった景色の向こうで、群れをなす小さな魚達が誠一のテンションを上げた。
水中から頭を出し、鏡花を手招きする。
「鏡花もこっち来いよ。おさかな天国で生き返るぜ」
「あんたまだ酔ってんじゃない?」
憎まれ口を叩きながらも、鏡花はすでに短パンをめくり上げ、両足を川の浅い所で跳ねさせていた。
髪の毛に付いた泥もよく落とし、岸に上がろうとじゃぶじゃぶ水を蹴っていた時であった。
突如、ゴウッと冷たく、強烈な風が吹きつけた。落ち葉が宙を舞い、水に足を浸けていた鏡花も転びそうになった。
「うわあ、寒い!」
冷水に濡れた身体に風がまともに当たった。真冬に自転車を全速力で漕いだ時と同じ感覚に襲われた誠一は、反射的により温かい場所、即ち水中にダイブした。




