序章 東風風の夏(写真あり)
その夏、東北地方はかつて無い冷害に襲われた。
例年よりも1ヶ月早くから発達した梅雨前線はそのまま東北地方上空で停滞を続け、地上に注ぐ太陽の光一切を遮った。
さらに北太平洋から吹きつけた冷涼な季節風が追い打ちをかけ、奥羽山脈東部に慢性的な降雨をもたらしていた。
盛岡地方気象台では7月に入ってもなお、摂氏25度以上を観測することは無かった。
「おいこら、待て!」
滅多に人の入ることの無い山奥。そこに少年の声が響くと同時に、辺りの木々から一斉に野鳥が飛び立つ。直後、一匹の雄猿が張り裂けんばかりの奇声を上げて枝から枝へと跳び移り、木々の間をすり抜けて行った。そしてもうひとつ、木の枝をこれまた巧みに跳び移って追いかける影が飛び出す。
人間の少年だった。
少年は身軽に木々を渡り歩き、大猿との距離を徐々に詰めていく。その少年は奇妙なことに、スニーカーこそ履いているものの、纏っていた衣服は現代とは不釣合いな純白の狩衣だった。
猿は必死の形相で逃げながら、少年に木の枝を投げつける。しかし少年はそれらを軽くかわし、さらに距離を縮めた。
「よーっと、捕まえたあ!」
ついに少年は猿に追いついた。枝に飛び移ろうとしていた猿の両腕を空中でがっしと捕らえ、そのまま地面に着地する。
捕まえられた猿はぎゃあぎゃあと騒ぎ、全力で少年の拘束から逃れようとする。しかしいくら力を加えようとも、少年の腕が猿を離すことは無かった。
「暴れんなって……おーい、こっちだ」
少年は振り返り、叫んだ。遠くからかさかさと落ち葉を踏む足音が聞こえる。しばらくして、茂みの中から一人の少女が顔を覗かせた。
「はい、ご苦労様」
少年が声をかける。少女はぜえぜえと息を切らし、足取りはフラフラとおぼつかない。
この少女も巫女と同じ紅白の装束を纏っていた。山中の道無き道を歩いてきたせいか、装束の所々に木の葉や泥がこびり付いている。
そして少女は神聖な巫女の装束とは似つかわしくないほど、攻撃的で、鋭い眼の持ち主でもあった。獲物を狙う蛇の眼と言った方がしっくりくる。猿はすっかりすくみ上がり、固まってしまった。
「まったく、このガンスケはあ。他の猿より長生きで力も知恵もあるからって、人間にイタズラしていいワケ無いでしょーが」
もがく猿の頭に、少女はそっと右手を添えた。
「今からあんたの力を封印して、普通の猿に戻すからね。一応、猿としては何不自由無く生きていける程度の力は残しておくから、安心しなさい」
少女がそう言うと、猿は更に激しく叫び声を上げながら身体を揺さぶった。だが少年の拘束を解くことはできない。
少女は右手を猿に添えたまま両目を瞑る。そして何を言っているのか聞き取れない不明瞭な声で、祝詞を唱え始めた。
しばらくの間猿は暴れ、少年はそれを抑え、少女は祝詞を唱えていた。そして少女の声が徐々に徐々に大きくなり、もはや叫び声と呼ぶのに相応しくなると、少女は吊り上がった両目をカッと見開き、暴れて声を荒げる猿の頭をぴしゃりとはたいたのだった。乾いた音が再び山中にこだまする。
はたかれた猿はキイと金切り声を上げたが、次の瞬間にはすっかりおとなしくなってしまい、ただ悲しそうな顔で地面を見つめていた。
少女は額の汗を拭うと、少年にその鋭い眼を向けて微笑んだ。口は笑っていても目は笑っていないように見えるが、彼女にとってはこれが精一杯の笑顔なのだ。
「終わったわ。もうガンスケも人間に悪巧みなんかしなくなる。もう放しても大丈夫よ」
「あいよ」
少年が少女に言われた通り猿を放すと、途端に雄猿ガンスケはサッと走り出し、近くの茂みの中に消えていった。
「ふう、これにて一件落着てか。しっかし随分と山奥まで来ちまったなあ」
少年は背伸びをした。肩の骨がパキパキと鳴る。
「まあ、相手が山猿だからねえ。これぐらいは覚悟の上よ」
少女は背を曲げて装束の裾に付いた泥を落としながら言った。
「でも、なんか可哀想だなあ。あいつだって好きで人間にいたずらしたわけじゃねえのにさ。冷夏のせいで山の中で食べ物が無いから、仕方なく畑荒らしていただけだろ?」
「確かにね。でも、あいつは農家のおじさんに怪我をさせちゃったわ。もし猿の駆除でも始まったら、それこそ山全体の危機になってしまう。ガンスケには気の毒だけど、そうならないために、猿が人間に手を出すのを未然に防がないといけないのよ」
少女は淡々と述べた。少年は溜息をついた。
「でもよ、元々猿をそこまで追い込んだのも人間だろ?」
少女は何を言うこともなく、こびり着いた泥を落としていた。しばらくして、口を開いた。
「仕方無いのよ。今となっては」
岩手県の内陸部、北上高地の町、遠野。
柳田國男の編纂した説話集『遠野物語』でも知られる人口3万に満たない地方都市だ。
古くから高山に取り囲まれ、独自の文化を形成してきたこの町には、今なお様々な民話、伝説が語り継がれている。