狸保険金殺人事件
その日の夕方。
裏山を散策していて一匹の狸と出会った。
なぜオレが裏山なんぞにいたかは、このさい詮索しないでいただきたい。とにかくオレは裏山をうろついていて、オヤジ狸と出会ったのだ。
オヤジ狸は巣穴のそばに座りこみ、トックリを片手に酒を飲んでおり、酔っぱらった状態でブツブツと何やらつぶやいていた。
こまった狸は目を見りゃわかる、というが……。そのときは目を見るまでもなく、オヤジ狸はこまっていた。見るからにこまっていたのだ。
見るに見かね、オレは足を止めて声をかけた。
「なあ、どうしたんだ?」
「どうしたも、こうしたもあるもんか」
「よかったらオレに話してみないか」
オヤジ狸は今にも泣きそうに、ロレツのまわらない舌でしゃべり始めた。
「じつはメグミのヤツがな……」
メグミなるものは、どうやらオヤジ狸のカミさんらしい。
聞けば、その話とは……。
つい半年ほど前まで、このオヤジ狸は人となり、町でタクシーの運転手として働いていた。ところが、リストラのうき目にあいクビになってしまう。それからは働きもせず職探しもせず、ひたすら酒を飲むといったグータラな生活を続けていたのだが……。
そんなオヤジ狸に、カミさんは能ナシ亭主と罵倒したあげく、家を出ていってしまったそうな。ようは愛想をつかされ、見放されたというか逃げられてしまったのだ。
カミさんに家出されて、すでに一週間になる。
巣穴にあった食料も底をつき、ここ三日ほどはまともにメシを食っていない。金もなく、食うにもこまっているという。
なんとも情けないヤツだ。
そんなときこそ、おのれで何とかするべきであろうに……。ただ、このせちがらい世情、いくらか同情すべきところもある。
「明日の朝、酒とメシを持ってきてやるわ」
オレはそう約束し、この日はオヤジ狸と別れたのだった。
その晩。
妻がスナックに働きに出たあと、オレは飯を炊いてニギリメシをこしらえた。
オヤジ狸に食わせるのだ。
ニギリメシには、裏山で採ってきたばかりの毒キノコを煮こんでまぜてある。そうとも知らず、オヤジ狸は喜んで食うにちがいない。
で、そのあとオヤジ狸がどうなるかだが、うまくいけばポックリあの世行きだ。
ただ毒キノコといっても、オレはそういったモノにそれほど詳しいわけじゃない。どれほどの効用があるかわからない。
これは妻に食わせる前段なのである。
だが、たんに死ねばいいというものではない。妻には食中毒での事故死、そういうことになってもらわなければ保険金は出ない。
日本酒の入った一升ビンを取り出した。
さっそく前祝いの祝杯といきたいが、明日は大事な仕事がある。
今晩だけはがまんだ。
オレは三合ほど酒を準備した。
翌朝。
オレは酒とニギリメシを持って裏山に向かった。
その日も、オヤジ狸は巣穴の前であぐらをかき、ひとりタラタラと愚痴をたれていた。
トックリは倒れており、酒はすでになくなっているようだ。
「持ってきてやったぞ」
ニギリメシを渡してから、カラのトックリに酒を満たしてやった。
「どこの御仁か知らんが、すまねえこった」
オヤジ狸がニギリメシをほおばり、さっそくうまそうに酒を飲み始める。
となりに座り、オレはようすをうかがった。
しばらくすると、オヤジ狸の口元がだらしなくゆるみ、ヨダレがたれてきた。
キノコの毒が効いてきたようだ。
「ファ、ファ……」
オヤジ狸が奇妙な声で笑い始めた。
「ゲファ、ゲファ……」
笑いが止まらない。
だが症状はそれだけで、どうということはなさそうである。
あのキノコはワライタケだったのだろうか。
この程度で人間の妻が死ぬとは思えない。あやうく犯行が露見し、せっかくの計画がオジャンになるところであった。
前もってオヤジ狸で試しておいてよかった。
すぐさま実験のやり直しだ。
バカなオヤジ狸のもとを離れ、オレはほかの毒キノコを探し歩いた。だが強力な毒キノコなど、そうざらにあるものではない。
結局あきらめて、残念ながら手ぶらで帰ることとなった。
帰り道。
オヤジ狸のことが気になって、アイツの巣穴に立ち寄ってみた。
オヤジ狸は、もう笑ってはいなかった。大きな腹を上に向け、ひっくり返って死んでいた。
時間は少々かかったが、あの毒キノコには命を落とすほどの効き目があったのだ。
オレは計画を実行に移すことに決めた。
その夜。
オレは昨晩と同じように、毒キノコ入りのニギリメシをこしらえた。妻は勤めから帰ったあと、オニギリを好んで食うのである。
テーブルに皿を置き、ニギリメシをそれとなく盛りつけた。
妻は手を出すだろう。
で、オダブツ、あの世行きだ。
日本酒をコップに注いだ。
今夜こそ前祝いのカンパイである。
妻の笑い苦しむ顔を想像しながら、オレは祝杯の酒を口に運んだ。
これからは能ナシ亭主と、妻から罵倒されることもなくなる。オレもオヤジ狸と同様に無職で、酒を飲むばかりの生活を続けていたのだ。
それになにより保険金がたんまり入る。
――完全犯罪だな。
今晩の酒は格別にうまい。舌がしびれ、とろけてゆくようだ。
飲むペースもついつい早くなった。
――フフフ……。
胸の内にフツフツと笑いがこみ上げてくる。
「フ、ファ……」
なんとも気分がいい。
と、そのとき。
「バカだねえ」
スナックにいるはずの妻が、なぜかキッチンのすみに立っていた。
「ファッ。オマエ、いたのか?」
「いたわよ。アンタが何をしていたか、ここでずっと見させてもらったわ」
「ファッ、ファッ」
酒がむせて、おもわず咳こんでしまった。
「みんな、お見とおしなの。メグミさんから聞いていたからネ」
メグミだと?
メグミといえば、あのオヤジ狸のカミさんではないか。
「メグミさんはね、うちのお店で働いてるの。だからアンタのことも知ってるのよ」
「じゃあ……」
「そう、聞いたのよ。アンタが最近、裏山で毒キノコを集めてるってネ。で、アンタが何をたくらんでいるのか、すぐにピンときたわ。そんな毒キノコの入ったオニギリ、アタシが食べると思って?」
なんと、計画がバレていたということか。
「クソー、ファッ」
「で、ネ。メグミさんに相談したら、とってもいいものをくれたのよ」
妻が小ビンに入った怪しげな液体を見せる。
「ファッ、なに?」
「これってネ、狸秘伝の毒薬だって。アンタが採ったキノコと同じものから作ってるそうなんだけど、濃縮してあるんで数倍も強力だってさ。これをネ、そのお酒に入れてあげたの。ねえ、おいしいでしょ」
妻がニヤリと笑う。
「ファッ。いつ? ゲファ」
「昨日よ。でも残念だったわ。アンタ、夕べは飲まなかったから」
「グファ、グファ」
「ねえ、アンタ。そのお酒、メグミさんのダンナさんにあげたでしょ。そこのところ、メグミさんとこっそり見てたんだから」
そうか……。
オヤジ狸が死んだのは、ニギリメシのせいではなかったのだ。この酒を飲んだからなのだ。
あのオヤジ狸のように、オレもミジメな死に方をするというのか。
「ゲファー」
オニババアー。
こう叫んだつもりだが、口がしびれていて言葉にならない。
「そろそろ効いてきたようネ。その笑い方、メグミさんのダンナさんとそっくりだわ」
妻の目には、オレがいかにも笑っているように映るのだろう。
「ゲファ、ゲファ」
「アンタには、こっそり保険をかけてたのよネ」
保険金だって?
オレがやろうとしていたことを反対に、妻にまんまとしてやられた。
なんというザマだ。
おかしくてほんとに笑えてきた。
「フォ、フォ、ゲファ……」
「フフフ……。ねえ、これって完全犯罪よネ。アンタが採ってきた毒キノコと、なんといっても同じ成分の食中毒で死ぬんだからさあ」
妻が勝ち誇った笑みを浮かべる。
「ゲファ、ゲファ……」
オレはなぐりかかろうとした。
だが、すでに手足の先までしびれ、体の自由がまったくきかない。
「保険金、たんまり出るのよネ。お祝いのカンパイをしなきゃあ」
妻が紙袋からワインのビンを取り出した。
それから二つのグラスに中身を注いで、そのひとつをオレの前に置いた。
「このワインね、メグミさんからアンタによ。ダンナさんをあの世に送ってくれた、お礼だって」
これ見よがしに、ワインの入ったグラスを目の前にかかげる。
「カンパイ!」
「ゲファ、ゲファ……」
おのれの死に、なんでおのれがカンパイしなきゃならんのだ。
おもいきりバカヤローと叫んでやった。
「ゲファー」
「ほんとにアンタって、どうしようもない人間のクズだわネ」
ワインを飲み始めた妻がうれしそうに笑う。
「ファ、ファ……」
クソー、どうせ死ぬんだ。
こうなったらオレも笑ってやる。
「ゲファ、ゲファ……」
「ファ、ファッ、ファッ……」
二人の笑いキッチンに声がひびく。
「お二人とも、とっても楽しそうだこと」
――うん?
これは妻の声じゃない。
「ファッ、メグミ……」
妻がポカンと口を開けている。
いつかしら、キッチンの入り口に知らない女が立っていた。
――こいつがオヤジ狸の……。
うすらぐ意識のなかで、オレはメグミという女を見ていた。
「それを渡したら、きっとこうなるって思ったわ。だれもが、二人とも食中毒って思うでしょうネ」
「ファッ、ファッ……」
妻が何かしゃべった。
が、それは言葉にならなかった。
「きっと、いっぱいあるんでしょうネ、二人分の保険金って」
メグミがフテキな笑みを浮かべる。
「これって、完全犯罪よネ。狸のしわざだなんて、だれも思いもしないでしょうから」
高笑いがキッチンにひびきわたった。
あのオヤジ狸のこまった目を思い出し、オレはあらためてヤツに同情した。
その後。
二人の保険金がメグミに入ったかどうかは知るよしもない。
オレの意識があったのはここまでである。