受刑者の日記
試験が終わったのをいいことに全てを忘れ、遊興に勤しむ者を私は良しとしない。そんな生き方をしてきたからだろうか、私の周りに寄りつく人間は決して多くはなかった。取り立てて気性が荒い質ではなかったが、内から湧き出す感情を察した者は私を避ける。極めて懸命な判断だと思う。そんな私にも友人と言える人が出来たのは、偏に相手の温和さによるものだろう。
大学一年生の頃だ。私には視力が無く授業を聞くことが極めて困難だった。大学は盲目の私をサポートしてくれる。しかしそれだけではやはり、授業についていくのは難しい。資料に目を通すのも私にとっては一苦労なのだ。つまるところの私の目になってくれたのが彼女、結衣だった。細かいエピソードについては割愛するが出会ってから二年、履修していた講義が重なっていたこともあってほとんど毎日離れることはなかった。
「飛鳥は恋人とか作らないの?」
結衣の耳から授業内容を聞きながら必死で考えていた私の思考を唐突な私事への質問が遮った。
「え?」
私は聞こえないふりをしていようと思ったが、思わず聞き返してしまった。
「恋人とか作らないのかなあ、と思って。その気になればすぐにできそうなのに」
この言葉を聞いて結衣にはその存在を告げていない同棲中の彼氏のことを思い出した。
「いやあ、今なそういうのはないかあ? どうして?」
私の声は動揺から少なからず上ずっていたように思う。
結衣の方からは何やら爪を噛むような音が聞こえた。彼女には爪の噛み癖があって、思い通りにならない時よく聞こえるのだ。
「別に。ちょっと気になっただけ。この間の怪我の調子はどう? 人より転げやすいんだから階段には気をつけなさいよ」
「もうほとんど問題ないよ。たぶん目が見えたらノートだって取れる」
私は冗談交じりにそう言って微笑んだ。先週彼氏と喧嘩した時、ちょっと転んで左手を捻挫したのだ。もちろん結衣には転んだことにしてある。
「飛鳥、右利きでしょ」
そう言ってこの会話は終了して講義の続きに戻った。
私が動揺したのには確かな理由があった。もちろん結衣に打ち明けていないという後ろめたさも多少はあったが、二日前から帰ってきていない彼氏のことが気になったからだ。
二日前の夕方、なんの前触れも無くいつも通りに小遣いをせびりパチンコに向かった彼氏の智和は、深夜になっても翌朝になっても帰ってくることはなかった。もちろん今日の講義にも出ていない。
「智和、今日もいないね」
私の気苦労を知ってかしらずか結衣は智和についての話題を振ってくる。私はなるべくならこのことを忘れたかった。もちろん探したい気持ちはある。だが、目の見えない私にはどうしようもなかったし、唯一助けを求められそうな結衣はこのことを知らない。
「風邪でも引いたんじゃないかな?」
わざと素っ気無く答えた。見破られるのが怖かった。
「……案外失踪してたりして」
まさかそんなドラマみたいなことはあるまい。喧嘩はするけどもすぐに仲直りはするし、そもそもの話、智和は私のヒモのようなものなのだから、出て行くメリットがない。しかし何かいやな予感がして、せめて実家に帰っているかだけでも確認したくなった。
「冗談はやめて」
そう言うと結衣はそれについて話すのをやめた。
それからの講義内容が頭に全く入ってこなかったのは言うまでもなかった。
その日の夕方、授業が済んでから智和の実家に向かった。目が見えないと言っても白杖はあるし、智和の実家までの道のりは慣れたものだ。家の前まではなんの問題も無くたどり着けた。
玄関のチャイムを鳴らすと智和によく似た声が聞こえて来る。
「はーい。ちょっと待ってねー。あ、飛鳥ちゃんどうしたの? 智和と喧嘩でもした?」
そう言って出てきたのは智和の兄、高和さんだった。声と呼び方でわかる。
「ちゃん付けはやめてくださいよ。智和いますか?」
「ん? 帰ってきてないけど――、やっぱり喧嘩か」
高和さんは少しニヤけると中へ通してくれた。
幸い二人の両親は留守だった。智和は両親と仲が良くないのだ。私はなるべく会いたくはなかった。
「あいつ帰ってないのか」
高和さんが言うには実家にも帰っていないらしい。それどころか、やはり二日前から連絡が途絶えているみたいだった。
「なにか心当たりはありませんか?」
「そう言われてもな。ほっておけばそのうち帰ってくるだろう。智和ももう子供じゃないんだし迷子ってわけでもあるまい」
そう言われると私には反論のしようがなかった。
確かに二、三日程度ならフラッと出掛けても気にすることはないかもしれない。
「失礼しました。なにかあったら連絡をください」
私は高和さんがいるであろう方向に会釈してそのまま帰路についた。
うちに帰って智和がいつも寝ている場所の布団を触った。やはりというかなんの感触もない。ただただ柔らかい布団の感触。永遠の暗闇の中でその柔らかさが残酷だった。
何時間経ったのだろう。気づいた時には眠っていたように思う。私の体は布団の上にあり顔の横には涙らしき湿った部分ができていた。次の授業は来週なので時間に追われる必要はなかったが、気になって携帯電話の時報を聞いた。
――零時。
まだ夜だったか。
今日も智和は帰ってこなかった。
私は次に結衣に電話をかけた。
二、三回コールしたのち、眠たそうな結衣の声が聞こえた。
「こんな夜中にどうしたの?」
私は智和と付き合っていること、同棲していること、今日も帰ってこなかったこと、全て隠さずありのまま伝えた。思いの外、結衣は冷静に受け止めてくれて、協力してくれることになった。
「私は知り合いに当たってみるから飛鳥は家で待ってて!」
最後に電話はそう言って切れた。
もっと早くに相談すればよかったと思った。
結衣は私にとって親友と言っても過言ではない間柄だったのに、どうして隠していたんだろう。
結衣からの連絡は案外早かった。
「私の知り合いがね、裏山の小屋で叫んでいるのを聞いたって! 今朝のことらしいからまだいるかもしれないわ! すぐに向かいましょう!」
まさかこんなにすぐに手がかりが見つかるとは思っていなかった。やはり相談して正解だったのだ。
私はすぐに家を出て結衣と待ち合わせるために近くの公園へと向かった。
正直に言うと、オーバーかもしれないがもしかしたらなんらかの事件に巻き込まれて、あるいは事故にでも巻き込まれて智和はこの世にいないかもしれないと思っていた。
だが、声が聞こえた以上生きているのは確かだ、少なくとも今朝までは……。
公園には結衣が先に来ていた。
「さあ行きましょう」
結衣は私の手を引いて歩いてくれた。
裏山と言ってもそんなに近いわけではない。歩いて麓まで三十分、さらにそこから声のしたらしい場所まではいくらかかかる。私たちはその距離をほぼ無言で歩いた。結衣は気をきかせて話題を振ってくれたが、焦っている私はそれどころではなかった。
麓についてはじめに思ったのは、いやに静かなことだ。もちろん夜中なのだから当たり前なのだが、景色で時間の判別が出来ない私にはそれがとても恐ろしく感じられた。
そこからさらに歩いて、体感で数分、結衣が歩みを止めた。
「この辺りのはずよ」
私も立ち止まり耳を澄ませてみた。
何も聞こえない。
「聞こえないね」
「そうね。ちょっと私トイレ行ってくる。迷子になるから絶対ここを離れちゃダメよ!」
結衣はそう言ってどこかへ行ってしまった。
心細い。
私にとっては街中も森の中もあるいは牢獄の中でさえ同じに感じてしまうのだが、それでも何やら言いようのない、ピリピリした緊張感のようなものを感じていた。
――と、その時だった。なにやらほんのかすかに人の声のような音が聞こえた。
「結衣?」
結衣を呼んでみたが返事はない。声の距離はそんなに遠くはなかった。
もう少し耳傾ける。
「……けて。た……くれ」
これは!
聞き間違えることはない。間違いなく智和の声だ。
私は無我夢中で声のする方へ進んだ。
白杖があると言ってもここは森の中、足場も悪ければ障害物も多い。私は一歩一歩着実に、神経をすり減らしながら歩いた。
ある程度近づいた時から気づいていたが智和の声がだんだんと弱くなっている。そして何か人工物、例えるなら木製の壁のようなのものにたどり着いた時にはもう、ほとんど聞こえなくなっていた。
結衣が戻ってくる気配はないし私はどうするか悩んだ。おそらくここの内側には智和がいる。しかも声のことを考えても何者かに危害を加えられている。
こういったことについては素人――玄人が居るなら見てみたいが――でさらに目の見えない私にできるのはとりあえずは警察に連絡することだ。
私はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、百十番を打ち込んだ。
意外なほど冷静だった。素早く場所と友人が監禁されている旨を伝えてできるだけ音が出ないように携帯をしまった。
これでできることは終わった。
いや正確にはあと一つだけある。私は最後の一手、つまりは直接助け出すことを考えていた。
さっきの声がもしかしたら最後に振り絞った声かもしれない。だとすれば今すぐでないと手遅れかもしれない。
そう考えると私はいてもたってもいられなくなった。壁伝いに扉を探しそっとドアを開けた。
建物の中はカビ臭くて何やら生臭い匂いもした。
「智和?」
私は小声で呼びかけた。
コトッ。
床が鳴る音が聞こえて足音がこちらに向かってきた。
だが、足音の主は私の呼びかけに答えなかった。
なにか危険な予感がした。足音の主は智和ではないのか?
そう考えているうちに何者かに正面からつかみ掛かられる。ガタイがいい男みたいだ。智和を監禁していたのはこの男に違いない。
私は反射的に押し返すと、持っていた白杖で何度も殴りつけた。
「智和! どこ?」
前に押し倒した男はすぐに動かなくなり、すぐにまた別の足音が聞こえた。軽い足音、女かもしれない。
私は音のした方に手を伸ばし触れたものを引き寄せた。引き寄せた時に相手の爪と思われる部分が私の服に引っかかった。小指の爪だ。
「結衣?」
「そうよ! 離して」
そう言われてやっと落ち着いた。結衣を離してすぐに尋ねた。
「智和は?」
「そこに倒れているわよ」
結衣はえらく単調な物言いだった。
私は倒れている男の手を触った。触りなれた、智和の手だ。
「よかったじゃない。こんな男いない方がよかったのよ。ヒモだし暴力は振るうし、こいつ私に手を出そうとしたのよ? こうなって当然よ」
「…………どうして……。犯人は! 犯人はどこに!」
「犯人はあなたよ飛鳥。たった今殺したじゃない。大事な大事な彼氏さんをね!」
結衣はそう言って智和の腕の強く蹴った。
私は結衣につかみかかった。
「結衣が仕組んだんだね! なぜなの!」
「今頃気づいた? もっと早く気づくと思ってたのに。この男が悪いんだよ。私が飛鳥を愛するのを邪魔建てするから! そのくせ私の誘いには軽く乗っちゃってさ。馬鹿みたいじゃない。だからね、一番飛鳥とって良くて、この男にとって辛い方法で殺してやろうと思ったのよ。まあ簡単だったけどね。あ、あと飛鳥が聞いた智和の声、録音だから。そいつの喉には穴が開けてあるから叫び声は出せないからね。でもこれで飛鳥と二人で生きていける。私が飛鳥と住んで飛鳥と寝て飛鳥を食べるの」
結衣の顔が恍惚とした表情に変わるのが声でわかる。
「でも、女の私が押しただけで智和が死ぬわけないじゃない!」
「何言ってるの? あなた男じゃない」
そうだった。どうして思い出せなかったんだろう。
私は言葉が出てこなかった。ただただ溢れ出る涙が私の代弁者だった。
初稿ですの雑です
書き直す気はありません